婚約指輪

 店を出て、本来の目的地である宝飾品工房へ向かった。

「大きい、ですね」

 都の一等地、シュトラール公爵邸の敷地に接した通り。そこにはシュトラールの職人たちの工房や店がずらりと並んでいた。貴族や都の富裕層の注文を受けるため、特に優れた腕前の職人たちはこの地域を拠点としているらしい。

「宝飾品の工房はいくつかあるが、ここが最も君にふさわしい」

 テオフリートさまの姿を見つけた途端、出迎えの人が一礼して扉を開ける。中では、大勢の人々が立ち並んでいた。

「お待ちしておりました」

「既に話を聞いているだろうが、彼女が私の婚約者となるフロイト侯爵家のアリアドネ嬢だ」

 紹介を受け、室内を見渡しながら微笑みを浮かべる。未来の公爵夫人にふさわしい表情がうまく作れているといいのだけど。

 貴族との対面に慣れているようで、彼らは感情を軽々しく顔に表したりはしない。しかし、わたくしを見る目はどれも驚きに満ち溢れている。

 ――私は常々、妻にするなら我が領の職人が腕を振るいたくなるような人がいいと思っていた。

 テオフリートさまはあのように言ってくださったけれど……やはり理想の公爵夫人像からは遠いのだろう。

 かといって、背中を丸めてはいられない。今は彼の婚約者としてここに立っているのだから。

「バルドゥル」

「……はい」

 呼ばれて進み出たのは、四十歳過ぎの男性だった。

「急な話になるが、彼女の婚約指輪を一ヶ月以内に完成させてほしい。他の注文は後回しにしていい、最優先で仕上げてくれ」

 一ヶ月……?

 声をあげたくなったところを、どうにか抑える。

 シュトラールの職人の宝飾品は常に人気で、長い間待たされることも珍しくないと聞く。たった一ヶ月だなんて、無理ではないか。

「今期中に婚約披露の場を設けたい。頼んだぞ」

「仰せのままに」

 バルドゥルは事もなげに頭を下げた。


「アリアドネ嬢、こちらへ」

 テオフリートさまの案内で、工房の一角にある部屋へ。先ほどのバルドゥルをはじめ、いろいろな人々に取り囲まれた。

「寸法をお取りいたします」

 熟練の雰囲気を醸し出す女性は、手袋を外したわたくしの指を手際よく測っていく。指の太さはもちろん、指の長さや掌の厚み、手首の周りまで念入りに。

「この中からお好みの形はございますか?」

 別の女性が、箱にずらりと並んだ指輪の見本を差し出してくる。慎ましいものから華やかなものまで、何十種類もあって目が回りそうだ。

「ええと……」

 婚約指輪とはいえ、わたくしが着けるなら派手でないほうがいいのか。それともシュトラールの技術を紹介できるものがいいのか。

 先ほどの食事で、少しずつ自分の好きなものを意識しはじめたけれど、こうした判断をするのはまだ難しいようだった。

 テオフリートさまはというと、こちらを見守るようにして口を閉ざしている。わたくしの選択を待っているかのように。

 ここは少しでも成長したところをお見せしたい。

 そう思っていても、ひとつ選ぼうとすれば別のものが気になってしまい、なかなか絞れない。

「昨日の舞踏会用に見立てていただいたものに近い系統がいいかと……」

 長い時間をかけて、なんとか答えを出す。実際、あの宝飾品一式を身につけたときは心が弾んだ。

「そうだな、君は直線的なものが似合うから……このあたりか」

「婚約指輪は石を大きくする傾向にありますが、アリアドネさまの場合はあまり大ぶりですと品のよさが失われてしまいますからね」

「披露目に合わせて、他の宝飾品も新たに作られるでしょうか? それなら、首飾りは少し長めのほうがお似合いになりますから――」

 先ほどまでの停滞が嘘のように、活発な議論が交わされる。職人たちは遠慮なく意見を述べ、テオフリートさまも淀みなく専門的な用語を交えて語る。

 今まで職人への注文はお母さまに任せきりだったので、全然入っていけない。そもそも、品が出来上がるまでに職人たちがどのような点に気を配っているのか、まったく意識したことがなかった。

「地金は、この中からお選びいただくのがよろしいかと」

 気づけばまた、いくつかの金属が視界に並んでいた。

 まだ話に加われないものの、選択肢はきちんと与えてもらっている。自分の頭で考えないのは無責任だろう。

 プラチナに銀。それから合金が数種類。どれがいいだろう。

「君には白や銀に近い色がよいと思うのだが、格を考えると……」

 真剣な表情で呟くテオフリートさまの髪がさらりと揺れる。それをしばらく見つめたわたくしは、ためらいを残しつつ口を開いた。

「プラチナにしていただいても?」

 すると、菫色の瞳が見開かれる。一瞬、ふさわしくない選択をしてしまったのかと焦ったけれど――。

「……ちょうど私も、それがよいと思っていた。選んでくれて嬉しい」

 そう告げてくる彼の微笑みはとても甘やか。見つめ返せなくて、とっさに視線を逸らす。

 あなたの髪の色だから……とは気恥ずかしくて言えなかった。


「アリアドネさま、石はいかがなさいますか?」

 少し声が弾んできた職人たちが、前のめりになりながら尋ねてくる。

 重大な選択を為し終えたと思ったけれども、まだまだ決めることはあった。

 婚約指輪はダイヤモンドが定番だけど……。

「昨日はドレスの色味に合わせて、宝飾品一式を選んでいただきましたが、今回は?」

「やはり、君にははっきりとした色の石が似合うだろう。今回は指輪がよく映えるような装いにしたいから、ドレスや靴は指輪の方向性を固めてから決めよう」

 ということは一番大事な選択になるだろう。

 どうすればいいのか。これは、この工房だけの問題ではなくなる。きっとゲルデのような仕立屋にも関わる話だから、きちんと選ばないと。

 考えるうちに頭が痛くなってきた。何度も視線を彷徨わせるわたくしに、テオフリートさまはくすりと笑う。

「手助けが必要だろうか?」

「……お願いいたします」

 情けない。

 肩を落とすわたくしとは対照的に、テオフリートさまはご機嫌だ。

「迷ったときは、髪色や瞳の色との調和を考えるといいのだが……。失礼、改めて君の瞳をよく見せてもらいたい」

 彼の顔がぐっと近づいてきて、鼓動が速くなっていく。こんな整った顔を、間近で直視できるわけがない。心臓がもたない。

「アリアドネ嬢、こちらを向いてくれないと確認できない」

 窘めるように言われた直後、顎に触れられてテオフリートさまの方へ向かされる。もう逃げ場はなかった。

「あの、テオフリートさま……」

 顔が、とても近いです……。

「輪郭は濃い茶色、虹彩は少々青みがかかっているな」

 真面目に分析してくださっているのに、彼が喋るたびに吐息が肌に触れて、心を掻き乱される。

「サファイアにするか、ルビーにするか……」

「ブラックダイヤモンドもお似合いになると思いますが、婚約指輪としては若干重すぎるでしょうか?」

「いや、悪くない。バルドゥル、お前がよいと思う石を全て持ってきてくれ」

 職人たちに指示は出しても、菫色の目は少しも逸らされることがない。テオフリートさまの美しい瞳に、わたくしの慌てた顔が映っていて、余計に羞恥心が増す。

 あの、長いです。もう充分ではないでしょうか。

 昨夜、彼と過ごす時間があまりにも幸せで、時が止まってしまったらいいのにと思った。けれども、ここまでは望んでいない。

 身体中の血が沸騰するのではないかと思うほど見つめられてから、ようやくわたくしは解放されたのだった。

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