初めての夜
窓から見える庭は、すっかり夜の闇に染まっている。日中の宴は幻だったのかと思えるほどに。
一連の行事を無事に終えると、公爵夫人のものとして用意された部屋へ通された。新しい調度品は、どれもシュトラールの職人の手によるもので、その豪華さに圧倒されるほどだ。
既に化粧は落とし、髪も解かれ、ドレスも宝飾品も花もコルセットも、すべてこの身を離れた。無防備な姿で、長椅子に腰かけながら読書をしてみる。
とはいっても、ページをめくる手がかすかに震えてしまう。室内があまりにも静かで、自分の心臓の音がはっきりと聞こえてしまいそうだ。
これからテオフリートさまがいらっしゃる――夫として。
今日、わたくしたちは正式な夫婦となった。その事実に改めて胸がざわめく。
一年前よりも自信がついたと言っても、それはテオフリートさまたちが用意してくれた装いの助けがあったからだ。鏡に映る別人のような自分を見なかったら、どんなに言葉を尽くされても決して変われなかっただろう。
今はどうだろうか。身にまとうのは寝間着のみ。湯浴みのときにつけてもらった香油が微かに漂うだけで、なんの装飾もつけていない。
これから、そのままのわたくしで、テオフリートさまと向き合わなければならない。
今まで彼から受け取った言葉のひとつひとつを思い返す。わたくしの性格も把握したうえで、領地に必要な存在だと妻に望んでくれた。今日まで大切にしてくれて――。
それでもわずかな不安が、胸の底を転がっている。
この一年間の自分にとって支えだったものを、何も着けていないからだろうか。なんだか魔法がとけたみたいな気分になる。
「奥さま、旦那さまがお見えになりますよ」
フィリスがそっと告げてきた。わたくしは慌てて本を閉じた。
奥さまだなんて、慣れない呼ばれ方にいっそう緊張が高まる。
「……わかりました」
何度も呼吸を繰り返してから、小さく頷いた。
しばらくして、テオフリートさまが部屋に入ってきた。彼も寛いだ格好をしている。もちろん、婚約してからも決して見たことのない姿だ。
改めて、なんの飾り気のない自分の格好を意識して、つい顔を背けてしまう。
「何を読んでいたんだ?」
テオフリートさまは隣に腰を下ろすと、わたくしの手の中にある本へ視線を向ける。
「書庫にあった、シュトラールの興りを記したものです。明日から公爵夫人として振る舞わなければなりませんから」
緊張で、内容が全然頭に入ってこなかったけれど。
「こんな夜でも勉強か。君らしい」
彼は小さく肩を震わせる。
「さて、そろそろこちらを見てくれてもいいのではないか、新婦どの」
「……!」
そっと肩を抱かれる。今までも身体に触れられたことがあるとはいえ、今は薄い布ごしに伝わる体温をやけに意識してしまう。
「緊張しているのか?」
テオフリートさまはわたくしの耳元に唇を寄せて、楽しそうに囁く。
緊張なんて、しているに決まっている。
「……テオフリートさまは、いつもどおりですね」
「そう感じるのか。君は……まるで昨年に戻ったかのようだな」
「それは――」
今こうして薄着の姿を晒しているだけでも恥ずかしいのに。
「そんなに怖いか?」
「いえ……ただ、つい弱気になってしまって」
今のわたくしには、ドレスも宝飾品もない。肌と髪を整えただけで、化粧もしていない。どれだけ着飾って自信をつけようと、今は過去とさほど変わらない出で立ちだ。
そんな本音をこぼすわたくしの顎を、テオフリートさまは指先で持ち上げる。瑞々しい菫色の瞳に、情けない顔が映っていた。
「アリアドネ……私たちはずっとすれ違っていたのではないか?」
彼の言葉に、時が止まったかのような静寂が訪れる。
「すれ違い、ですか?」
「確かに私は、君の容姿を引き立てるような装いをたくさん手がけた。元のドレスが似合っていなかったのは事実だが、素の君が魅力的ではないと言った覚えはない」
驚きの声は、テオフリートさまの唇に封じられた。そして、ゆっくり顔を離しながら、彼は頬を撫でてくる。
「生真面目で、人目を気にするくせに妙なところで意思の強さを見せる……そんな君に惹かれたとは、まだ納得してくれていなかったのか?」
悪戯っぽい笑みで首を傾げられ、わたくしは余計に混乱する。
「それは……魅力的と言えるのでしょうか?」
たびたび面白がられているのは自覚しているけれど……。
混乱するわたくしを見つめ、テオフリートさまは目を細める。
「求婚の日に交わした会話は覚えているだろうか」
「ええと……」
「私が君の一喝事件を口にしたことだ」
――君がデビューしたてのころ、他のご令嬢を一喝した件で惚れた、と言っても?
「あ……!」
どうして今さらここでそんな話を――問いたくても、また唇を塞がれてしまう。
あれは、ご冗談で話されたのでは?
何度も口づけられて、考えがまとまらない。ただ戸惑いが広がっていくばかりだ。
「あのときは、君があまりに気にしすぎていたから、つい話を逸らしてしまったが」
口づけの合間に、指先を握られる。
「曖昧な噂話と嘲笑を聞き流さず、はっきりと物申す。あのときの凜とした佇まいに、つい目を奪われた。この言葉、今なら信じてもらえるか?」
彼の唇が、指輪をはめたわたくしの手に移った。甘やかな刺激が生まれ、反射的に身をすくめてしまう。
「それなのに君ときたら、あの件以来、ずっと背を丸めて憂鬱な顔ばかりで」
「で、ですが……あの後、母から注意を受けましたし、礼儀に反していたのは事実です」
「たとえ親しくなくても、誰かが笑いものにされているのを放っておけなかったのだろう? その心根を好ましいと思った」
そう思われていたなんて。てっきり、まだ社交界に慣れていないわたくしの振る舞いに苦笑されたのだと……。
「君のエスコートを申し出たのは、またあのときのように、自信のない表情をせず堂々とする姿を見たかったからだ。だから……今ここに君を飾るドレスや宝飾品があろうとなかろうと、私の気持ちは変わらない」
真摯な声に胸を打たれる。何か言葉を返さなくてはと思っていても、視界がにじんでいくばかりで声にならない。
「また泣かせてしまったな」
テオフリートさまは、そっと指先でわたくしの涙を拭う。
「いろいろと言葉を尽くしたつもりになっていたが、きちんと伝わっていなかったのなら申し訳ない」
「いえ、わたくしがずっと頑なに思い込んでいたせいです……テオフリートさまがわたくしを、ひとりの女性として好ましく思うはずがないと」
彼はいつも言葉にしてくれていた。それを、自分で勝手に理由をつけて、別の意味に捉えていただけだ。
「お恥ずかしい……一年以上も勘違いしていたなんて。あれほど自信を持つように励ましていただいたのに、心の底では変われないままでした」
肩を落とすわたくしに、テオフリートさまは笑い声をあげる。
「内省的な君も好きだからいい……これは前に告げただろうか?」
「……はい」
確か、婚約したばかりのころに。あれは励ましだと解釈していた。
「君には散々あれこれ言ったが、実は私こそ自信を持てないことがひとつある」
「え?」
いつも余裕に満ちた様子のテオフリートさまが?
彼が自嘲まじりの表情で、菫色の瞳をこちらに向けた。
「アリアドネ……君の気持ちだ」
「わたくしの?」
「ああ。君を喜ばせること、妻にすることには成功したが、それは領地の総力を投じた結果に過ぎない。恩は感じてくれていると思うが、ひとりの男性として好いてもらっているかいまだにわからない」
そういえば……。ほのかに冷たいものが、わたくしの背中を走る。
婚約が決まって以来、充分すぎるご厚意と優しさに感謝してはいたけれど――。
「内心、ドレスを贈ると提案したときも求婚したときも不安だった。押しつけがましい、調子に乗るな、と拒まれるのではないかと」
「そのようなことは、決して……!」
慌てて首を横に振りながら、あの夜に交わした会話をもうひとつ思い出す。
――……他に想う相手がいるか?
――い、いえ、まったくおりませんが。
――ならば、安心した。さすがに君の心までは変えられないから。
こうして彼の気持ちを知った今だと、まったく違う印象になる。ずっとすれ違っていたのだと思うと、過去に戻りたくて仕方ない。
頂いた言葉のひとつひとつをもっと大事に噛みしめたかった。恋心に蓋をして、どの言葉も真に受けないようにしていた自分の愚かさが悔やまれる。
「テオフリートさまは、領地の発展のためにわたくしを選んだと思っておりました。だから……想いを寄せたらむしろ困らせるだけではないかと……」
大きなため息が、テオフリートさまの唇から漏れる。
「君を納得させるためにそう言ったのは確かだが……。君は、私が愛してもいない相手に浮かれた言葉を吐いたり、やたら口づけをしたりするような男だと思っていたのか?」
申し訳ございません……。領地のためなら、そうした演出さえも厭わないとは思っておりました。
「君の眼差しが熱を帯びたように見えることもあれば、どれほど愛情を示してもたいして気に留めないような素振りになったり……内心、非常に翻弄されていた」
ずっと自分が翻弄される側だと思っていたから、そうした告白を受け止めきれない。
彼は額にかかったわたくしの髪を、指先でそっと払う。
「アリアドネ……私たちは今日、夫婦となった。私がこうして本音を明かした分、君の気持ちも改めて聞かせてくれないか」
自分の感情をさらけ出すのはまだ照れが残る。けれども、彼が言ったように、わたくしたちはもう夫婦なのだ。ためらう理由なんてない。
「初めてエスコートをしてくださった夜……このまま時間が止まればと何度も思いました。ドレスや宝飾品以上に、あなたの優しさや励ましが嬉しくて……」
当時は、身のほど知らずだと封じていた想い。言葉にするだけで、勝手に鼓動が速くなってしまう。
本当は、ずっと言いたかった。
「テオフリートさまをお慕いしておりました……。求婚していただく前から」
菫色の目をまっすぐ見つめながら、わたくしははっきりと伝える。
次の瞬間、強く抱きしめられた。
「ずっと、その言葉を待ちわびていた」
また何度も口づけられる。呼吸もできないほどに。
「我々はどうも肝心なところで言葉が足りなかったようだな」
額を合わせながら、テオフリートさまは苦笑する。
「今夜は、私がどれだけ君を想っているのか、存分に伝えよう」
今聞こえている鼓動が、自分のものなのか彼のものなのかも、もはやわからない。
何度も口づけを交わし、触れ合ってきたけれど、正式な夫婦として認められた日の夜になって、ようやく心がひとつに重なったのを感じる。
これまでの時間を全て取り戻すように、この晩、わたくしたちは互いの愛をいつまでも伝え合った。
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