夢のようなひととき
テオフリートさまに手を引かれ、会場の中央へ歩みを進める。
心臓が大きな音を立てている。長らく壁の花を貫いていた身だ。それに、今夜は久しぶりに高いヒールを履いている。
このお方に恥をかかせたらどうしよう。
「私に任せてくれたら、問題ない」
心を読んだように、テオフリートさまが囁いてくる。
「ほら」
合図を受け、足を踏み出す。慣れていない靴なのに、踊りやすい。動きやすいドレスを着ているだけでなく、彼のリードが巧みなのだ。
「今宵の主役は、間違いなく君だ」
テオフリートさまは誇らしげな様子で周囲を眺める。
ターンをするたびに、こちらへ注目する出席者たちが視界の端をかすめる。けれども、少しも気にならない。
この目は、優しい彼の微笑みばかり追いかけてしまう。
ああ、ずっとこのままでいられたらいいのに――社交界デビューを果たして以来、初めてそんな気持ちが湧いてしまった。
一曲踊り終えると、盛大な拍手が鳴り響いた。
いつも向けられるのは、気の毒そうな視線、あるいは奇妙なものに出会ったと言わんばかりの表情。それが、今は心からの笑顔ばかりが視界に広がっていた。
かつてない高揚感が、この胸を満たす。
二人で一礼すると、テオフリートさまが耳打ちしてきた。
「話したいことがあるから、庭に出ないか」
ダンスで熱くなった頬を、初夏の風に撫でられる。
「君が踊っているところを久しぶりに見た」
「……ええ。久しぶりに、まともに踊りました」
「本当は、君がそのドレスで踊っている姿を離れたところから眺めたかった。だが、他の男性に取られたくなくてね」
またそのようなことを仰る。
「今はもう、他に誘ってくださる男性などいませんわ」
「そんなことはない。会場を出るとき、次は自分がと意気込んでいた者たちは少なくなかった」
まったく気づかなかった……。それとも、シュトラール流のご冗談なのかしら?
「今宵はどうだった? そのドレスを着た感想は?」
「……どれほど言葉を重ねても言い表せないほど、素敵な時間を過ごせました」
自分の容姿や心根に悩み、いつも壁の花でいた。身体の欠点を隠し、笑われないようにと必死だった。
それなのに、痩せぎすの手足も分厚い胴も高すぎる身長も、このドレスに身を包んだだけでまったく違うものに見えた。
生まれて初めて、自分のことを少し好きになれたかもしれない。
「ありがとうございました。これほど特別な夜は……生涯忘れたくても忘れられないでしょう」
感謝を告げながら、そっと指先でドレスを撫でた。
ずっと考えていた。なぜ今回わたくしに声をかけてくださったのか。似合わなくても流行を追っている人なら他にもいるのに。
ちょうどシュトラールはこの新しいデザインのドレスを流行らせる計画を立てていたのだろう。そこで、たまたま似合う体型のわたくしに目をつけた。
何せ、いつもはちぐはぐなドレスを着て縮こまっているのだ。まったく別の姿になったら、社交界に鮮烈な印象を与えられるのは間違いない。
そう考えると、すべて納得できた。でないと、特注のドレスと宝飾品一式を贈られたうえに、公爵閣下のエスコートまで受けるなんてありえない。
人々の反応を見るに、少しは話題を呼べたはずだ。だからきっと……もうこんなに幸せな夜が訪れることはない。わざわざ名前を呼び合うこともない。役目は終わったのだ。
なぜか胸に小さな痛みが生まれた。いつの間にか、ずいぶん欲深くなってしまったのかもしれない。このお方が一度でもエスコートしてくださるだけで、身に余る光栄だというのに。
「喜んでくれたなら何よりだ。君にはこういうドレスを着てほしいと、前々から思っていたんだ」
「前々から?」
「ああ、君が社交界にデビューしてから、姿を見かけるたびに」
耳を疑った。自分の美の基準に合わぬ人を視界に入れたくないのだと噂されるようなテオフリートさまが、よりにもよって、このわたくしを?
「せっかくの長所を隠すように着飾って、いつも暗い顔をして……とても歯がゆくてね」
「長所と言ってくださるのは、あなたさまとゲルデだけです」
他の人なら、背が高くて痩せぎすの娘など、たいして魅力は感じないだろう。今夜はこのドレスが素敵だから褒めてもらえるだけだ。
「そんなことはない。君の身長や体型は、人目を引く」
「それは、他の女性と違うから浮いているだけで……」
「なぜ、そこまで自分を卑下する?」
その問いに、胸が詰まって黙り込む。
男性と並ぶと、その人の背丈が小さく見えてしまう。ダンスの相手をしてもらっても、窮屈な思いをさせてしまう。若い娘でありながら、流行の可愛らしい服がまったく似合わない。痩せた手足は、家の内情を心配させるほど。そのうえ社交下手。
ひとつひとつは些細なことかもしれない。とはいえ、それが二年も積み重なってきたのだ。
いつも華やかな存在でありつづけるテオフリートさまには、理解しがたい話かもしれない。
その瞬間、彼がいかに遠い存在かを実感してしまい、少しずつ視界がにじんでいく。
「……! 泣かないでくれ」
彼は急いで、ハンカチをわたくしの目に当てた。
「そのまま動かないでくれ。化粧が崩れてしまう」
そうだ、せっかく綺麗にしてもらったのに。
支度を手伝ってくれた人々の笑顔を思い出して、なんとか堪える。
「失礼いたしました……」
「君はいちいち謝りすぎだ。この場合、泣かせたのは私だろう」
言いながら涙を拭う手つきはとても優しくて、ますます切なくなる。本当に、このまま時間が止まってしまったらどんなにいいことか。
ああ、今わかった。わたくしは、このお方のことが好きになってしまったのだ。身のほど知らずにも。
だから、この夜が終わらないよう祈ってしまうのだ。
「社交で辛い思い出があるのか?」
「辛いというほどではないのです。ただ……」
とにかく自分の欠点を思い知らされてきただけだと説明する。するとテオフリートさまはこめかみに拳を当てた。
「そんなことなら、もっと早く声をかければよかった」
ずいぶん声に感情がこもっているように聞こえる。彼自身、それを自覚したのか、苦笑を浮かべた。
「君に限らず、自分に似合う服や装飾品を知らない者がこの国には多い……それがどうももどかしくてならない」
「……そうなのですか?」
「これはシュトラール公爵家の性だな。他者と接するたび、相手に最も似合う服装を考えてしまう。とはいえ、他人をじろじろと見るのは無礼だし、乞われてもいないのに口出しするわけにはいかないだろう」
だから自分も社交の場に出ると少々落ち着かなくなる――彼は自嘲気味に笑む。
あの噂の真相を知り、つい唇が綻んでしまった。公爵という身分にしては、ずいぶんと世話焼きな気がする。
そのようなお方だから、わたくしにも変わる機会を与えてくれたのだろう。これからは、お祖母さまの授けた教育を実践しながら生きていける気がする。
「テオフリートさまは、他人の装いを見立てるのがお好きなのですね」
そろそろ舞踏会が終わる時間だ。もう、こうしてお名前を呼べる時間は限られている。だから、平静を装いつつ、大事に口にした。
「着飾ってくれる人々のおかげで、我が領民たちは食べていけるからな。いくらでも頭を使うさ」
「わたくしは……今夜、お役に立てたでしょうか」
菫色の眼差しが、まっすぐこちらに向けられる。
「もちろん。想像以上だった……この二年間、ずっと思い描いていた光景をはるかに超えるほどに」
よかった。救われるような思いになる。
胸を撫でおろしていると、急に顔を覗き込まれる。
「アリアドネ嬢、もうひとつ頼みを聞いてくれないか」
彼がこうして呼んでくれるのも、これで最後になるかもしれない。
「わたくしにできることなら、なんなりと仰せください」
こんなに幸せな夜を頂けた分、少しでもお返しができるなら……。
テオフリートさまは柔らかく笑むと、わたくしの手を取って跪き――。
「どうか、私の妻になってくれないか」
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