夢渡りの旅人

間貫頓馬(まぬきとんま)

農家の男と女の夢

 土を耕す。

 くわを振りかぶり、固い土に突き立て、少しずつ掘り返していく。良い土地になれ、良いものになれ、と願いながら、持てる力をもって、耕す。

 俺の力でそれが良いものとなるように、そこに育つものが喜んでくれるようにと、精一杯鍬を振るう。

 流れ出た汗が、腕を振るう度に土に染み込んでいく。

 それすらも糧になれば良いと、俺は、一生懸命に、直向きに、それを続けていた。


 夢中になって身体を動かして、気がつけば土地も随分と良いものになって、ようやく種が蒔ける、と背後に手を伸ばす。その手が虚しく空を切った。


 無くなっていた。

 そこにあるはずの種が、苗が、無い。

 どこへ、と思い、その場を凝視する。ふと、地面が裂けていることに気がついた。


 地面が避けて、そこから闇が溢れ出て、その闇は、徐々に形を成していく。

 女の手だ。暗く深い闇は、じわりじわりと形を成して、女の手へと変化する。

 生白くて指の細い、いくつもの手が、種を、苗を、鍬を、そして土地を、避けた地面へ引きずり込んでいく。

 俺が育てた土地を、俺が持っていたものを、俺の今までの全てを、生白い女の手は闇へと引きずり込んでしまう。


 やめろ、という暇もなく、気がつけば、俺の元には何も残らなかった。

 種は無く、苗は無く、鍬は無く、土地も無い。

 生白い女の手が、裂け目の闇へと戻っていく。


 何も無くなった。


 ただ何も無い空間で、俺は独りで、ただ絶叫する。

 叫んで、叫んで、どうしようもなく声をあげて、喉の奥から血を流すほど叫んで。


 そして俺は、今日も目を覚ますのだ。






 最悪の目覚めは、もはや毎朝の日課だった。


 冷や汗がこめかみを伝い、そして耳元から滑り落ちる。

 心臓はうるさいほどに早鐘を打ち、肺は必死に酸素を取り込む。

 身体がひどくだるい。重い上半身をなんとか布団から起こす。


 そうやって、俺の一日が始まる。


 普通の田舎の、ありふれた一軒家が俺の住処だ。木造建築小さな庭付き、少し歩いたところには畑とビニールハウス、そしてだだっ広い田園風景。俺の今の居場所。

 季節は梅雨どきだった。重い身体を引きずって布団から這い出し、縁側へと続く障子戸を滑らせる。見上げた空は、重苦しい灰色だ。湿度の高い噎せ返るような空気とともに、湿った草木の匂い、土の匂いが肺を満たす。ただでさえ寝汗で肌に張り付いていた寝間着が、梅雨の気候のせいでまた俺の汗を吸ってその重さを増す。シャワーでも浴びようかと思い、俺はその足を浴室へと向けた。


 ピンポーン


 いや、タイミング悪くない?


 家のチャイムが鳴ることなんてここ最近は滅多に無いことだった。こんなところまで訪ねてくるような人間など俺には心当たりがない。加えて俺は今、バリバリ寝起きの髪ボサボサ寝汗かきまくりのおっさんだ。この状態で出るのか、人前に。


 ……会えるのか、他人に。


 そんなことに思考を割いていると、再びチャイムが鳴った。他人と顔を合わせるという事実への恐れと、今なお俺の家の前で待っている客人への罪悪感、そのふたつを脳内で天秤にかける。ぐらぐらと揺れる。どうする? どうするべきだ? 


 三度目のチャイムが鳴る。


 ひとまず、話だけでも。

 そう思い、浴室へと向かっていた足は玄関へと進路を変えた。


 ガラス張りの扉の向こうに人影が映る。その姿形に全身が強張り、心臓はまた鼓動のスピードを速める。全身が真っ白の人影が、うろうろと玄関先を歩き回っていた。引き攣れる喉元を少ない唾液で潤してから、俺は恐る恐る、ガラス越しの人影に声をかける。

「……あ、の、何か?」

「あっ、すみませんこんな朝早くから。ちょっとお尋ねしたい事がありまして」

 扉向こうの白いシルエットから聞こえてきたのは、男の声だった。通りの良い声はガラス越しでもはっきりと聞こえるほどだ。

「はぁ……なん、でしょうか?」

「ここいらで、宿かなんかありませんかね。といいますのも、わたくし気の赴くまま流れ歩く旅人のようなものでして。夜通し山越えて歩いてたものですから、ちょっと休める場所なんかを探してるんですが……」

 よく喋る男だ。響く声で、しかもくるくると乾く間もなく舌が回る。


 それにしても、旅人? このご時世に?


「おや、もしかして。『こんなご時世に旅人だなんて、怪しいやつめ』とお思いでいらっしゃる?」


 何故わかった。


「まあまあ、こちらも探し物があって、あちこち歩き回ってるんです。そういう仕事でね」

「……宿探してんなら、山降りたところの町に、小さいホテルがありますけど」

「うぇ、山降りたところか。そりゃまた遠いなぁ。ちなみにこの辺りは何もない?」

「……まあ、そうすね」

「んー、そっか。まあ仕方ないか」

 白いシルエットの男は困ったように、演技がかった仕草で己の頬を掻いた。そのまま少しの間何かを考えていたようだったが、決心がついたのか、両手で己の腰をポンと軽く叩いて姿勢を正す。

「よし、わかった。どうも助かりました」

「いえ、ああ、えーっと……気を、つけて」

「ええ、どうも」


 そう言うと、白い服の男はこちらに背を向けたようだった。そのまま歩き出す、かと思いきや、何かを思い出したかのように振り返る。


「そうだ、失礼。おれは夢野霧夜ゆめのきりやと申します。人と話すのお辛いでしょうに、どうもすみませんでした」


 ぐっ、と喉の奥が詰まった。

 わかるのか、やっぱり。


 その問いを投げかける暇も無く、白い人影は扉の前から姿を消した。





 夢をみる。


 同じ夢だ。いつもの夢。いつもの悪夢。


 俺は飽きもせず土地を耕す。飽きもせず、どうか良いものになれ、と願う。

 いつものように背後に手を伸ばし、いつものようにそれは空を切る。


 また女の手が溢れ出てきて、また俺の全てを奪っていく。


 結局また、何も無くなる。


 ただ、ひとつだけいつもと違ったのは。

 黒いロングコートを身につけた紳士が俺を観ていたこと。

 黒い紳士は、うずくまる俺にこう言った。

「助かりたければ、名前を」

 俺は名乗った。この夢から助かるなら、なんでも良かった。

「では、佐久間さくまさん。明日、今から私のお教えする場に来てください」

 紳士はとある住所を口にした。山を降りた町にある、小さなホテルの場所だった。

 「わかった」と口にすると、紳士は満足そうに笑った。彼は「では、また」とだけ言い残し、


 そして俺は、目を覚ました。





 翌日。

 梅雨らしく蒸し暑い中、夢で言われた通りホテルを尋ねると、そこには一人の男が佇んでいた。すらりと長い手足、一般人よりも高めの身長。そして何よりド派手な金髪。顔立ちは整っていて、彼のそばを通る女性はみんなその姿に目を奪われている。

 そして気づく。その顔面の造形は夢で見たあの黒い紳士とまったく同じものだという事。そしてその男は、昨日俺の家を訪ねて来た男に違いない、という事。


 恐る恐る近づくと、昨日「夢野霧夜ゆめのきりや」と名乗ったその男は俺に気づき、にっこりと人懐っこい笑みを浮かべた。

「待ってたよ、佐久間さん」

「は、なんで、俺の名前」

「まあまあ、そこも含めて説明しますので。とりあえず、どっかでコーヒーでも飲みましょっか」


 誘われるままにホテルを出て、近くの喫茶店へと入る。

 湿った空気のせいでベタついた身体を、冷房の涼しさとコーヒーの香りが迎えた。


 どちらからともなく席に着く。

 注文をしてからしばらくの間、目の前に座った男は何も言わなかった。

 

 その後コーヒーカップがふたつ運ばれて来たところで、男はようやく口を開いた。

「夢見が悪いみたいですね」

「……ああ」

「いつ頃から?」

「もう、1年くらい経つかな」

「1年間、ずっとあの夢を?」


 あの夢、と言われて思い出す。

 昨日夢に出て来た、目の前の男と同じ顔をした黒い男のことを。

 

 俺が何について考えているのか察したようで、彼は話題を自身の事へと移した。

「ああ、えーっと。そうだ、まだ俺の自己紹介をしてなかった。改めまして、俺の名は夢野霧夜です。仕事は……そうだねぇ、隠してもしょうがないか。佐久間さんは、『夢渡り』って聞いたことあります?」

「夢渡り?」

 聞き慣れない単語だった。

 「そう」と短く頷いて、男は話を続ける。

「人間、良かれ悪かれ夢を観る。大抵は一晩限りのもので、その後はもう観ることのない夢がほとんどですけど、たまに異常なほど長い期間、毎晩繰り返し、同じ夢に苛まれる現象が起こるんですよ」


 「今の佐久間さんみたいにね」と彼は付け足した。


「それには理由があって……んーと、めんどくさい話になるからこれは割愛。まあ、それぞれの事情で、そういった長すぎる夢を渡り歩いて、それらを断ち切ってまわるのが、俺達の仕事、ってなわけ。どう? なんか分かんないこととかあったら、お答えしますけど」

「わかんねぇ事しかねぇ」

「あははは! ですよね!」

「ええと、つまり……面倒なことは置いといて。アンタは俺のこの悪夢を、なんとかできるってこと?」

「あー、そうですねぇ……多分?」

「多分、って」

「原因になってるものの規模がわからないし、実際なんとかすんの、俺じゃないんですよ。明夜あけやには会ったでしょう? 夢の中の、あの気取った話し方の人」

「ああ、あの……。なあ、あの人は何だったんだ?」

「これまた説明が面倒なんですが……まあ平たく言えば、仕事上の相棒ってところですかね。ただちょっと特殊なのが、明夜の見聞きしたものは、俺と共有できるってこと。逆もまた然り。おれが佐久間さんの名前を知ってたのもそれが理由」

「お前と同じ顔だったのは?」

「フクザツな事情ってやつですよ。フクザツな、ね」


 さて、と男は両手の指を組み、こちらに身を乗り出した。「本題ですが」と口にしたその眼は、先ほどよりも真剣な色を帯びている。


「佐久間さんは、この1年間ずっと続く悪夢を何とかしたい。これは正しい?」

「そりゃあ。何とかできるなら何とかしてほしいよ」

「じゃあ何とかしよう。今日の夜に」

「……今日の夜?」

「善は急げ、って言うじゃないですか。それで、その前にひとつお話ししておきたいんですけど」

「なんだよ」

「多分佐久間さん、すごく辛い思いをするよ。今まで観てた夢とは比べ物にならないくらいに。それでもやります?」


 辛いこと、と言われて少しばかり身が竦む。目の前に座る男は真剣で、そして誠実だった。嘘や冗談ではなく、この男は本気でおれの身を案じているのだと思った。


 それでも、この機を逃す理由は無い。

 今まで長い間ずっと俺を苛んできた悪夢を、ここで断ち切ることができるのなら。


 失って困るようなものは、何も持っていないのだ。


「ああ、やるよ」


 俺の言葉を聞いた男はしばらく何か言いたげな顔をしていたが、諦めたように息を吐いて、苦く笑った。





「じゃあ今日の夜そっちに行くから、いつもとおんなじ感じで寝ちゃってください」と言われた通りに床について、いつものように眠った。

 

 そして、また夢をみる。


 俺の身体は当然のようにくわを手にして、硬い地面に向けてそれを突き立てようと、いつも通り振りかぶった。だが、その動きは誰かの手によって遮られる。

「こんばんは、佐久間さん」

「……あ、ええと……明夜あけやさん、だっけか」

「ええ、はい。霧夜きりやから話を聞いているかと思いますが、貴方のこの永い悪夢を、断つために参りました」

 俺はゆっくりと鍬を下ろし、目の前の男の顔を見た。昼間会った霧夜と全く同じ顔をしていながら、その立ち振る舞いはひどく仰々しい。

「そうか。それはどうも。それで、具体的には?」

「……霧夜から、話を聞いているのでは?」

「まあ、俺の悪夢をなんとかできるってことだけ。あとはどうやら俺がしんどいことになるらしいってこと。あとはアンタらが、ユメワタリ、っていう仕事をしているってこと」

 聞いた話じゃそんなところかな。と付け加えると、黒い男は「それだけ?」とでも言いたそうな顔をした。なるほど、どうやらあの霧夜という男は説明を色々とすっ飛ばしていたらしい。

「……まあ、いつものことです。私の片割れのやりそうなことですので、どうぞお気になさらず。目的の場へ向かいつつ、私からお話ししましょう」

 そう言って、男は黒い革靴の底を鳴らしながら歩き始めた。

 俺は、慌ててそのあとを追う。


「永い夢。それを観ることには、とある原因があります」

「……原因?」

「ええ。貴方たち人間やそのほかの生物が現実世界を生きるように、夢の中にも生きているモノたちがいます。それは私のようなヒトの形をした者ばかりではありません。現実世界と同じような生物、はたまた現実世界では見たこともないような生命、そういう様々なものが、人の夢を住処として生命活動をおこなっています」

 歩き続ける俺たちの目の前に、蝶が1匹ひらりと飛んできた。空色の、見たことのない模様のそれは、ぼんやりと光を帯びている。それは伸ばされた男の指先に一度とまると、またすぐに羽ばたいて何処かへと消えて行った。

「生きること、それは一般的に、美しいこととされがちです」

 ですが、と男が続ける。

「生きるということ、それは時に、他者を侵害せざるを得ないということです」


 男が足を止めた。

 俺は目の前の光景に、言葉を失った。


「……は、花?」

 視界いっぱいに広がる白い花の海。それは見渡す限りどこまでも続いていた。

 自分の夢の中にこんな場所があったとは。その景色に吸い寄せられるように花の海へ一歩踏み出そうとすると、男に強く腕を掴まれ、そのまま引き戻された。

「いけませんよ、佐久間さん。これが、貴方の悪夢の原因故に」

「……は、」

 これが、この花が、あの悪夢の原因?


「先ほど申し上げた通り、生きるということは、時に他者への侵害を必要とします。これらは夢の世界で生きる花。しかしこれらが栄養とするのは、人間の負の感情です。これらは、弱った人間の心の隙間に種を落とし、宿主となった人間の負の感情を栄養素として生きるもの。そして育った花はさらなる成長を求め、宿主の負の感情を誘発させるような幻覚を見せ始める」

「……それが、あの夢」

「ええ、その通り」

 もう一度、白い花の海を見渡す。

 1年もの間悩まされてきたもの。その元凶の、予想外の美しさを眼に映す。

「……これを、どうすればいいんだ。明夜さん」

 自分でもわかるほど苦い顔をして、隣に立つ男に尋ねた。

「これらは、全てひとつの種から産まれたもの。その種さえ取り除いてしまえば、貴方が悪夢に悩まされる日々は終りを告げるでしょう」

「……そうか、じゃあ、頼むわ」

「ええ。では、私は奥へ行き種を回収します。佐久間さんはそこでお待ちください」

「ああ、わかった」


 男はそう告げて、白い花の海へ歩を進めた。雨が降り始め、周囲は霧で覆われ始めている。彼の後ろ姿は、あっという間に見えなくなった。


 俺はただそこに立って、数歩先にある白い花を見つめた。





 歩みを進めるたびに霧が濃くなっている。黒い革靴で、小さな白い花をいくつも踏み潰しながら、私は花の海の先を目指す。それにしても、よくもここまで育ったものだ。こんな状況でなければ、拍手のひとつでも差し上げたいのだが。

 


 夢であれ、現実であれ。生を受けたものとして、喰らい、生き、育つことは当然の理屈。だが、その中で他者の領域を侵した時、果たして侵略された側はそれを黙殺し、静観することしか出来ないのか。


 答えは、否。


 侵略される側もまた、生を受けたものであるならば。それに抗うこともまた、当然の道理。生きるもの全てに他者を侵害する可能性があり、そしてまた、他者からの侵害に抗う権利を持つ。

 では、私が今こうして労力を用い、種を探し歩いているのは、あの農家の男の「抗う権利」を手助けするためなのか。ただの好意によって? 尊い善意によって?


 まさか。

 

 私もまた、夢の中に生を受けた者。生きるため、他者を侵害する者。

 私はただ、私自身の食料を探し求めているに過ぎない。

 人間が現世で肉を、魚を食すように。私もまた夢の中で、夢の中に生きるものを食す。

 私はただそれだけのために、この花の海を歩んでいる。


 故に。私の視界に他の花より段違いに大きい蕾が映った時、私の唇は弧を描いた。

 ゆっくりと、蕾へ手を伸ばす。柔らかな白い花弁を一枚ずつ、丁寧に剥がしていく。剥がすたびに、噎せ返るような甘い匂いが香った。

 その匂いに顔を顰めつつ、ようやく最後の一枚を剥がし終える。中から、人の拳ほどの大きさの黒い種が顔を出した。ようやく姿を現した目当てのもの。それを手にするために、さらに奥へと手を伸ばす。指先が種の表面に触れる。


 そして、





 溺れる、と思った。


 霧雨は止まず、その場で男を待ち続けていた俺の身体は、長い時間雨に晒されてすっかり濡れていた。短く切り揃えた髪から、ぽたぽたと水滴が滴り落ちる。

「遅ぇな、あの人」

 誰に向けるでもなくそう呟き、改めて数歩先に咲く白い花の海に目をやる。腹が立つくらいに可憐で、そして綺麗な花だった。しかしあの男が言うには、こいつが長年続く俺の悪夢の原因だと。

 まったく、随分と複雑な感情にさせてくれる。


 こいつら全部そうだってのは、またすごい数だよな。改めて遠くの方まで見渡す。

 そして、ふとおかしなことに気がついた。

 霧でよく見えないが、少し遠くで、何か巨大なものがうねっているのだ。

 いやいや、霧の中から正体不明の化け物って、映画じゃあるまいし。薄ら冷や汗を掻きつつその姿にじっと目を凝らすと、どうやらそれはこちらに近づいてきているらしい。


 あっ、これ俺やばいやつ? 


 そう気付いた時にはすでに遅かった。


 白い花の海が津波の如く隆起し、俺に襲いかかってきた。

 溺れる、と思った。波に飲み込まれた、と。

 何が何だかわからないまま、ふと気づけば、俺の身体は白い空間にひとり座り込んでいた。甘い匂いは変わらず。花の匂いといえど度が過ぎれば不快なだけだ。俺は片手で鼻と口を覆いつつ、白い空間を見渡した。

 そして気づいた。見覚えのある人影が、すぐそばに立っていることに。


 最悪の記憶が甦る。

 がらんどうになった家。

 通帳に記された0の数字。

 何もかも盗られたあの日のこと。

 何もかも奪われたあの日のこと。


 汗が止まらない。身体は嘘のように冷えて、震えは止まらないというのに。

 女が立っていた。忘れもしない、女が。そこに。

 力なくだらりと垂らされたままの腕。その手、その指。

 それは、毎晩うなされ続けた悪夢の中、全てを奪っていくあの手そのものだった。

 

 女の口が開く。何か言い返さなくては。口の中がひどく乾いている。腹の底から何かが迫り上がってきて、鼻をつく匂いとともに喉の奥を焼いた。吐きそうだった。吐き気は視界にまで影響を及ぼす。女の姿が歪むのは、身体の不調のせいか、それとも目尻に溜まる生温い液体のせいか。

 

 もう、勘弁してくれ。

 どうして、どうして、こんなところまで。

 どうして、俺が、こんな目に。





「……これは、不味いですね」


 そこにはおおよそ花の持ちうる全ての部位を用いた、巨大な球体が鎮座していた。

 

 種に触れた瞬間だった。それは突然その場を飛び出し、土へと潜った。その後すぐに遠くの方で花の海が隆起し始め、私がやってきた方角へと進み始めたのだ。花の宿主、佐久間さんがいる方角へ。

 命の危機を察した花が、栄養を求めて宿主を取り込もうと行動を始めたのだということは容易に理解できた。しかし、現実世界の人間が夢の世界のものに取り込まれるとどうなるのか、ということは予想がつかない。

 手遅れにならなければ良いのだが、と思い、戻ってきて目にしたものが、それ。

 

 まあ、端的にいえばほぼ手遅れだった。

 花の球体のその中心部に佐久間さんが閉じ込められているのは想像に難くない。


 ——これは、まずい。

 私の食事が無に帰すのはもちろんのこと、ここであの人間がどうかなってしまうのは、おそらく霧夜が許さない。どちらにしてもなんとかせねば。

 球体を切り刻んで、中身を取り出すのが一番手っ取り早い。しかし、これが宿主を取り込んでしまった以上、佐久間さんに何か危険が及んでしまう可能性は高い。

 佐久間さんに、自力で中から出てきてもらう。理想的だが、これが一番難しい。

 さて、どうする。何か手はないか。どうにかならないものか。



 球体が発火した。



 どうにかなった。


 「は?」と、おおよそ自分の口から出たとは思えない間抜けな声が上がる。花の球体が、なんの前触れもなく発火した。茎が、葉が、根が、白い花が、灰となってぼろぼろと崩れ落ちる。一体何が。いやそれよりも。

「っ、佐久間さん!」

 この状態で中にいたら夢の世界といえども死んでしまう。慌てて名前を呼んで近づこうとするが、あまりの火の勢いに怯み、思うように近づけない。

 と、燃え盛る球体が何かを吐き出した。それは宙に放り出され、地面に身体を打ち付けて着地をした。よく見ればそれは佐久間さんだった。

「痛っ……てぇなこの野郎! 腰とか壊したらどうしてくれるんだ馬鹿!」

「……お元気そうですね」

「あ? おお、明夜さん。なんか……こんなんなっちゃって」

 最初に出会った頃よりも幾分か晴れ晴れした顔で、彼はそう言った。

「『こんなん』と言いますと……?」

「ええと、あの。なんか、あの花の中で例の女と会っちゃって、それで最初はもう、怖いだとか嫌だとか思って、立ってられないくらいだったんだけど。なんか途中から、『いや、そもそもこいつ現実のものじゃねえし、誰の許可とって俺の夢ん中でのうのうと生きてんだ』ってなって」

「……はい」

「で、『ふざけんじゃねぇ!』って思ったら、なんか急に燃え始めて。てな感じ?」

「なるほど。概ね理解しました」

 つまり、負の感情を養分として吸っていた宿主から、突然ベクトルの違う、強すぎる“怒り”という感情が流れ込んできてしまい、それを処理しきれずに燃えてしまった。そしてその宿主を毒と認識し、吐き出してしまった。といったところか。


 そして、あの球体の中に匿っていたであろう種も、燃えてしまった、と。


「……ふっ、くくく」

「ん? 明夜さん? どしたよ、もしかしてなんかマズかった?」

「いえ、ふっ、ふふふ。確かに、私にとって不都合なことは起きましたが」

「うわ、まじか。そりゃごめん」

「いえ、良いのです。面白いものを魅せていただきました」


 思わず、笑ってしまう。

 思いもよらないことが起こった。

 その奇跡のような喜劇性に、どうしようもなく笑みがこぼれる。


 嗚呼、全く。


「人間とは、時にひどく愉快ですね」





 ひどく昔のことのようだが、この胡散臭い男とこの店でコーヒーを飲んだのは昨日の出来事だったと思い出す。

「いやぁ、佐久間さん。昨日はお疲れ様でした」

「ええ、まあ。ありがとな。えーと、霧夜、さん?」

「いいよもう呼び捨てちゃって。一晩を共にした仲じゃないですか」

「語弊しかない言い方はやめてくれ」

「まぁまぁ、冗談です。俺は何もしなかったけど、明夜越しに色々と見てたので」

 まさか燃やしちゃうなんてね、と言って、霧夜はよく通る声で笑った。

「まあ、あのやり方なら大丈夫だと思うけど、もし万が一、また悪夢を見るようなことがあれば連絡くださいね」

「……また燃やすことになるんかな」

「どうでしょう? 良くも悪くも思い出に紐づくものですからねぇ」

 それに、と彼は続ける。

「明夜も言ってたかもだけど、あれもただ生きてるだけの、俺達とは違う世界で生きている命だからさ。あの花も、佐久間さんも、ただ生きていて、今回たまたま衝突してしまったに過ぎないんです。その衝突をなんとかするのが俺達のお仕事」

「夢渡り、ってやつか」

「その通り」

 今後ともご贔屓に、なんてセールスマンみたいなことを言うものだから、俺は思わず笑って、霧夜も、俺につられるように笑った。


「じゃあ、そろそろ行くよ」

「おう、そっか」

「またお会いしましょうね、って言いたいところですが、実際もう会わない方がいいのか」

 随分とくたびれた鞄を手にしながら、霧夜はどこか寂しそうに笑う。

「……いや、また来りゃいいじゃん。何もなくてもさ」

 俺は、努めて明るくそう言った。本心だった。

「一晩を共にした仲だろ、俺達」

「——ふっ、あは、あははは! すっごい、その語弊しかない言い方」

「お前が言ったんだろうが!」

「そうだっけ?」

「そうだよ!」

「あははは、そっか、そうだね」

 霧夜は少しだけ嬉しそうな顔をして、改めて鞄を持ち直す。

「じゃあ、うん。またね、佐久間さん」

「ああ、またいつでも来いよ。明夜さんにもよろしくな」

「うん、伝えとく。じゃあ、またね」

「おう、またな」

 

 初めて会った時と同じ服装なのだろう。真っ白なスーツを身につけた男は、くたびれた鞄を手にして、喫茶店から去って行く。

 また俺のような人間を、明夜さんの食事とやらを探して、根無し草のように渡り歩いて行くのだろう。


 カラン、とベルが鳴って、喫茶店の扉が閉まった。

 

 窓から差し込む陽光が、肌を焼くように熱い。

 もう、梅雨は明けていた。

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夢渡りの旅人 間貫頓馬(まぬきとんま) @jokemakoto_09

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