第二章
来年に向けて
空が赤く染まるころになり、ようやく婚約披露の宴はお開きとなった。
出席者を全員見送ると、お父さまは大きなため息をついた。
「ああ、やっと終わった……」
シュトラール公爵の婚約披露のため、普段はあまり親しくない方々も大勢訪れた。お父さまとしても一苦労だっただろう。
「今回、つくづく思い知りました。アリアドネはあなたに似たのだと」
お母さまはこめかみに手をやりながら、顔をしかめる。イーリスと同様、お母さまもお父さまの周囲に気を配って立ち回っていたようだった。
「私も同感だ。アリアドネもフロイト卿も、のんびりしているところがある」
そう頷くテオフリートさまに、お父さまは視線を泳がせる。
「婚礼祝いの宴はシュトラール側の庭園で催すから、その際は気楽に臨んでほしい」
「ありがとうございます」
お父さまが心からほっとしたような声を出すから、わたくしたちは笑ってしまった。
使用人たちは既に宴の片づけに入っている。
「閣下、よろしければ当家で晩餐を召し上がっていかれませんか?」
「今日のためにいろいろと放り出してしまっている。せっかくの誘いだが……」
テオフリートさまは、こちらへ労りの視線を向ける。
「アリアドネ、君も疲れただろう。お互い、領地へ帰る日も迫っている。今夜はゆっくり過ごすといい」
「……ありがとうございます」
そうだ、今は社交期の末。ずっと今日の準備に追われていたから、意識の外に追いやっていたけれど、そろそろ都を離れなければならない。
シュトラールはこのリーデルフェルト王国の東部、フロイトは南部に属する。両地の間に整備された道はなく、都を経由しなければ行き来は難しい。
求婚していただいたあの日から、テオフリートさまとは毎日のように顔を合わせていた。しばらく離ればなれになってしまうと思うと、寂しさが込み上げる。
「婚礼衣装の制作にあたって、アリアドネには何度か都に来てもらうことになるだろう。シュトラールは遠いから」
こちらの心を読んだように、テオフリートさまは告げてくる。
「わざわざフロイトからここまで来るのも、苦労かと思うが――」
「いえ、全然苦になりません」
反射的に彼の言葉を遮ってしまって、慌てて口を閉ざす。
「頼もしい」
テオフリートさまは苦笑しながら、頬を撫でてきた。
翌日は何も予定のない一日だった。テオフリートさまは予定が詰まっていて、今日は顔を出せないとのことだった。
着飾ることなく私室で過ごすものの、どうも寛げない。あのお方と会えない一日とは、こんなにも味気ないものだっただろうか。
せっかく正式な婚約者になれたのに。
社交期の途中まで、早く領地に帰りたいとあれほど思っていた自分が他人のようだ。今はずっと都に留まっていたいと思ってしまう。なんだか、求婚から婚約披露までの日々の忙しなさすら恋しくなる。
胸が塞ぎかけたそのとき、庭から何やら人の声や物音が聞こえてきた。
窓から覗くと、いつもより多い数の庭師が動き回っているのが見えた。その横で、お母さまが執事や家政婦と話し込んでいる。
「お母さま、何かありましたか?」
気になってしまい、庭まで下りて尋ねる。するとお母さまは、静かに笑んだ。
「来年に向けて、花壇を増やそうと思って。あなたの婚礼までに、たくさんの花を育てておかないと」
この国の婚礼では、幸運の象徴とされる生花を身につける習慣がある。特に貴族は、自邸の庭園で育てた花を飾るのが望ましいとされた。
「頂くお花を見るに、シュトラール公のところでもいろいろと育てているのでしょうけど。本来は花嫁側が用意するものだから、一応ね」
我が家には数日に一度、テオフリートさまから花が届けられる。これも大事な習慣だ。婚約期間が短い男女だと、毎日贈られるものらしい。
お母さまはいつの間にか彼に相談していたらしく、わたくしに似合う花を育てることにしたという。
「以前のわたくしなら、伝統的な花にこだわっていたでしょうね」
庭師たちの動きを見つめながら、お母さまはぽつりと声を落とす。
「ずっと、あなたに貴族の決まりごとや流行を押しつけてばかりで申し訳ないわ」
「そんな……!」
確かにわたくしは窮屈な思いをしていた。けれども、お母さまは決して間違っていない。貴族の母親として当然の配慮をしたまでだ。
「むしろ、大事に育てていただいたと思っております」
「でも、わたくしは……シュトラール公のようにあなたを笑顔にできなかったもの。このひと月で、あのお方は今まで見たことのないあなたの表情をたくさん引き出してくださった。恋の力を実感したわ」
お母さまはとっくに、わたくしの想いを見抜いていたようだ。きっとイーリスも同じだろう。
「シュトラール公となら幸せになれるわ。本当によかったわね、アリアドネ」
「お母さま……」
胸がいっぱいになって、何も言えなくなる。代わりに、ぎこちなく抱きついた。
「あらあら。来年には嫁ぐ身なのに、子どもみたいに」
お母さまは呆れたように言いながら、背中を撫でてくれる。思えば、長女だからと下の子に譲ってばかりで、こうして甘えた記憶がほとんどない。
「来年はお茶会の主催回数を増やすから、あなたもしっかりお手伝いしてね」
我が家でも小規模なお茶会を開くことが時折ある。わたくしはずっと、存在感を消してやり過ごしていた。
「公爵夫人になれば、絶対に逃げられないわよ。女主人として優雅に、臨機応変に采配しなくてはならないのだから。しっかり学ぶのよ?」
「はい……」
公爵家に娘を嫁がせるお母さまの覚悟を感じられて、わたくしもしっかり頷いた。
その晩、前触れもなくテオフリートさまが訪れてきた。
「どうかされましたか?」
今日は来られないはずだったのに。彼の表情が陰っているように見えて、心がざわめく。
「予定を繰り上げて、明朝に都を発つことになった」
「え……!」
もう一度か二度は、お会いできるかと思っていた。突然すぎて、動揺を露わにしてしまう。
「一度領地に帰らなくては、婚礼の準備を進められなくて」
慰めるように、テオフリートさまはわたくしの肩に手を置いた。
「ある程度進んだら、一度手紙を出す。そうしたら都に来てほしい」
ある程度進んだらということは、それまでは……。なんてことない言葉が、やけに寂しく思えた。とりとめのないことを書いた手紙を何通でも交わせたらいいのに。
顔を伏せるのを我慢し、微笑みを作って彼を見上げる。
「また……お会いできるのを心待ちにしております」
「私もだ。こうして話しているだけで、離れがたさが込み上げる。できればこのまま、シュトラールへさらっていきたいほどに」
ふと視界が陰り、テオフリートさまの顔が近づいてくる。いつものように、軽く唇が重なった。
彼との口づけはいつも、幸せな婚約を誰かに印象づけるため。
両親が気を利かせてくれて、今この場にはわたくしたちしかいない。
なぜ、今……?
不思議に思いつつ、顔を離そうとしたとき、突然テオフリートさまに腰を抱き寄せられた。彼の胸に飛び込む格好になったわたくしは、慌てて顔を上げる。
すると、間髪入れずにもう一度唇を奪われた。今度はとても長い時間。何度も、唇を食むように。
「ん……」
呼吸がうまくできない。自分の鼓動がどんどん速くなっていくのを感じる。
先ほどまで感じていた寂しさは、もうすっかり消え去ってしまった。代わりに、別の感情が心を満たして溢れ出す。
どうしてこのお方は、わたくしが想いを口にしなくても、一を望むと百を返してくださるのだろう。供給過多にも程がある。
ようやく解放されたのは、唇の感覚がなくなりかけたころ。真っ先に見えたのは、とても切なげなテオフリートさまの瞳。
「……昨日の婚約披露を、そのまま婚礼にしておけばよかった」
婚約期間はなるべく長めに取ったほうがありがたい――そう仰ったお方の言葉には思えなかった。
その謎は、テオフリートさまが我が家を後にしてから判明した。こっそりイーリスが様子を窺っていたらしい。
「わたくし、お姉さまの妹でよかったと心から思うの。あんなに情熱的なテオフリートさまを目撃できるなんて」
ああ、きっとまたこの妹の宣伝がはかどることだろう。テオフリートさまはやはり無駄なことはなさらないのだった。
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