心の中にある風景

 運ばれてきた皿の上に、魚と野菜を焼いただけの素朴な料理が乗っている。それを見つめながら、わたくしはフロイトの風景を思い描いた。

「フロイトは、小麦粉と野菜を使った料理が中心ですね。港があるので、海産物も食べる地域もあります」

 こうして自分の領地を紹介するなんて、不思議な気分だ。とはいっても、なにも特徴がないと揶揄されるくらい、穏やかな農耕地帯なのだけれど。

 冗談のひとつもまともに入らない話を、テオフリートさまは穏やかな表情で耳を傾けてくださる。

 わたくしは語ることに慣れていないので、とにかく丁寧に説明することを心がけた。

「新鮮な生野菜を使った前菜を喜んで食べるのは、わたくしくらいですね。弟妹たちからは変わっていると言われます」

「確かに変わっている。だが、そういった料理こそ、味のごまかしがきかない。君のところの食材は質がよいのだろうな」

 自分のことよりも領地を褒めてもらえるほうが嬉しくなってしまう。

「農民たちはもう少し味の濃いものを食べておりますよ。収穫した野菜の多くを、保存食に回すので」

「領民の生活には詳しいのか?」

「弟が生まれるまで時間がかかりましたから。祖母の遺言で、婿をとるときのために領内についてよく学ぶように、と」

 爵位を持つ者に息子が生まれなかった場合は、娘が跡を継ぐことになる。たいていは、同じく爵位継承権を持つ遠縁の男性と結婚し、二人で統治する形をとる。

 結局、弟のおかげで領主としての心構えは不要になった。けれども、もともと地理や歴史を学ぶのが好きだったこともあり、今でも領内のことにはできるだけ関心を持つようにしている。

「祖母君の評判はよく知っている。君に礼儀作法を叩き込んだのは彼女だな?」

「ええ。今となっては信じていただけないかもしれませんが、とても厳しい教育だったのですよ。家庭教師よりもずっと」

 どのような場に出ても恥ずかしくないようにと、貴婦人としての立ち居振る舞いを叩きこまれた日々。

 甘えは許されず、泣きたくなることもあったけれど、今は感謝している。シュトラールへ行くのに、唯一気後れせずにいられる部分だから。

「信じるさ。とっさに出る君の所作はとても優雅だから」

 テオフリートさまの言葉に、胸が温かくなる。

 ずっとお祖母さまの教えどおりに振る舞えず、申し訳なく思っていた。これでようやく、教育の成果を披露できるかもしれない。


 しばらくして、テオフリートさまの注文した料理が運ばれてきた。焼いた牛肉に、チーズと茸が添えられていた。香辛料の匂いがほのかに漂う。

 わたくしの分は注文どおり少量で、食べやすいように工夫が凝らされていた。

「君も知っていると思うが、シュトラールは農耕に適していないから、元々は牧畜で暮らしていた。おかげで、初代のころから革や羊毛だけは豊富にあった」

「それで、職人の土地として歩むことにしたのですね」

「ああ。金銀細工は時間がかかったものの、皮革品や織物を初期から扱えたのは大きかった」

 公爵夫人になったら、こうした知識も必要に違いない。結婚までに調べておかないと。

 食べるのも忘れて話に聞き入っていると、テオフリートさまが破顔する。

「他人との会話は好きではない印象だったが、こうした話には熱心に乗ってくるのだな」

「社交の場ではなかなかお伺いできないので……」

 貴族令嬢の共通の話題と言えば、芸術、観劇、装い、流行、他の貴族の情報、他国の噂だった。もちろん、それも大事なことだとわかってはいる。

 けれども本当は、見知らぬ土地やそこで暮らす人々について、たくさん話を聞いてみたいと思っていた。デビュー前は、そうした会話に心を弾ませることを夢みていたものの、現実は違った。

「もう少し、貴婦人らしい話題に興味を持つよう、気をつけます」

「別にいい。私は、その生真面目さも長所だと思う。世の中には一生、領地に関心を示さずに過ごす貴婦人もいる中、こうした妻を得られるのだから私は幸運だ」

 妻。それが自分を指していると気づくのに、少し時間がかかった。

「どうした?」

「いえ、そう言っていただけるなら何よりです」

 顔が赤くなっていたらどうしよう。平静を心がけながら食事を続けた。


「フロイトには行ったことがないのだが、どんな場所だ?」

「領地の半分以上は畑と森ですね。領地の屋敷からは、畑が地平線までずっと続いているのが見渡せます。野菜や綿も作りますが、一番は小麦です」

 春を迎えると、大地が麦の穂で埋め尽くされる。風が吹くと波のように揺れて……上質な絹織物が翻っているように見える。

「青麦の時期も綺麗ですが、収穫間近の夕方は黄金に輝いて……毎年楽しみにしていました。都の社交期に重なるので、最近は見られておりませんが」

 語りながら、頬が緩むのを感じる。わざわざお見せするほどではないけれど、自分にとっては何より美しい景色なのだ。

「やはり、君にも好きなものがあるじゃないか」

「あ……」

 指摘されて、思わずカトラリーを動かす手が止まる。

「フロイトの領地が羨ましい。君にそんな表情をさせるのだから」

 つい饒舌に喋ってしまったけれど、どんな顔をしていたのだろう。

「黄金色に輝く大地の中に佇む君は……きっと神秘的な美しさをまとっているのだろうな」

「……!」

 動揺のあまり、肉を切る手が狂いそうになった。

 そんなに情感たっぷりに言われても、こちらはただの田舎貴族の娘でしかありませんが……。それとも、歌劇か何かを引用して、わたくしの教養を試していらっしゃるとか?

「どうした?」

「どうも、褒められるのに慣れていなくて……」

 自然と声が小さくなってしまう。

 テオフリートさまは表情を崩し、悪戯っぽい視線を送ってくる。

「それでは、慣れてもらおう。君を褒めたたえる言葉なら無限に紡ぐ自信がある」

「ど、どうかご容赦ください……」

 その後、わたくしは無理やり話題を逸らそうとしては、彼の語彙力に負けてしまうのだった。


 一通り食事を終えると、テオフリートさまはか細い吐息を漏らした。

「君は、話を聞く以上に、自分のことを語り慣れていないな」

「……余計なことを言わないように、聞き役に徹していました」

 社交界デビューした年の大失敗は、胸に楔となって打ち込まれている。

「それでも、女性同士、服飾の好みや趣味を語らう機会くらいはあっただろう?」

「わたくしなどが何かを好きだと言ったら、嫌な顔をされてしまうのではないかと思って」

「その自己肯定感の低さは、かなりの重症だな」

 苦笑されて、思わず俯く。本当に恥ずかしい。けれど、一度染みついた思考はなかなか変えられないのだ。

「顔を上げてくれ。話を振ればそれなりに人柄が見えてくるのはわかった」

「テオフリートさまが聞き上手でいらっしゃるから」

 拙い説明でも真摯に耳を傾け、話しやすいように誘導してくださる。

 思えば、ヘルミーネさまもそうしてくださっていた。

「しかし――」

 彼はそこで言葉を切ると、何か考え込むような様子で顎に手を当てる。

「……何か?」

「いや、婚約指輪のデザインをどうするか考えていた」

 もともとそこから食事に発展したのに、話に集中しているうちにすっかり忘れてしまった。

 それも顔に出ていたようで、また笑われてしまった。

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