温かな風景

 いつもは社交期にしかお目にかからないから、ヘルミーネさまの寒い時期の装いを初めて見る。

 明るい珊瑚色のドレスに、金糸で華麗な刺繍を施したケープを羽織っていた。栗色の髪には、ドレスと同系色のリボンが編み込まれている。

 相変わらず、完成度の高い装いだ。テオフリートさまのおかげで目が肥えたからこそ、改めて彼女の服飾の素晴らしさに感嘆する。

 秋にしては重厚な生地をまとっているから、早くも冬に意識を向けているのかもしれない。これが流行の発信者というものか。

「やあ、ヘルミーネ嬢。アインホルンの集いは終わったのか?」

「ええ、ようやく昨日で解放されましたの。お二人もこちらへいらしていたとは知りませんでした」

「婚礼衣装の打ち合わせで、彼女が一昨日到着したばかりでね」

 テオフリートがわたくしの肩をしっかりと抱き寄せる。

「お変わりないようで何よりです。アインホルンの集いでも、テオフリートさまの溺愛ぶりが話題になっていましたわ」

 悲鳴が喉まで出かかった。

 アインホルンは、公爵家の中でも特に格が高い。毎年秋になると、国中に散った一族が都に集まって盛大な宴が催されるという。そこで話に出るなんて恐ろしすぎる。

「そちらの方々にも知れ渡っているとは、さすがに照れるな」

 彼がまったく照れていないことは、声の調子から窺えた。むしろもっと話題にしてほしいとさえ思っていそうだ。

「今年はどなたとお会いしても、お二人の話ばかりでしたのよ。次の社交期が楽しみですわね。きっと皆、競うようにお招きしたがるでしょうから」

 ヘルミーネさまは唇で美しい弧を作り、ご自分の馬車に乗り込んだ。彼女のお友達もそれに続く。

 そして、テオフリートさまに促されたわたくしは店内へと進んだ。


「先ほどのヘルミーネさまの装いは素晴らしかったですね。冬を先取りしていらっしゃるのでしょうか。店先でなければ、いろいろとお話を――」

 席についたあとも、彼女のことばかり話しながら、ふと我に返る。

 初めてのティーハウスなのに、そうした感動をテオフリートさまへまったく伝えられていない。

「失礼いたしました。せっかく連れてきていただいたのに、また別の話を……」

「いや、君が楽しそうにしていれば、それで充分だ」

 優しい婚約者を持てて、わたくしこそ幸せではないかと思う。

 あらかじめ支度を整えていたのか、すぐに温かなお茶と茶菓子が運ばれてきた。

「あ……」

 茶菓子を口にした瞬間、自然と声が出てしまう。見た目が可愛らしいだけでなく、適度な甘さが心地よい。菓子職人のこだわりを感じる。

 くすりと笑う声がして顔を上げると、穏やかな菫色の瞳に見つめられていた。

「こうした店で楽しむのも、いいものだろう?」

「はい。社交のお茶会はいつも緊張して、あまりよく味わえないので」

 初めての場所ではあるけれど、このお方と二人きりであれば気楽に過ごせる――そう思った瞬間、カップに伸ばしかけた手が止まった。

「どうした?」

「いえ……婚約したころは二人きりでいると緊張していたのに……むしろ今ではすっかり落ち着くと言いますか……」

 彼の言葉や視線、行動になかなか慣れないと思っていたはずなのに。

「……そうか」

 テオフリートさまの顔がゆっくりと綻んでいった。

「私も、君とこうして過ごす時間は好きだ。共に暮らすようになれば、屋敷の食卓でも同じように彩りが生まれるだろうな」

 シュトラール公爵邸に使用人はたくさんいても、彼にはもうご家族がいない。平時は、一人で食事をしているのだろうか。

 家によっては大人と子どもで食事を分けたりするけれど、我が家は全員で食事をとるようにしている。そのせいか、顔を合わせていないときのご様子が気にかかった。

 社交とは関係なく、二人で会話や料理を楽しみながら穏やかに過ごせたらいいのに……。

 結婚後の生活を具体的に思い浮かべてしまい、急に面映ゆくなった。


「そういえば、ヘルミーネ嬢とはどれくらい親しいのだ?」

「社交の場でご一緒したときは、必ずご挨拶しますが」

 ヘルミーネさまはいつも彼女を慕う人に囲まれている。わたくしなど、その他大勢にすぎないだろう。

 同じ年に社交界デビューしたイーリスは、それなりにお付き合いがあるようだけど……。

「ヘルミーネさまは気配りがお上手ですから、お傍にいれば話を振ってくださいます。ただ、ご面倒をおかけするのが申し訳なくて、最近はご挨拶だけして離れるようにしておりました」

 彼女と一番長く言葉を交わしたのは、婚約披露のときではないだろうか。

「ああ、そういうことか」

 テオフリートさまはカップに口をつけながら、何かを考え込む素振りを見せた。

「どうされました?」

「私は君を社交界の花にすると宣言したが、別にヘルミーネ嬢に取って代わってほしいわけではない。できれば、彼女と君で、違った系統の装いをそれぞれ打ち出すのが理想だ」

 それを聞いて安心する自分がいた。

「そうなればよいと、わたくしも思います」

 いくら多少自信がついたとはいえ、あのお方を超えられるわけがない。それに、ヘルミーネさま好みの装いが減ってしまうのも寂しい。

「幸い、彼女は君をさほど警戒していないようだし、来年の社交期はできるだけ親しくしてほしい。君自ら友人と呼べるほどに」

「……!」

 このお方は、流行の最先端を追求するあまり、過去を忘れてしまっていないだろうか。

 正真正銘、社交界の花として君臨するヘルミーネさま。対して、いつも自信がなくて壁の花でいることを貫いていたわたくし。テオフリートさまに声をかけていただくまでは、薄い関わりしか持てなかった。

 いくらなんでも、わたくしが友人と呼ぶなんて図々しすぎる。あんなにお友達がたくさんいるヘルミーネさまなのだから。

「ヘルミーネ嬢はシュトラールの上得意客だ。ただ、シュトラールには公爵家令嬢である彼女と対等に話せる人間がいない。彼女も私も未婚で、深く関わるわけにはいかなかったからな。なにせ、アインホルンは彼女を王族かそれに違い血筋に嫁がせたがっている」

「ああ、それで……」

 テオフリートさまとヘルミーネさまは、さほどよそよそしい関係には見えない。けれども、初めてエスコートを受けた夜、わたくしが彼女の装いを選んではと提案したとき、彼はやんわりと避けた。

 あのときは、そうした事情があるなんて考えもしなかった。

 なんだか、また過去の自分が恥ずかしくなってくるような……。

「彼女は聡い。何が自分に似合うのか、職人にどう注文すれば期待どおりのものが仕上がるのかをよく理解している。あまり心配する必要はないかもしれないが、もしも何かに迷っているときは君が公爵夫人として力になってくれるとありがたい」

 心配する必要はなさそう、というのは同意だ。

 けれど、いつかヘルミーネさまのお役に立てたなら嬉しい。貴族令嬢の異物であったわたくしにも、いつも分け隔てなく親切にしてくださっていたのだから。

「はい、そのときは必ず」


 店を出ると、冷たい風が吹きつける。身も心も温まったはずが、とっさに身を縮めた。

「寒くなってきたな」

 テオフリートさまは灰色の空を見上げた。

 時の流れは早い。あの衝撃的な初夏の夜が、とても遠く感じてしまう。

「体調を崩すといけない。早めに帰ろう」

 テオフリートさまはわたくしの手を取り、颯爽と馬車に乗せた。

 窓の向こうで、晩秋の街並みが流れていく。

「もう少し前なら、ブルリンクの庭園で美しい紅葉が見られたのだが」

 ブルリンク――その名を聞くと、おのずと初めて口づけした日の記憶がよみがえる。思えばあれから数えきれないほど唇を重ねてきた。

 かすかなくすぐったさを感じながら、重たげな色の曇り空を見上げる。

「あそこなら、雪景色の眺めも素敵でしょうね」

「ああ、いつか君に見せたい。今回は間に合わないだろうが……」

 こうして話していると、もう残された時間が少ないのを実感してしまう。また離ればなれになるのだと、胸に寂しさが訪れた。

「アリアドネ」

 名を呼ばれ、気づけば正面にいたテオフリートさまが隣に座っていた。

「……冷えたか?」

「いえ、なんでもありません」

 それでも彼は心配そうに顔を覗き込んできて――。

「……!」

 抱きしめられると同時に唇が触れ合い、ゆっくりと離れていく。どれだけ繰り返しても、やはり慣れきるのはまだまだ先だ、と心音が告げてくる。

「フロイトの者に、この時期の都の寒さは堪えるだろう。今夜は充分温かくして過ごしてくれ」

 その後、屋敷に着くまでずっと、テオフリートさまに抱きしめられたままだった。温まるのを通り越して、熱が出るかと思った。

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