3-5

 よく通る声音が響いた。

 第三者の存在に、俺も木陰も一斉に主を振り向く。気づいた人形たちが怯えたように退いた。

 空気の流れが変わった。


「あなたの役目は魔女の復活です。けれど、それは『死』から引き上げるという意味合いではない」


 言葉を失い、俺はただ見上げていた。

 暗い人形の群れの向こうから、はっきりとした存在感が語りかけていた。

 かと思うと、突如細い腕がずぼりとこちら側に入り込み、


「っ、」


 人形の塊から抜き出した。

 視界がひらける。

 人形から解放された俺は、傍らで手を払う彼女をみて目を白黒させた。

 黒い修道服。

 ヴェールを身につけ、僅かな光に金髪が映える。

 乱入者に木陰が目を見開いた。


「彼がいう魔女は、確かに魔女なのでしょう。ですが、あなたにみせた表情もすべて魔女のものです。あなたの価値はもはや、あなただけが決めて良いものではありません」


 じゃあ、誰が? 無言の問いに、その少女は見下ろしながら答えた。


「死後でさえも、ガラスの魔女はあなたを選んだ。ならば、それがあなたに価値を与えるすべて。強欲、我儘、横暴。綺麗で残酷な魔法使い」


 心の底に、ライターで火をつけられた気分だった。

 カタチばかりの天体観測で交わした約束。ニセモノの魔女に託された呪い。そういったあらゆる記憶がひとつに集約していく。


「断言しましょう。あなた以外の手で魔女が復活しても、あの人は再度『死』に身を落とすと」


 なにも言い返せないこちらに対し、シスターは泣き跡を残した顔で笑ってみせた。その様は、とても見違えていた。

 それから、木陰へと向き直る。これは私の役目と言わんばかりに。


「もうやめましょう、木陰さん」


 静かな声。

 立ち上がりかけた人形たちが、ぴたりと動きをとめる。身体がウソみたいに軽くなる。わずかに動く首を傾けると、おもむろに、ゆっくりと一歩を踏み出した。


「な、んで……ここに」


 シスターの真っぐな視線。


「なんででしょうね。私も今の自分がよくわかりません」


 自嘲気味な苦笑。

 組み合わせ、強張る手。

 ――しかしながら、恐怖やそれに準ずる気配はおくびにも出さない。


「そっちにつくのか……、ミノリは」

「ええ。もちろん、魔女が蘇るのであらばそれに越したことはありません。ですが、その魔女自身が教えてくれたことです」


 コツ、コツ、音がなる。

 じゃら、とビー玉の海をかきわける。

 教会を一歩、また一歩と進むたび、周囲の人形はかき消えていく。キャンバスとステンドグラスを中心に支配する空気、非現実をはらむそれが、シスターの一歩とともに後退していく。

 シスターは木陰にとって心残りの象徴だ。魔女の復活――犠牲となること――を望みながら、未遂に留まらせていたストッパー。立ちこめる空気を圧倒的なまでに退ける存在感こそ、彼女がこの上ないである証明だ。

 それを理解しながら、彼女は敵対した。強い意志を感じさせる横顔を見、意図的に目を逸らすことはやめたのだと理解した。

 踏み込めば、空気が澄んでいく。

 人形がたちまち消えていき、見えない重さが気圧けおされる。

 木陰が初めて怯えを覗かせた。

 迷いを捨てた靴音が迫り、シスターが言葉を紡ぐ。


「魔女は言いました。『考える時間が終わったのなら、』」


 コツ、


「『やるべきことが定まったなら、』」


 コツ、


「『全部忘れて』」


 コツ、


「『当たって』」


 そして、立ち止まる。


「『砕ければいい』」


 瞬間、空間に漂う残滓が取り払われた。

 瞬きの突風。

 勢いに目を瞑り、開けた瞬間には過ぎ去ったあと。

 正体不明な陰鬱さがクリアさを取り戻し、夜の冷たさが蘇る。


「──、」


 言葉を失ったのは、俺も木陰も同じだった。

 乱入者のもたらした一言は、どうしようもなく胸をうつ。

 そこに立っているのが魔法使いそのものだと言われても、納得したかもしれない。それくらいに、彼女はかつての魔女を想起させた。

 とんでもなく、彼女らしい理論。

 横暴で真っ直ぐで、穢れを跳ね除ける決意の呪文だ。きっとなんの魔法も込められていない、ただの言葉遊びに過ぎないけれど。魔女ののこした言葉はどうしても耳の奥に刻まれる。

 不思議なことに、人々はなんのチカラも持たない言葉にこそ意味をもたらす。なんの変哲もない呟きに彼女が励まされたのなら、本当に、魔法使いらしい振る舞いだ。

 俺はへたり込んだまま、色つきの月光の中、対面するふたりを眺めた。


「考える時間は終わりました。やるべきことも定まりました。ならば私は、あなたを生かすためだけに、当たって砕けたい──いつか願っていたんです。あの人みたいな、強い生き方を」

「ミノリはっ、魔女を諦めるのか! ボクはそんな簡単に諦められない! 報われず囚われた魔女を差し置いて、」

「残念ですが。私が手を伸ばすのは、木陰さん、あなただけと定めたんです」


 絶句する木陰に、シスターが静かに首を振る。

 静寂に、透き通るような声が続く。


「魔女を救えるのは三上さんだけです。その意味は、魔女自身が定めた、『彼の手による復活でなければ認めない』というルールの裏返し。あなたが命を投げうっても、きっと結末は寂しいものになる」

「なにを根拠に!」

「……これは、ふたりの物語だからですよ。薄々気づいているのでしょう? 魔女の面影は、すべて彼を引き金に動くのだと」

「わかっているさ! だからこうして、立役者になろうとしてる!」

「わかっていません。あのふたりの関係性に、入り込める余地なんてないんです。たとえ立役者でも。だから、あなたは私が手に入れます」

「違う。ちがうちがうちがう! ボクにとっては、魔女の復活こそが――、」


 唐突に、パチン──と、乾いた音が響いた。


「――、」


 反発を切り裂いて、束の間の静寂が辺りを満たす。

 唖然とする木陰。頬に走った刺激は、きっとどんな傷よりも痛むものだと、表情が物語っていた。

 振り抜いた手のひらをおろして、シスターの涙声を漏らす音だけが、静かに耳へ届く。仕舞い込んでいた感情を爆発させて、声が訴えた。

 ――それは、闇をはらう光のようで、熱かった。


「いいかげん目を覚ましてください! 今のあなたは私たちよりも無謀な夢を追いかけてるって、どうしてわからないんですか! どうして判ろうとしないんですかッ!」

「……ミノ、リ」

「どうしてっ、私の好意は伝わるのに、想いは伝わらないんですか……っ。あなたは私を苦しめて楽しんでいるのですか!?」

「ちが、ボクはそんなこと、」

「だったら私のことが嫌いなんですかッ!?」

「――、いや、」

「なら諦めてよっ!! 私、あなたが好きなんですよ! あなたが少なからず想ってくれていることも、それでもなお魔女のために命を燃やそうとしていることも、全部知ったうえで、好きだったんです!」

「……うん、わかっ、」

「わかってない!!」


 ドン、と音が響くほど強く、シスターが木陰の肩を叩いた。

 ぼろぼろと涙をこぼして、赴くままに、鋭いままに、かつてないほど切実に。彼女の言葉が突き刺さっていく。

 きっと、それは今まで積み上げてきた負債だ。彼が、彼女が見て見ぬフリをして、まだ大丈夫と目をそらしてきた心の悲鳴だ。痛みだ。

 ようやく、それを理解したのだろう。木陰はただただ受けとめて、口を閉ざした。


「木陰さんがどんどん人間から遠ざかっていくのが怖かった。ガラスを使って絵に命を吹き込もうと暴れ回って、あなたが私の知るあなたでなくなったのが怖かった。それでも、木陰さんの望みならば背中を押そうと思ってた!」


 修道服に月明かりが差す。

 頬を赤くした木陰と、嗚咽を伝える彼女だけがそこにいた。


「でも、やっぱり無理です……! 魔女の言葉が私を離さない! あなたが死ぬのは耐えられない! だからッ!」

「……だから、?」


 一拍挟んで、告げられる。

 顔をあげたシスターの視線と木陰の困惑の混じった視線が、光とともに交わった。

 すぅ、と息を取り込む気配が、鮮明に聞こえた。


「木陰さん。あなたが好きです! 何度でも言います、あなたが好きです! 大好きです! 魔女のためでも、あなたを死なせたくはない! かつて魔女自身が語ったように、私は現実にクソ喰らえと蹴飛ばしてでも、あなたを手に入れたいッ!」


 しん、と教会に静寂が降りた。

 木陰の表情はら深く傷ついたような、寂しそうな風にみえた。でもそれ以上に、告白に安堵しているようにも感じられた。

 からん、という音が響いた。

 握られていたはずの筆が、足下に転がっていた。


「ボクは、」


 途切れ途切れの言葉。

 吐いた息が白くくもる。滲んだ迷いに引きずられ、内包していた葛藤が吐露される。


「ボクは、ずっと彼女の復活のために絵を描いてきた。なにもないんだ、過去の自分には。だから目的がないと、手足の感覚がなくなるような気さえして……本当はからっぽなんだよ、ボクという人間は。それでも、」

「それでもいい。私は別に、あなたが特別ななにかを目指して頑張っているから好きなわけじゃありません」

「……でも、魔女はずっとひとりだ」

「わかってます。だったら、任せるべきでしょう」

「いいのかな、それで」

「いいんです。適任なんですから」

「ボクが魔法を与えられた理由は、」

「そんなの、魔女の気まぐれです」

「……」

「迷いはわかります。ずっと追いかけてきた、時間を費やしてきた夢を捨てるには覚悟が必要なことも。でも」


 シスターが手をとる。

 その光景は氷を溶かすようだと、感じた。 


「誰よりもあなたが、理解しているのでしょう?」


 夢の終わりは、存在する。

 叶えることはある。諦めで終わることもある。遅いこともあればはやいこともある。今がそのときなのだと、彼女は告げた。


 ――ぴくりと、木陰が教会の一点へと視線を投げた。

 シスターもそれを目で追う。

 取り残された人形も、すでに数は数体のみ。遠巻きにみつめるだけのそれらだったが、たった一体だけ、例外がいた。

 ステンドグラスの下、見届けるふたり。降りた静寂と時間の経過を告げる冷たい空気。束の間の沈黙を埋めるように、コトコトと足音が鳴った。

 物陰から、俺の方へ人形がやってくる。

 その存在は、とてもか細く今にも消えてしまいそうな灯火だった。だけどそれ以上に、シスターの語る結末の化身だ。

 尖った帽子。顔のない面。冬にしては寒そうな服装の、魔女もどき。それが歩いてきて、俺の傍で立ち止まった。

 思わず身構えた。また、なにかをするつもりなんだろうか。思い出を汚されるようなあの感覚はもう懲り懲りだっていうのに。

 しかし、そんな危惧は的外れにおわる。


「うおっ、なん、なに……?」


 人形は何も言わず、ぐい、と腕をひいて、俺を立たせた。かと思うと、そのまま歩きだす。

 振り払っていいものか迷って、俺はついていった。荒らされた絨毯の通路へと出て、軽い肢体がステンドグラスのもとへと導く。

 弱々しい。儚い。魂すら感じない。魔女を模しただけの人形に連れられて、木陰とシスター、その数歩手前まで来てしまった。


「どう、いうことだ……? ボクが生み出した人形は、どれも街のガラスで試しただけの、失敗作のはず」

「その失敗作でも、根幹にある動力は同じ、ということです」


 わけがわからない。何がどうなっている。ふたりの会話に踏み込みたいけれど、今は人形の方が気になった。

 腕を解放した人形は、じ、と俺をみつめていた。

 無言で。

 対するこちらはというと、眉根をよせることしかできなかった。その間、たった数秒でしかなかったと思う。それだけで、きっとこの人形は満足したのだろう。

 目はないし、口もない。だけど、ざらついた声が、空気を割った。


『メリー・クリスマス』


 その、返答は、あの夜の、


「――、待っ、」


 瞬きの隙。そこは空白になる。

 人形はあの夜と同じように、前触れもなく消えてしまった。今度は雪の上でもない。挨拶だけを返して、消えてしまった。

 代わりに、足下にカツン、とガラス片が転がる。

 緑色の、透き通った破片。月光を受け、儚く、けれど鮮やかに存在感を放っていた。掌におさまる大きさしかないソレを拾って、俺は優しく握り込んだ。


「……っ、」


 じん、とこみあげるなにかがあった。

 喪失感がやってくる。

 まただ。

 また、君はそうやって俺を置いていく。気まぐれに希望だけを残して、去って行ってしまう。そのたび、俺は辛くなる。

 木陰とシスターから隠れるように、顔を俯かせた。


「ブルーローズの葉……ステンドグラスから生まれた人形……」


 そうか。あのとき逃げたのも、君だったのか。そりゃあなおさら、傷が深くなってしまうな。

 ……魔法は、綺麗で残酷だ。

 魔法使いにかけられた呪い、すなわち魔法。ならきっと、俺の人生すらも彼女の色に染められる。息を呑むほど綺麗に透きとおっているだろう。それと同じくらい残酷さを秘めているだろう。

 俺は襲った虚無感を振り払うように、顔をあげた。普段は隠していた感情を、今は胸の奥に強引に押し込んだ。

 面とむかって、木陰をみる。


「三上、」


 こういうことなんだろう? 魔女をかたどった人形。

 ああ、言ってやるさ。最後の片をつけてやるよ。それが俺の役目なんだから。


「問いに対する答えを告げる」

「問い……?」

「どうして耐えられるのか。なぜ復活の邪魔をするのか」


 木陰が見定めんとばかりに俺をみつめ返した。

 これは礼儀みたいなものだ。今さら、特に突き詰めるべき問答でもない。だけど有耶無耶にするのはイヤだった。

 そしてこちらの意図を、木陰は汲み取ってくれる。


「なら、今一度訊くよ。三上はどうしてそんなに強いんだい? なぜ、だれよりも大切な相手を否定して、理不尽な運命に耐えられる?」


 木陰の表情からは、すでにミステリアスな空気は消え去っていた。憑きものが取れたように晴れていた。けれど、その問いに対する答えだけには、まだ縋っている。これが最後と言わんばかりに、視線に熱をこもらせていた。

 願ってもない機会だ。恥ずかしげもなく告げてやる。ここで明かすべきだというのなら、もうなりふり構わず弱さを晒してやる。

 俺は息を吸って、ゆっくり吐いた。




 ――どうして耐えられるのか、だって?




 彼の言うとおり、妥協すれば魔法使いと会うことはできる。多くのものを失って、彼女と再び相まみえることが可能だろう。


「たしかに、魅力的な結末だよ、それは」


 つい半年ほどまえに遭遇した魔法使いのことを、思いだした。


「本音を言えば、俺は苦しくてたまらない。サイダーで強引に思い出へと耽らなければ正気を保てない。思い出を彼女の面影で埋めないと理性がどうにかなっちまうほど壊れてる。それくらい、つぎはぎの記憶を修復しながら、ずっと彼女を想ってるよ」


 時おり夢想してしまう。

 宝石によって蘇った魔女は、魔女ではなかった。けれど、もしもあの時投げかけられた問い──「私は、ホンモノ?」──を、肯定していたとしたら。

 今ごろ傍らには彼女がいて、木陰が命をかけることもなかったかもしれない。

 ああ。素敵だ。きっと毎日が楽しいくらい、決められた『死』が待たない日々は輝いてる。


「でも、俺は否定するよ」


 グラウンドの上、夜空の下で、俺は魔女の復活を否定した。夢のある未来を認めなかった。

 魔法使いを、裏切りたくなかった。

 思い出の彼女を騙して、生きていける気がしなかった。

 汚れを知らない彼女の生き様を汚す存在にだけは、なりたくない。


「大切だからこそ、否定する。それが俺にかけられた魔法であって呪い。願いだ」

「魔女の命よりも大事なのかい? そのプライドよりも厄介なルールは」


 思わず苦笑してしまう。

 やっぱり、そうだよな。他人からみれば、可笑しいよな。変に肩肘張って――強欲だ、俺と魔法使いは。

 だが、俺は頷く。


「それを破ったら、もう魔法使いの傍らに居られなくなる。顔向けできなくなる。罪悪感で死にたくなる」


 呼吸、ひとつ。冷たい空気が肺を洗う。

 俺は意固地だから、こういうのは苦手なんだけど。なんて内心でため息を挟み、進みでた。


「もっと単純明快な理由がほしいなら言ってやる」


 木陰の傍を通り抜け、キャンバスに向かう俺を、視線が追いかけていた。

 ふたりが、無言で見つめる。す、と筆を絵に充てがう。

 胸中に、あのときと同じ苦みが生じる。またこうやって、俺は否定を重ねる。別れを繰り返す。


 ──ガラスの魔女は、復活できない。


 ひねくれ者な彼女のことだ。きっと余計なプライドが邪魔をして、可能性を狭めているのかもしれない。今回のように、もしかしたら完璧な復活を成し遂げられたかもしれないのに。

 しかし、逆に考えれば。

 魔法使いにとっての『復活』とは、その先にある結果とも捉えられる。

 時と場所を選ぶ。過程を選ぶ。手段を選ぶ。扱うモノを選ぶ。そしてヒトを選ぶ。ガラスの魔女はそうやって、細かく自分の復活に条件をつけ。それら条件がすべてクリアされてこそ、胸を張って蘇ることが叶うのだろう。

 そう……シスターの言うとおり。

 思えば、魔法使いはそういうやつだ。我儘で横暴。面倒な少女だ。


「……、」


 キャンバスに描かれた魔法使いの後ろ姿を眺め、ほぅと息をついた。

 覚悟はきまった。

 きっと俺は、魔法使いが生き返るための指標。

 遠慮なく告げて、躊躇なく否定する──彼女の復活のために。その役目が意味するところは、魔法使いにとっての道導であると同時に、君がホンモノであるかをテストする最終機構。

 宝石騒動とは異なり、姿を拝むことはできなかった。なんなら復活の足下にも及んでいない。

 それでも、これが役目だから。俺はまた、こうして告げる。


「ずっと避けてきたけど、はっきり言うよ」


 頑なに否定できる、そのワケを。

 月光に照らされ、筆の絵の具が夜を反射した。

 筆先はキャンバス左上。

 頭上から静寂の光が降り注ぎ、夜の灯りが視界を満たす。



「俺はどうしようもなく――魔法使いが、好きなんだよ」



 どこか神秘的にも感じられる魔女の後ろ姿を見届け、そして。

 ――ゆっくりと、腕に力を込めた。


「さようなら、ガラスの魔女。またいつか」


 キャンバスにバッテンを描く。すると、音もなく絵柄が溶けて、絵の具が塗りたくられただけの真っ黒なモノへと変貌する。

 かと思うと、ステンドグラスの窓枠から覗いた空を映し取ったみたいに、黄色い半月が浮かび上がった。


「これは……」

「絵が、」


 背後で驚きの声があがる。

 俺は一歩下がりながら、苦笑する。

 君は俺を過大評価している。銅貨を賭けて、頼るほどの価値もない男だ。ちょっと魔法に耐性があっただけの、ありきたりな人間だ。

 正直、バカなのかと罵ってやりたい。

 人生の左右をこんなヤツに委ねるんだから、見る目がないにもほどがある。


「今でさえ、君のことをよくわかってないしな」


 でも、選ばれたんだ。

 綺麗で残酷な呪いを授ける、たったひとりの人間に。残念ながらガラスの魔女は、無知だろうと放してはくれなさそうだ。俺が相応しいとかどうだとかは関係なく、存在そのものが重要らしい。

 だったらもう、迷う必要もない。

 『三上春間』であること自体が資格だというのなら。

 ただひたすらに、ひたむきに。そしてよろこんで、魔法使いへ手を伸ばそう。

 いつか、君を振り向かせられることを願って。


「――答えは聞けた、なら十分だ。でも、もしも死ぬまでに復活できなかったら、ボクは許さないからな」

「いいじゃないですか。こんな三上さんは滅多にみられないんですから、信じてあげても」


 振り返った先で、どこか清々しさを携えたふたりが笑った。

 いろいろと吹っ切れて、抱え込んでいた葛藤を投げ出して。自然な表情で並ぶことができているようだった。




 ――結局のところ。

 これは、ちょっと複雑な喧嘩があっただけの話だ。


 けれど、きっと必要な出来事だったんだと、俺は思う。


 去り際、背後のキャンバスを一瞥する。

 ステンドグラスの光がズレて。

 落ち着きのある月明かりが、静かに絵を照らしていた。

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