春の訪れ
フロイトの大地を覆っていた雪が解け、瑞々しい土が現れた。
待ちわびた春が、ようやく訪れようとしている。知らず知らずのうちに、表情が緩んでしまう。
「アリアドネお姉さま、もう都に行ってしまうの?」
幼い弟妹は揃って口を尖らせる。わたくしは、アレクシスとイレーネの頭を順番に撫でた。
「シュトラール公とのお話があるから、わたくしだけ先にね」
「……去年はあんなに嫌がってたのに」
アレクシスは不満げな視線を向けてくる。
「本当に、自分でも不思議な気分になるわ」
たった一年で、都へ行く気持ちがこんなにも変わるなんて。
フロイト侯爵家の娘として、この田園風景を眺めるのも最後になる。とても名残惜しいものの、あのお方に会いたい気持ちが勝ってしまう。
今年の冬はとても長く感じた。
本来はどこかでもう一度、婚礼衣装の打ち合わせできるはずだった。けれども、都が記録的な大雪に見舞われ、彼からフロイトに留まっているように言われてしまったのだ。
代わりに、何度か手紙をやりとりした。わたくしは結局、愛や恋を淑女らしく綴れないまま。テオフリートさまも相変わらずで、情熱的な言葉をたくさん連ねた手紙を送ってきた。
古典や歌劇を踏まえた文中に、都に住まう貴族や富豪の関心ごとや、婚礼準備の進捗が巧みに挟まれているから、まるで暗号を解読する気分になった。
「そんなにシュトラール公のことがお好きなの? フロイトよりも?」
「アレクシス、問わずともわかりきっていることよ」
いつの間にかイーリスが傍に立っていた。
「二人とも、わがままを言わないこと。お姉さまはこれから、この国で最も幸せな貴婦人になるのだから」
それはさすがに言い過ぎではないだろうか。……幸せなのは事実だけど。
わたくしは、二人の小さな手を握る。
「アレクシスもイレーネも、都へ来たときはシュトラール公にきちんとご挨拶できるよう、練習しておいてね」
「はーい」
渋々といった二重唱に、イーリスと顔を見合わせて笑ってしまった。
途中、雪解けの影響で道が悪くなっている場所があり、都へ上がるのにいつもより数日余計にかかってしまった。
わたくしの北上がゆっくりとしていたせいか、都にも冬の終わりの気配が漂っている。
到着を知らせると、やはりテオフリートさまはすぐに訪ねてきてくれた。二人で庭に出ると、前年増やした花壇がすっかり立派になっていた。
「君が春を連れてきてくれたようだな」
芽吹きはじめた草木に、テオフリートさまは目を細める。
こうした言い回しがさらりと出てくるのが彼らしい。わたくしももっと語彙を増やさなければ。
「花の盛りが楽しみですね。ブルリンクの庭園も……そのうち訪れたいものです」
「じきにミモザが咲く。人が増えないうちに二人きりで愛でよう」
近々の約束ができる――それだけで嬉しくなってしまう自分がいる。
「シュトラールの皆は元気ですか?」
「ああ。元気に仕事をしてくれている」
これは安心していい言葉なのだろうか。
冬の間、多くの注文をこなしながら、わたくしの婚礼衣装制作に追われていたに違いない。感謝と申し訳なさが入り混じる。
「今回は思いがけず長旅になってしまっただろう。今年の装いの打ち合わせは、数日経ってからにしようと思っているが……」
「せっかく早めに来ようとしたのに到着が遅れてしまって、時間がもったいないと思っておりました。今日でも構わないくらいです」
わたくしの返事に、彼の菫色の瞳が柔らかな曲線に縁取られる。
「我が婚約者どのは実に頼もしい。無理をさせるつもりはないが、その気持ちは頂こう」
今回はお父さまもお母さまも不在だ。互いの家の中は避けて、シュトラールの工房街へ向かう。
一番広い部屋を持っているということで、今回もバルドゥルの工房に職人たちが集まる形になった。
「アリアドネさま、お久しゅうございます」
先に到着していたフィリスが出迎えてくれた。ただ、微笑んでくれているのに、なんだか悲しげに見える。
「大変な旅だったのですね……」
彼女の視線にぎくりとする。フロイトから同行した侍女が手を尽くしてくれたものの、やはり髪や肌に影響が出てしまったのだ。
「早めにいらしていただけてよかったです。今からお手入れを入念に行えば、社交期開始には間に合うでしょうから」
毎回、誰かに面倒をかけてしまっている気がする。
「今日は初日の装いを決めるだけにしよう」
そう言いつつ、たくさんのドレスと宝飾品が運び込まれる。シュトラールはどれだけ準備していたのだろう……。
いつの間にかゲルデもやってきており、他の仕立屋やデザイナーと一緒に、ドレスの塊の中からいくつかを取り出して並べる。
「アリアドネさまにとっては、未婚女性としての最後の春です。まずは若い女性らしさを出したいと思っております」
ゲルデの言葉に、シュトラールの人々は一斉に頷く。
彼女たちが選んだのは、どれも薄い色だ。昨年のドレスは濃くてはっきりとした色が多かったから、意表を突かれる。
「ご安心ください。お肌に映えますので」
心を読まれている。苦笑しながら、薄紅色の一着を手に取って体に当ててみた。
「……本当だわ」
淡い色には散々悩まされたはずなのに、鏡の中の自分にしっくりと馴染んだ。
「こういった透明感のあるお色なら、お似合いになります」
フィリスが優しい声で補足してくれる。
「ドレスの形は、昨年同様、縦の線が美しく見えるようにしております」
「ゲルデ、胸のあたりがかなり開いているように見えるのだけど……」
両の肩から鎖骨の下に向かって、斜めに切られている。鋭角にして、わざと胸元を見せるような作りだ。
とっさにテオフリートさまを見ると、無言の微笑みが返ってきた。
「身につければ、そこまで気になりません。どうぞお試しください」
はっきりと言い切るゲルデと柔らかな微笑みのフィリスに挟まれる。有無を言わさず、そのまま別室へと連行された。
結論から言えば、ゲルデは正しかった。
いざ身にまとうと、胸元の切れ込みはそこまで深くならなかった。これなら胸の露出を強調しているようには見えないだろう。もちろん背を丸める必要はない。
腰から裾にかけてはなだらかな広がり。縦の線を強調するひだのせいか、全体的にすっきりとした形をしている。
動くたびに、大粒の輝きを散らしたような光沢が美しく映えた。
「いかがですか、アリアドネさま?」
「完璧だわ……」
ほら、と言わんばかりにゲルデは胸を張る。
早速テオフリートさまに見せに行くと、優しい笑みが待ってくれた。
「まさに、春の化身だな。君自身が花のようだ」
これは、また何かからの引用なのか、あるいはシュトラールの方言だったりするのだろうか。いつまで経っても、多大な褒め言葉を受け止めきれずにいる。
「旦那さま、ドレスの装飾は増やしますか?」
「この軽やかさを生かしたいと思っている。宝飾品との調和を見てから決めよう」
テオフリートさまやゲルデたちの相談が始まると、わたくしはただ話を聞くことしかできなくなる。まだ勉強中の身だ。
「首飾りは、こちらを使えたらと思っております」
フィリスがバルドゥルから首飾りを受け取って、わたくしの首にまとわせる。少し長めのペンダントに見えるけれど、後ろに留め具がない。
華奢な鎖の片端が装飾的な輪になっており、前で留めるようにできている。もう片端には細長い飾りが付いていて、輪に通して下げると綺麗に収まった。
よく見ると、鎖のところどころに砕いたダイヤモンドがはめ込まれていた。観察すればするほど、手の込んだ品だとわかる。
合わせた瞬間、周囲の人々が一斉に納得したような息を吐いた。
「これはバルドゥルの弟子の案だ」
テオフリートさまの言葉に、部屋の隅にいた男性が一礼してくる。わたくしとあまり変わらない年代で、かなり緊張しているようだった。
彼に優しい眼差しを向けながら、バルドゥルが口の片端を上げた。
「私はずっと、豪奢さを競うような宝飾品ばかり作っておりましたから。これほど思い切りよく削ぎ落した形は、なかなか思いつきませんでした。最初に案を聞いたときは、懐疑的だったのですが……」
単独で見ると、やや寂しいデザインかもしれない。けれども、実際に身につけてみると、とても上品な印象になった。
「素敵……」
鏡で確かめると同時に、ため息がこぼれる。背後で、若い職人たちがこっそり先ほどの青年の肩を叩いた。
「やったな、ヴィム」
ヴィムは誇らしげに表情を崩した。こちらまで嬉しくなってしまうような顔だった。
そちらに気に取られているうちにフィリスが寄ってくる。
「旦那さま、髪型はいかがなさいますか?」
「春の始まりを告げる宴だ。ドレスの色に合わせて、何か花を飾れたらいいと思っている」
「生花なら庭師と相談ですね。ほどよく綺麗に咲いてくれたらいいのですが」
すると、別の侍女や職人がやる気に満ちた様子で口を開いた。
「春の花を象った細工品もいくつか見繕っております。いかがでしょうか?」
「もしもこれを使うとしたら、斜めに編み込んで――」
皆の話を聞き漏らさないよう、必死に耳を傾ける。けれども、シュトラールの人々は熱中すると早口になる。途中までは追えていたものの、そのうち振り落とされてしまった。
「当日は、春の盛りですからね。華やかにまいりましょう」
「春の初回で、人々の心を掴まないと」
肌寒さが残っているような時期でも、彼らの意識は完全に春真っ盛りの中にある。
まだ初回の衣装を決めるだけなのに。熱烈な議論を聞きながら、いかに彼らがこの春にかけているのかを思い知った。
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