フロイトへの帰還

「ついにここまで来たのね」

 馬車の窓を覗きながら、イーリスが明るい声を出す。

 都から南下すること半月と少し、ようやくフロイトの屋敷が見えた。

「ずいぶんと久しぶりに感じるわ」

 感慨深さに浸りながら、慣れ親しんだ屋根の形を眺めた。

 冬の終わりに都へ出発したときは憂鬱で、この地を離れがたかったことを思い出す。そのときはまさか自分の結婚が決まるなんて夢にも思っていなかった。

 屋敷に着くと、可愛いお出迎えを受けた。

「アリアドネお姉さま、ご婚約おめでとうございます」

 留守番をしていた弟のアレクシスと末の妹イレーネが、両手いっぱいの花を捧げてくる。

「ありがとう、二人とも」

 順番に頭を撫でると、くすぐったそうにした。しばらく会わないうちに、どちらも大きくなった気がする。アレクシスは九歳、イレーネは八歳。これからもっと育つだろう。

「お姉さま、シュトラール公ってお偉いの?」

 イレーネはわたくしに抱きつきながら、きらきらした瞳を見上げてくる。

「とてもご立派な方よ」

「この国で一番の殿方だわ」

 なぜかイーリスのほうが胸を張って、補足を入れる。

「でも、僕はイーリスお姉さまのほうが先に嫁がれると思った」

 ぽつりとアレクシスがこぼす。率直な弟の言葉に、自虐の笑みがこぼれる。

「わたくしも、そう思っていたわ」

 都に数ヶ月いただけで、自分を取り巻く世界は大きく変わってしまった。同時に、幼い弟妹、室内、使用人たち……故郷のすべてがとても懐かしく感じた。

「今日は客人もない。久々に、家族全員で食事を取ろう」

 お父さまの言葉に、アレクシスとイレーネは元気な声で返事をする。都の滞在がようやく終わったのを実感した。


 晩餐の時間までの間、わたくしの私室に弟妹が集まった。四人揃うのは久しぶりで、アレクシスとイレーネはぴったりとくっついてくる。

 婚約指輪を見せると、イレーネが大きな目を輝かせた。わたくしとイーリスは視線を交わしながら頬を緩める。

「アリアドネお姉さまとは、結婚したらもう会えないの?」

「まさか。イレーネが都に来れば、そのときに会えるわよ」

「でも、都って怖い場所なのでしょう? アリアドネお姉さま、いつも嫌がってたもの」

 イレーネの言葉に、イーリスが吹き出した。

 今年も去年も、都へ発つときは、お母さまに説得されながら渋々馬車に乗り込んでいた。寂しがるアレクシスとイレーネを抱きしめ、「本当はフロイトにいたい」と目に涙を浮かべながら言ったものだ。

 都を知らぬ二人に、偏見を与えてしまった。天井を仰ぎながら、これまでの態度を猛省する。

「先日までは、怖くて仕方のない場所だったわ。けれど、わたくしの婚約者の――」

 そこで一度言葉を切ってしまう。弟妹相手とはいえ、あのお方が自分の婚約者だと口にするのは、今でもなんとなく照れが出てしまう。

「……シュトラール公が、素敵な景色をたくさん見せてくださったの。そうしたら、すっかり都が好きになったわ。きっと、イレーネもアレクシスも気に入ると思うわよ」

 そう語るわたくしに、イーリスは満面の笑みを浮かべる。大まかな経緯を知られているせいか、どうも落ち着かない。

「来年の結婚式は、二人にも出てもらいたいの。そのとき、都を案内するわね」

「いいの?」

 二人は揃って目を輝かせる。

 幼い子どもは社交界――大人の世界に姿を見せないのが決まりだ。

 都に拠点を置く貴族や富豪なら、幼いころから周囲と交流が持てる。一方、フロイトのような地方貴族は、他の貴族の子女にあまり接することなく育つ。特に、女性の場合は、寄宿学校へ行く男性とは違って社交界デビューまで表に出ないことも珍しくない。

 ただし、近親者の慶事は例外で、婚儀に花を添える役目を担うこともある。わたくしたちのときも、アレクシスとイレーネに活躍してもらう予定だった。

「きっとこの国で一番煌びやかな婚儀になるわよ」

 イーリスは今から楽しみで仕方ない様子でいる。彼女には、花嫁の付き添い役の筆頭をお願いしてある。きっと、花婿側の付き添いはツェーフィルさまが筆頭になるだろう。

 ああ、早くそのときが訪れたらいいのに。

「都に行ったら、テオフリートさまにご挨拶しましょうね。あのお方も、二人に会いたがっていらっしゃったから」

 そう声をかけると、アレクシスが首を傾げた。

「なんだか、アリアドネお姉さまが別の人に見える」

「え、そうかしら……?」

 浮かれすぎに見えるとか?

 自分がどんな表情や振る舞いをしているのか、まったく意識していなかった。

「ふんわり笑ってるから」

 その指摘に、虚を突かれる。

 振り返れば、社交界デビュー前は、長女として弟妹の見本となるべく自分を律していた。デビュー後は社交に苦しむばかり。特に二人の前では、気を抜いて笑う姿をあまり見せていなかったかもしれない。

 もしもわたくしが変わったとすれば、テオフリートさまのおかげだろう。

 しみじみ感じていると、使用人たちが晩餐の時間を告げにやってきた。三人は支度をしに、一度自室に戻る――はずがイーリスだけは足を止めて、こう囁いてきた。

「愛する婚約者と離れて、寂しくはありませんか?」

 からかうような口調。わたくしは諭すように彼女の肩を叩いた。

「社交期の半ばまでは、まともに言葉を交わすことさえなかったのよ。今さら離れたところで……」

 そう。少し前までは、あのお方が傍にいないのが当たり前の日常を送っていた。しかし、あの晩からすっかりわたくしの世界は変わってしまった。

 早く会いたい。今すぐにでも。フロイトに戻れたのは嬉しいものの、やはりあのお方のお傍にいたい。

 心が軋んで、口をつぐんでしまう。すると、イーリスは笑みを深めた。

「やはり、お寂しいのですね。あれほど溺愛されて、熱烈なお別れの挨拶までされたくらいですから」

 そういえば、彼女にあの場面を見られていたのだ。長い間触れ合った唇の感触を思い出し、顔が熱くなる。

「で……溺愛だなんて、されていないわ」

 テオフリートさまは、領地発展のために、幸せな婚約を演出しているに過ぎないのだから。

 何も知らないイーリスは、呆れたように肩をすくめた。

「あれが溺愛でないと仰るなら、お姉さまは贅沢ですこと。まだ足りないと?」

「いえ、充分すぎるほどのことはしていただいて……」

「でしょう? もう、貴族女性の間で、テオフリートさまとお姉さまのことが話題にならない日はありませんでしたもの。シュトラール公が街中で婚約者を抱きしめていただの、口づけを交わしていただの」

 テオフリートさまの策略で、あえて人目につくようにしているとはいえ、こうして身内に言われると本当に恥ずかしい。

 真実を告げたいものの、彼女には社交下手な姉の代わりに話を広めてもらう必要があるので耐えるしかない。

「……あの、イーリス。ふしだらだとか、眉をひそめる方々もいらっしゃったのでは?」

「ご安心ください。皆、テオフリートさまの溺愛ぶりとお姉さまの素敵な装いに胸をときめかせていますもの」

 順調すぎるほど、彼が狙ったとおりの結果を得ている。それが唯一の救いだった。


 秋が迫り、狩猟の季節に入った。フロイトの狩り場には、いつになく他領の方々がやってきた。

 例年は両親に任せきりだったけれど、今年は自分もできるかぎり客人たちの応対をした。

 婚約の影響でドレスや宝飾品の注文が相次ぎ、シュトラールはかつてないほど活気づいているらしい。テオフリートさまは狩猟どころでなく、今年はシュトラールと都を行ったり来たりするのが精いっぱいだという。喜ばしいけれど少し残念だった。

 狩猟の合間に、お隣のご領主とお父さまが、「シュトラールとフロイトの間に街道を作ろうか」と冗談で盛り上がっていたけれど、本当にそうなったらどんなにいいことか。

「上のお嬢さまは見違えるほど綺麗になられて……」

 そうした言葉をかけられるたびに、悠然と微笑みを作る。都を離れても、シュトラール公爵の婚約者という役割を果たすために背中を丸めてはいられなかった。

 身にまとう秋のドレスは、狩猟の解禁に合わせてシュトラールから届けられたものだ――テオフリートさまの手紙と共に。

 こちらの家族に見られることを想定しているのか、手紙には愛情と切なさに満ちた言葉が所狭しと並んでいた。古典からの引用が巧みに織り交ざっていて、教養深さとは何かを思い知らされる。

 その間に紛れるように、婚儀用のドレスや宝飾品の制作は順調なこと、秋の終わりに都で仮縫いしたドレスの試着を行ってほしいことが書かれていた。

 ようやくお会いできる……。

 秋の終わりを待ち遠しく思いながら、了承のお返事を送った。会わない間に起きた些細な出来事をあれこれと綴っていたら、とんでもなく長くなってしまった。しかも、その文面は、役人が出す報告書のような内容になってしまう始末。

 異性への手紙の書き方なんて、皆どこで習うのだろう。

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