好きなもの
わたくしの部屋は、かつてない緊張感に満ちていた。お母さま付きの者もイーリス付きの者も来て、話し合いが行われる。
「今日の公爵閣下のお召し物に合わせるとなると、この三着のどれかだと思うけど」
「耳飾りはこれで全部? イーリスお嬢さまのものはお借りできるかしら?」
「髪飾りも持ってきて! このお屋敷にあるものは全部!」
ここでも、当事者でありながら置いていかれてしまう。そこに、イーリスがおどけた歩調で歩み寄ってきた。
「お姉さま。使いたいものがあれば、なんでもお貸しいたしますわ」
「ありがとう、イーリス。でも、わたくしは普段の格好で――」
「駄目です!」
侍女たちが声を揃えた。我が家始まって以来、最も彼女たちの心がひとつになっているのではないだろうか。
イーリスも呆れたように肩をすくめる。
「お姉さまったら。これからテオフリートさまとのお出かけなのだから、婚約者としてそれなりの格好はしないと」
「でも、正式な発表はもう少し先なのよ。まだ内々の話で……」
むしろ目立たないほうがいいのでは。一応婚約が成立しているとはいえ、公的な手続きはまだ先だ。それに、もっとドレスの映える女性が現れて、あちらの気が変わらないとも限らない。
「それでも、初めての二人でのお出かけですよ。お洒落をしないと!」
そんなふうに考えていなかった。テオフリートさまは今後のために工房を見せたいと仰っていたから、婚約者の務めとして視察に行くつもりだった。
眉を下げるわたくしの額を、イーリスは指先でちょんと突いた。
「それと、時折シュトラールの人々を遣わしてくださるよう、交渉をお願いします。結婚までの間、ずっとこんな調子では我が家の侍女たちが大変ですもの。いろいろ教えていただきましょう」
そのとき、誰もが輝いた目でイーリスを見つめて拝む。こんなときでも人々の心を掴むのは、やはりこの可愛らしい妹なのだ。
「テオフリートさま、お待たせいたしました」
結局お母さまもイーリスも加わって、なんとか身なりは整った。たった一日で、我が家の侍女たちの意識はかなり変わったようだ。
テオフリートさまはわたくしの全身を眺めると、軽く微笑んで頷いた。様子を窺っていた使用人たちの安堵する気配が、背中越しに伝わってくる。
「夕刻までには必ず帰す」
そう言い残して、テオフリートさまはわたくしを馬車へ乗せた。まだ二人きりという状況に慣れないのだけど……。
「客間まで聞こえるほど賑やかだった」
動き出した馬車の中で、彼は拳に手を当てながら笑う。
支度中、テオフリートさまのお相手をずっと務めていたお父さまは、女性たちの鋭い声が聞こえてくるたびに、気まずそうに身を縮めていたようだ。
「すっかりゲルデたちに感化されたようで……」
最終的に、曾お祖母さまの持ち物まで引っ張り出してきたほどだった。おかげで、昨日の宝飾品に似たものが見つかったからよかった。
「よく似合っている。これは百年ほど前のものか……いい品質だ。シンプルな形だから、流行に関係なく身に着けられる」
テオフリートさまは機嫌よさそうに、わたくしの耳飾りを触る。すぐに見抜くのはさすがとしか言えなかった。
「そういえば、君の好きな色をまだ聞いていないな。何色が好みだ?」
「色、ですか?」
首を傾げると、彼は信じられないものを見たかのように目を見張った。
「ひとつくらい、あるだろう?」
「……自分が何を好きなのか、今となってはよくわからなくて」
そもそも自分自身のことが好きになれなかった。ヘルミーネさま好みのドレスのように、好ましく思っていても自分に合わないと落胆してしまう。そのせいか、意識することさえ避けてしまっていた。
「色でなくてもいい。形でも素材でもモチーフでも……なんなら装いに関係ない趣味のことでもいい。君が好きなものはないのか?」
「ええと……」
言葉に詰まる。そう尋ねられても、本当に思いつかないのだ。長い間、考えないようにしていたから。
テオフリートさまの視線が痛い。とても痛ましい眼差しをしている。
「婚約指輪は君の好みの石を、と思っていたのだが」
「おそらく、選んでいただいたほうが確実かと」
たとえこれがいいと思うものがあっても、わたくしは自分の感覚を必ず疑ってしまうだろう。それなら、お任せしたほうがよい。昨夜、あれほどの称賛を集めたドレスを見立ててくださったのだから。
「……せっかく私たちは婚約したんだ。もうひとつ頼みを聞いてくれないか」
馬車に揺られながら、テオフリートさまは静かな声を出す。
「これからは自分の好きなものをたくさん見つけてほしい」
「わたくしの好きなもの……?」
いつもは穏やかな瞳が、真剣な光を湛えている。
「そうだ。自分に合う合わないに関係なく、好きだと思えるものを」
「え、ですが……似合わないものなど好きになっても……」
意味がない――そう言おうとした唇を、テオフリートさまの指がやんわりと塞いだ。
「段階を追って話そうと思ったんだがな。アリアドネ嬢、本来似合わないものでも、似合うようにする方法もあるんだ」
高度すぎる話に、戸惑いが強くなってしまう。
「それは……」
「予定を変更して、少し早いが昼食を取ろう。この近くに私の馴染みの店がある。部屋のひとつなら融通がきくだろう」
話の続きを尋ねるより先に、テオフリートさまが御者に指示を出す。馬車は緩やかな方向転換をした。
「昼食……?」
「ああ、私たちはお互いのことをまだよく知らないだろう。気楽な場で、もう少し君のことを知りたい。歌劇に行くような時間でも服装でもないからな」
「ようこそおいでくださいました」
恭しく出迎えられ、個室へ通される。本当は調度品を見てみたくなるけれど、きょろきょろと見渡すのは淑女らしくない。
「アリアドネ嬢は、こういう店は初めてだろうか」
「まったく馴染みがありません」
わたくしにとって、食事とは、自邸や招待を受けた屋敷に雇われた料理人が作るものだ。さもなければ、旅の途中で滞在した宿で提供されるものか。
最近、料理人が経営する店に行く貴族がいるとは知っていた。けれども自分が足を運ぶことになろうとはまったく思わなかった。ティーハウスに行く婦人の話は聞いていたけれども。
「突然の訪いだから、今回は軽食をいくつか見繕わせるが」
「軽いものでしたら、ありがたいです。わたくし、人と比べると小食らしいので」
「……そうか。これでひとつ、君のことを教えてもらえたな」
菫色の目が楽しげな表情を作る。
「君の家の領地は農耕地帯だろう。馴染みのある料理がいいか?」
「そうですね……」
頷きかけて、ふと止まる。これは、お互いを知るための時間だ。
わたくしも……このお方のことをもっと知りたい。
「わたくしにとって馴染み深いものと、テオフリートさまにとって馴染み深いもの、両方いただくのは、欲張りでしょうか?」
そう問うと、テオフリートさまは目を丸くしたけれど、優しく頷いてくださる。
「いい提案だな」
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