3-4

 夜の教会は、存外に明るい。

 そして、とんでもなく静かだ。室内には外気が入り込み、息を白く染めあげる。肺に空気を送り込もうとすれば、鼻の奥がつんとする。丘の上に居を構えるここまで、ろくに人と出会わなかった。夜が更けてきたとはいえ、不自然なほどに静まりかえっていたが、それすら俺は受け入れていた。むしろ、こちらの予想がことごとく的中しているみたいで気色悪かったほどだ。

 ……背後で、ぱたんと扉がしまる。

 それを合図に、俺をみつめた木陰が切り出した。


「こんばんは、三上」

「ああ、こんばんは、木陰」


 格式張った挨拶はしかし、いつもの穏やかさを含んでいない。

 互いに、一色触発ともいうべき緊張感のなかにいた。俺はある程度の距離を保ち、とまる。

 右手には筆、左手にはパレット。

 俺と木陰は、奇しくも同じ装備でのぞんでいた。異なるのは、こちらは使い古された年季モノという点だけ。

 しかし、それこそが今の俺が用意できる、最善の武器だ。


「おどろいた。その筆を持ってくるなんて、さすがは三上だね。いつから気づいてた?」


 色付きの月光を背に、木陰が穏やかな口調を発した。緊張感を和らげるような物腰に、こちらもすこしだけ警戒心を解く。急かす焦燥感がナリを潜めてくれた。

 冷たい隙間風が吹いて、埃が舞い上がる。描かれたキャンバスは静かに俺たちの対峙を見届けていた。


「考察するほどのことでもないだろ。それに俺は探偵じゃない」


 そう返すと、肩をすくめて笑われる。


「そうだね。君は探偵じゃない。探偵は別。でも、最近ボクのまわりを嗅ぎまわっていたのは三上だろう?」

「なんのことだろうな。俺が雇ったのは売れないミュージシャンとスピーカーだけなんで、てんでわからん」

「ははは、撤回するよ。いかにも君らしい。それで、成果は?」


 成果……成果か。こんなのは成果とも呼べない。俺はただ木陰に騙されて、そして木陰にヒントを与えられただけだった。

 俺はため息をつき、木陰をみる。


「最初はわからなかったさ。おまえの目的が魔女の復活だと仮定しても、それをどう実現するのか」

「けど、今は違う?」

「……シスターの絵を見た瞬間に確信したよ。やろうとしているのは、ステンドグラスを使った現像げんぞうだ」


 頭上に君臨する、ステンドグラス。

 吹き抜けとなった穴がふたつ。けれど、最後のひとつが鮮やかに光を塗り替えている。中心には一輪の青薔薇が輝いていた。

 新凪さんの家で拝見させてもらったときとは比べものにならないほど神聖さを放ち、月光に鮮やかな色彩を反映させている。眺める時間に比例して、細かく深い芸術に引き込まれる。目にした者を魅了し、畏怖にも似た身震いが襲う。

 なるほどたしかに、こうして実物を前にすると、もしかしたらと想ってしまう。「木陰ならあるいは」なんて、そんな風に。

 魔法を使える木陰だからこそできるアプローチ――加えて、彼の磨き抜かれたセンスをも合わされば、確かに実現の可能性は高まるだろう。現に、キャンバスに描かれた魔女の後ろ姿は、とても本物に迫っているように感じた。今にも飛び出してくるんじゃないかという錯覚を覚える。


「思い返してみれば、ステンドグラスを割った犯人は木陰しか有り得ないという結論に至るしかない。よくよく考えてみても、おまえだけなんだよ。教会で絵を描いていたのは」


 木陰はふぅ、と吐息を吐いた。

 白く、空気に溶けていく。指に挟んだ筆と一緒に、降参だ、と腕を掲げた。


「三上の言う通り、正解だ。君は最初からボクを疑っていたね。そうさ。ボクは描いた魔女を生き返らせるために動いている。そのために自分の時間をすべて費やしている。ずっと繰り返して、そのためだけに生きてきた。どんなときも、彼女を思い描いて、寝る間も惜しんで、ずっとね」

「それでも、失敗している。街をあんなにしても、得られた結果はかんばしくないとみえるな」

「割れたのはどれも透明なガラスだったからね。ま、そのあたりはどうでもいいのさ。君でも失敗したんだ、うまくいかないのは承知の上だよ」

「……そうだな。人を生き返らせることは、常識的にまずあってはならない結果だ。つまり、魔法をもってしても、もたらされてはならない」


 木陰が微笑んで後を継ぐ。


「あってはならない結果をもたらすのなら、それ相応の対価が必要――やっぱり君には敵わないなぁ」

「木陰。おまえが保健室に通うようになったのは、俺が美術部を辞めたころだったな」

「そうだよ。コレを試しはじめたころから、ボクはよく意識を失うようになった」


 最初のステンドグラス騒動は宝石騒動が起こった時期――しかし、事実は異なる。

 俺は一枚だけ復元されたステンドグラスを見あげた。

 なぜ、一枚だけ設計図が遺されていたのか? 答えは単純、宝石騒動よりずっと昔に、一度からだ。シスターが俺へ協力を要請したときにも言っていた。『二年前の秋に割られた』と。

 つまり、最初にステンドグラスが割られてから、俺が美術部に入部し、退部するまでそう経っていない。

 ステンドグラスの破砕と復元。俺の退部。

 時期はほとんど一致する。

 木陰は俺が退部したことで、この儀式に本腰を入れ始めたのだろう。さらに割られたステンドグラスの破片を手に入れたことで、決意をより強くしたのだ。

 しかしその方法は、いただけない。


「自己犠牲をしてでも、蘇らせるつもりか」

「もちろん。ボクは魔女を復活させる。色を付け足すステンドグラスの破砕によって、魂の絵に命を吹き込む。気まぐれで預けられたこの魔法による補助と、」


 木陰が心臓に手を当てた。


「この命をかてに」


 顔をしかめる。無意識に、筆を握る指に力がこもる。

 どれもこれも、気に入らない。俺にとっては受け入れがたい内容ばかりだった。


「仮に復活が叶ったとして……そいつは魔法使いじゃない。生まれるのは中身も過去も持たない、伽藍堂のハリボテだ」

「それでも魔女は魔女だよ。それだけでも価値がある。不完全な生まれ方でなにが悪い? 中身はあとから付け足せばいい。三上ならできるはずだ」

「どうしてそこまでする? いや、そこまでできる?」

「それがボクの悲願であり、夢だからさ。ボクはやるよ。魔女を生き返らせる。君風に言うのであれば、復活させる」

「木陰にとって魔法使いとはなんだ」

「『魔法使いは』なんて表現は正しくない。正確には『魔法使いと三上は』だ」


 薄く微笑んで、木陰は割れた一人きりのステンドグラスを見上げた。

 照らされた彼の横顔は、とても悲しげに微笑みを携えていた。


「君と魔女の関係性が好きだった」

「俺と、魔法使いの……?」

「虐められていた僕は、ある日彼女に救われたんだ。気まぐれでかけた、些細な魔法だったんだけどね。お陰で、僕に関わると良くないことが起きる、なんて噂が出回ってさ。嫌なやつにしがみ付くと、みんな本当に青ざめるんだ。あれは傑作だったなぁ」


 いじめられていたという話も、魔法使いに助けられたという話も、まるっきり初耳だった。普段、悠々とした態度と風体で絵を描いている彼からは想像もできない過去。だけど、語られた過去は表情と行動に見合った内容で。

 俺は驚きつつも、平静を装い耳を傾けた。


「憧れってやつかな。ボクも、魔女のように強い生き方がしたくなって、他人からより距離を置くようになった。自分を隠して、人の輪から外れたところを歩くようになったんだ。でも、あるとき気づいた」

「それは、いったい何に?」

「あんなにも強い在り方をしている魔法使いが、実はだれよりも孤独な存在だったってことに」


 ぐ、と力んでいた手が緩む。

 生前の魔法使いと過ごしたあの日々。顔をつきあわせる度、傷を巧妙に隠して着飾っているようなイメージを抱いた。とても漠然としていて、ソレに確信は持てないものの、きっとそうなんだろうと悟っていた感覚。

 木陰は俺と似通った視点で魔女をみていた。


「当然歩み寄りたかった気持ちもあるよ。でも、情けないことに僕は、彼女のとなりは歩けなかった。魔女のとなりには君がいて、すでに普通じゃなかった。とても割り込める雰囲気でもなかった。みんなの生活圏から一歩外れて物事を俯瞰していた」

「魔法使いはともかく、俺は別にそうでもなかった。俺はただ気まぐれで選ばれただけの人間に過ぎないはずだ」

「君にとってはね。けれど、ボクからみれば君も同じかそれ以上に変わってた。当時は衝撃を受けたよ。君たちの生き方はだれにも侵せない。絵の具に例えようとしても例えられない。すべてを寄せ付けない水みたいに別世界の雰囲気をまとっていた。レベルが違っていた。結局ボクは何をするでもなく、臆病なまま。気まぐれで呪われた『魔女もどき』になった」


 木陰はそこまで説明すると、自嘲的な笑みで振り向いた。

 そして、真剣な面持ちで言う。


「さて、ここからが本題だ、三上」


 ぴり、と空気がひりつく。


「ボクは辛かった」


 空気が、一変した。

 相対するこちらが凍りついてしまいそうなほどに冷徹で、火傷しそうなほどの意志。木陰から感じたことのない気配に鳥肌が立つ。

 周囲の寒気が呼応するように、不自然な霧を立ち昇らせる。どくん、どくんと高鳴りはじめる動悸に合わせ、俺は警戒だけは怠らず、木陰から目を逸らさない。


「遠くにいる君たちが羨ましくて仕方がなかった。孤独を隠す彼女に寄り添う勇気がない自分を呪った」


 ステンドグラス越し――色つきの月光が揺らいだ気がした。目先のひとりが放つオーラに、現実が怯えているようにもみえた。それくらい、木陰にしては人間じみた感情をあらわにしている。

 拳を震わせて、悔しげに床をみつめ。瞳に映すは、友人ではなくただの障害。空間の支配者として立つ影に背筋が凍る。

 不自然な霧は、朧げに輪郭を形成していった。クリスマスに出会った影法師と似た、魔女の姿だ。這い上がる非現実がぞわぞわと身震いをさそった。


「まるで『お前は部外者だ』と言われている気分だったよ。だから、今こそボクは個人的なエゴで、この身を供物に捧げてでも魔女を呼ぼうとしたんだ」


 ステンドグラスを割る。一見度のすぎたイタズラに思えるその行為に。彼は命をかけていた。

 それでも、認められない。受け入れることはないのだと、俺は言い返す。俺が定めたたったひとつの野望のためには、到底見逃すことはできない。彼をまっすぐ見据えたまま――うごめき、うなりに似た物音を増やしていく人形たちへ警告するつもりで、声を張り上げた。


「考えなおせ、木陰。お前の代わりに魔法使いが帰ってきても、だれも喜ばない。シスターだって祝福はしないだろうさ。俺もおなじだ、お前がいなくなったら、誰が昼の美術室をあける? 誰が都合の良い助言をしてくれる? ふざけるのも、いい加減にしろ!」


 嗚呼、情けない。矛盾している。

 何を捨ててでも魔法使いを復活させたいと願っているのに、こんな言葉は間違っている。キレイすぎる建前で欲深い部分を隠している。もちろん俺たちのために自己犠牲に走る彼を見たくないのは本心で、嘘偽りない言葉だ。だけど、それよりも優先すべきは魔法使いの復活で、そのための『過程』にはとくに煩くなる。

 そうだ。彼のやり方は単純に気に入らない。彼女を想えば想うほどに、やはり本能が拒絶する。

 それを口にしてこそ、きっと魔法使いは笑いかけてくれる。自分が生み出してしまった失敗作の彼女も、いつまでたっても復活できない彼女も、魔女は等しく呆れつつ、誉めてくれる。

 前を向く理由は、それだけで十分だ。

 しかし――木陰は断固として否定した。張り詰めた距離感が、逆立つようにぶわりと跳ね上がった。俺よりもはるかに怒気を濃くした声が返ってきた。


「ふざけてると思ってるのかッ! この儀式が、この幾度となく行なっている、秩序に対する冒涜がッ!」


 びりびりと空気が痺れた。あまりの迫力で、俺は言葉を失う。心なしか、取り囲み機をうかがっていた人形すらも肩を跳ねさせていた。

 月光の下、有り様を嘲笑うように、顔を引き攣らせて彼が語る。


「三上ッ! 君は自分を過小評価しすぎなんだ! どれだけ魔法使いのとなりに相応ふさわしいか分かっていない! お前だけなんだよ、魔法使いに寄り添えるのは! 他の誰かに代替できる存在じゃない!」

「木陰――」

「ボクは本気だ! 本気で魔女に幸せになってほしかった! ただそれだけだ! ただそれだけで、なり損ないの魔女になった意味が果たされる! こんな不条理に押し潰されて消えた彼女を救い出して、君の人生に届けたいんだよ! 悪いことじゃないはずだ! なら僕のことなんて捨ておけよ! ただでさえ針に糸を通すような成功率、これが最善で近道なんだって、どうしてわからない! いや、どうして分かっていて止めるんだ!」

「木陰、」

「魔女に愛されていて、君も彼女を慕っている。ならそこで収まれよ! 魔法使いを幸せにしてやれよ!」

「木陰ッ!」

「な、なんだよ……!」

「魔法使いには、恋愛感情なんて、」


 カツカツ、と足音が迫り、「ない」と言いかけた俺の顔を本気の拳が襲った。

 ガツン、という音が頭の中に響いて、突き飛ばされる。突然の行為に危機感を覚え、拍動が高鳴る。あまりに唐突で直接的な攻撃に焦って、距離をとった。

 俺は奥歯を噛み締め、木陰を視界におさめる。ズキズキと痛む頬に耐えながら。

 月明かりを背に、顔をくしゃくしゃにして木陰が叫ぶ。


「くそ、くそくそくそくそくそくそ――ッ! どうしてなんだ、ガラスの魔女! どうしてそんな遠回しなことをするんだ。三上の感情なんてとうに察していた筈だ。あの日々の中で、甘んじて受け入れていたはずだ! だっていうのに、なんで彼にこんな魔法を……!」

「魔、法……?」


 何かに苦悩する木陰が、キッと俺を睨む。


「三上、君はわかっていない」

「……」

「君は立つべきだ、魔女の横に! 傍らに! そうでなくては、あまりにも彼女が報われない!」


 俺は立ち上がった。ドクンドクンと急かす身体を引き起こす。

 じわじわと揺らめく魔女の幻影。

 凶器に差し込む光は相変わらず神聖さを保ち、もはやそこは現実の名残などない気さえした。

 すべての中心で、木陰が敵意をむき出しにする。

 ――ス、と。手に持った筆を差し向けながら。それはまるで、宣戦布告の合図だった。


「応えろ三上! どうして耐えられる! 見せかけの在り方、記憶! オモイデは単なる強がりに過ぎないというのにっ! 救えるかもしれないんだ、今度こそ! なのに――なのにどうして復活の邪魔をできる!」


 もはや、避けられそうにない。

 今や画筆は杖と同義。銃口を向けられたと考えれば息もとまる。普段なら何らトクベツな感情も抱かないソレだが、状況が状況だった。視界の隅を、複数の影が埋めていく。そのどれもが魔女を模しているが、不完全で歪。ニセモノにもなりきれやしない。もはやフツウなんて、ここにはなかった。

 ひとりきり。

 ほんとにたった、ひとりきり。

 真正面から支配者の眼孔を受け、逃げ出さない自分を俺は褒めたい。冷や汗が浮かんできて、心臓の音が耳障りになってきたくらいだ、そうでもしないと正気じゃいられない。

 問われた言葉に返答を。

 脳が出した指示はすぐに文字を並べた。

 そんなもの。いたって単純で簡単だ。俺は震える膝を誤魔化しながら、不敵に笑い、痛む肺に空気を送り込んだ。


「わからないか、木陰。それは――俺の役目だからだッ!」


 ――瞬間、さいが投げられた。


 ぶつかったままの視線が見開かれる。

 脚を引き身を低く、後方斜め下に振りかぶった筆は絵の具を纏う。

 痺れる思考が視界からの情報を解析し、木陰の払った筆の運びを残像に刻む。不思議と残る軌跡からは怪しい光が漏れ出し、無数に人形の腕が飛び出してきた。それが何なのか理解するより前に、俺は弾かれたように駆けだした。

 絨毯の中央通路を真正面から突き進み、当然のごとく飛びかかってくる人形の山。

 飛びかかり、間に割り込む魔女の幻影。振り上げられた片腕に合わせ、絵の具を載せたパレットを盾とした。

 パレット越しに伝わる衝撃、反して軽いその重み。

 顔のない人形の袖に、くっきりと黒い絵の具が付着した。弾かれた人形は、不気味に蠢いたかと思うと、輪郭ごと不安定になり霧散する。その様を置き去りにしながら、やはりか、と確信した。

 美術室に置かれた、シスターの絵。

 木陰が残したあの作品は、彼の心残りであり、迷いであり、希望だ。

 魔女の復活と信頼の相手に悩み揺り動かされてきた木陰相手には、これ以上ない抵抗になる。


「――ッ!」


 お互い同時に筆を振るった。

 木陰は円を、俺は縦に絵の具を振りまく。

 右斜め前方、長椅子の隙間から這い出てきた人形たちに飛び散った絵の具が付着し、煙をあげて霧散。対する木陰が描いた円からは、無数のビー玉があふれ出す。

 ばちばちばち、とタイルと絨毯を走る波。色鮮やかなそれらは軽い音をたてながら埋め尽くし、行く手を阻むどころか浸食していく。

 直感――触れるのは危険な気がして、人形が消え、空いた空間に身を滑り込ませた。自分がいた場所にビー玉の河ができ、後方で爆竹のような破裂音がけたたましく鳴り響いた。透明な濁流は、アニメや漫画でみたビーム攻撃を想起させた。

 だがそんな思考は一瞬だ。

 際限なく飛びかかる人形。

 筆を振るって消し飛ばし。

 パレットを使って防ぎ。


「木陰ッ! 待て!」


 足止めをすべくひしめき合う人形の向こう側で、いつの間にか絵画に手を翳している横顔に叫ぶ。

 辺りを占める重圧。濃くなる非現実。空間を震撼が襲い、びりびりとなにかを起こそうとする。彼が顔をしかめた拍子、頭上のステンドグラスからびしりと音が響いた。


「くそっ!」


 それは、俺の声であり、木陰の声だった。

 前回よりも強化されたステンドグラスは、並大抵の衝撃でも崩れやしない。堅牢な現実の壁を、木陰は歯を食いしばり忌々しげに睨んだ。

 それでもヒビを走らせ、ビキビキと悲鳴をあげる強化ガラスに危機感を覚え、俺はなりふり構わず人形の群れに突っ込む。絵の具を武器に、突破口をつくって。

 だがそこで、がくんと視界が傾いた。何かが足首をつかんだ。ばっと振り返ると、床を這う人形の一人が俺を見上げている。

 追い討ちをかけるように。振り解こうとする俺の後方から、ビー玉が飛んできた。

 咄嗟に顔を逸らすが、直に当たる。肩にさながら砲撃のごとくビー玉があたる。熱湯をかけられたと勘違いしてもおかしくない刺激が肌に走って、喉が痛みを訴える。木陰の心残りたる絵の具と同様、彼の拒絶が宿ったビー玉は、服越しにも焼け染みるような痛みを伝えた。

 尾を引く苦しみに耐えながら、筆を振るった。足元の人形をかき消して、しかし次の人形が俺を抑える。次から次へと軽い腕が掴みかかって、瞬く間に身動きがとれなくなった。


「――っ、が、」


 踵を返す木陰が人形の隙間から垣間みえ、焦燥が襲った。冷や汗を意識した。

 やはり生身で魔法を相手にしても敵わない。

 魔女の絵に、絵の具を振りまくだけでいい。それだけで、儀式は止められる。

 そんな理性を押し返すように、ひとりの人形が目の前に現れた。


 ――ふぁさり。


 長髪のカーテンが視界を埋め尽くし。

 魔女の造形を真似たそいつが、両掌で頬をつかんできた。

 ぼやけた顔面は蒼白。

 魔女を模した魔女ではないナニカ。

 輪郭すら危うい眼孔が強引に語りかける。


 『アイシテル』『アナタダケ』『マッテタ』『キョウジュ』『ワタシノモノ』『ウケイレテ』――


 悪寒が走った。心なき人形のはずなのに、不気味な体温を感じた。なぜか伝わる言葉が反響、声にならない悲鳴が喉を通過。


 『マホウ』『ガラス』『タンサン』『アイシテル』『アノヒ』『ジョウケイ』『アイシテル』『ニガサナイ』『アイシテル』『アイシテル』──


 矢継ぎ早に語りかけるソレは、さながら暴走した歯車だ。どこかで噛み合わない部分があって、不快な音を紡ぎ出していく。深みを覗けば覗くほどにノイズがかった呪詛に耳を閉ざすことさえままならない。振り払えない視界の先で、甘美で醜悪な、ニセモノにもなりきれないナニカが俺を見つめている。

 見つめる、見つめる、見つめる見つめる見つめる見つめる見つめる。


『アイシテル』。


 そんな言葉を、彼女は持たない。

 持つはずがない。だから、どれだけ言い聞かせようと無意味なはずだ……!


 アイシテル。

 アイシテル。

 愛してる……。


 熱い。

 胸の奥が、目の奥が、熱い。


 ブチン、と自分の中の何かが切れた。

 無意識に奥歯がぎしり、音をたてる。在りし日の振り向き顔が目蓋の裏に浮かんで、雑音の嵐に攫われていく。

 ふざけるな。

 ふざけるなよ、木陰。

 いくらお前だろうと許せはしない。

 これが魔女の本質?

 間違っている。どうしようもなく履き違えている。

 ガラスの魔女はこんな歪じゃない。

 もっと、もっと、澄んだ在り方をしていて、息苦しさを堪え忍んで生きていて、そんな現実すらも蹴飛ばすほどに強がって。いつだって泣きそうになる儚さを隠し持つ、俺の魔法使いだ。

 やめろ。

 やめろ。

 やめろ木陰。

 こんなのは魔女じゃない。魔女にはなれない。不完全だろうと構わないって? 理解しているくせに、目を逸らすな、そんなことをしても、俺もお前も、誰も救われない……!

 人形のカーテン越し、ガラスを割ろうと集中する木陰を睨んだ。

 湧きあがった黒い感情が、全身をかけめぐる。ばちばちと神経が焼き切れる痛みを覚えながら、俺は床に腕を突き立てた。

 ドクン――! と、心臓が薪をくべられたように震え上がった。


「──ぁ、があああああああああああああああアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」


 のしかかる全てを押し返す。

 途端、視界を遮っていた人形どもが肩を跳ねさせた。びくりと痙攣し、感情など持たない木偶のくせに恐怖した。

 耳元で焼け焦げる音。明滅する視界。触覚が遠のき、怒りとも似つかわない撃情が支配する。

 邪魔をするなと、お前はそう言った。

 だが、それは。


「こっ、ぢの、ゼリフだ、……!」

「なっ!? 三上、君はそんなにもっ、」


 驚愕する木陰の声が、思考の外側に押し流された。ジリジリかげる魔女の面影が、立ち上がれと背中を押した。

 声なき叫びを受けて、教会内を埋め尽くしていた人形どもがかき消える。木陰が明らかに動揺し、筆を振るった。

 月夜に描かれた弧、先からほとばしる静電気。パチンッという破裂を皮切りに、世界に歪みともとれる波が生まれた。荒らされていた赤絨毯とビー玉が舞上げられ、衝撃という圧力が人形もろとも吹き飛ばし、襲い掛かる。


 ──しかし。

 バチン! という音が弾けたかと思うと、ソレは目の前で打ち消された。


 余波とばかりに、頬のすぐとなりをかまいたちが裂いた。

 あり得ない現象に木陰が目を見開く。

 俺は重力に逆らうように立ち上がり、ひとり、またひとりと目に付く人形を消していく。


「やっぱり、君は、」

「うるさい! どうでもいいんだよそんなことはッ!」


 大事なのは一つだけだ。

 俺が特別だとか、お前が救われたとか、中身がからっぽでも魔女は魔女だとか。もう一切合切そんなのはどうでもいい。考えるのも面倒だ。

 もはや目的は違わない。

 周囲の人間の事情など些事、ただただ、彼女の完璧な復活のみを見据えて進む。そのために、今のお前は邪魔でしかない……!

 ガラスの魔女を──魔法使いを侮辱するのなら、誰だろうと赦せなかった。

 目を固く閉じて、再びひらく。鋭く睨んだ木陰、その後方に佇むキャンバスを標的と定めた。


「返せッ!! ソレは、俺だけの呪いだ……!」

「──、」


 『呪い』。その一言を耳にして。木陰は絶句し、顔を俯かせた。

 握り込んだ拳を震わせて、小さくなにかをつぶやく。聞き取れないけれど、たしかに「ボクだって」と口にしていた。

 ……教会の空気が急激に冷めきっていく。透明さを増していく。なおも湧き出る魔女もどきの人形。斜めに差した月光を受け、木陰に蜃気楼がごとく歪みが生じる。

 頭上から降りる光が、勢いを増す。空気の振動が伝わったかのように、ステンドグラスが共鳴。月明かりに色を付与し、鮮やかにキャンバスと木陰を照らし出す。そして、木陰の姿に何かが上書きされていく。

 ああ。そうか。ソレがお前の目的か。

 人形に魂を込めたところで、本物には迫らない。ならば、既存の生き物に吹き込めばいい。たとえ人ひとりの命が失われようとも、結果がすべてだ。

 ……だけど、やはりそれは間違えている。木陰には務まらない。

 睨んだ。

 今までにないくらい、自分は激昂していて不安定だった。顔が熱くて、行き場のない感情を迸らせて、収まる気がしなかった。

 助力、助言。結構。だがそれ以上踏み込んだのなら、お前は俺の敵だ。とてつもなく重い一歩を踏み出して、ぐ、と前だけを見据えて、片足にチカラを込めて、


 次の瞬間。

 意識に、ノイズが、走った。



◇◇◇



「ごめん、ハルマ……ごめん……」


 魔法使いがいた。

 わずかに目線の低い世界。俺が立っているのは、そんな不思議な現実だった。

 真新しいのに、変に色味が薄い。彼女の向こう側にひろがる駅のホームも、屋根の淵から降る黒い羽も、線路に差す日差しも。

 騒がしいはずの雑音が届かない。人々の喧噪も、流れる案内のアナウンスも、カラスの気高い鳴き声も。

 空気に透明なフィルターがかけられているようだ。

 当の彼女でさえも薄明に染まっていることから、とても遠い記憶をみているのだと気づいた。

 しかし、その光景に言葉を失う。

 目の前にいる彼女は、俺の知っている魔法使いではなかった。

 いや、正真正銘本人ではあるのだけど。ムダにでかい魔女帽子も、暗い灰色の髪も、漏らされる声色さえも。


 ただ――顔を俯かせて泣きじゃくる魔法使いは初めてみた。


 帽子の下、袖で目元を拭う仕草は、俺の知っている彼女とはとてもかけ離れている。

 常にサバサバとドライな対応をする。ひとりきりで行動することになんの躊躇いもなく、気まぐれでこちらを振り回す女の子。俺にとって魔法使いは綺麗で繊細で、別世界を生きる強い存在だった。ときたま覗かせる哀しさだって、待ち受けた『死』の運命だって、彼女はどこか受け入れている節があった。

 だから、こんな魔法使いはみたことがない。知らない。

 いつのできごとだ?

 なにがどうなっている?

 これはホンモノの記憶なのだろうか?

 あらゆる戸惑いが頭を支配して、ぐるぐると思考をかき乱す。

 あまりにもリアルで鮮明なオモイデに、どうにかなりそうだ。

 俺はどんな声をかけたのだろう。君はどうして泣いているのだろう。魔女のためになにができるだろう。

 疑問は耐えず、それでもなにかをしたくて、俺は腕を持ち上げた。

 黒い尖り帽子に触れようとしたところで、


 しかし世界は、ぴたりと暗転した。



◇◇◇




「──、な、」


 目を白黒させて、立ち尽くす。

 たった今よぎったフラッシュバックに、身に覚えなどない。どれだけ記憶の引き出しを漁っても、合致するモノは出てこなかった。

 混乱。

 呆然として、伸ばしかけていた手を見下ろす。あと少しで触れられていたであろう感触は、当然ながらない。見知らぬ自分が、見知らぬ魔法使いとともにいた。

 その隙を突かれて。背後から、ドンッと重いなにかが覆い被さる。

 地面に倒れ込み、さらにどすん、どすん、と重みが増していく。取り残された人形が何体も群がって、俺をおさえつけた。今度は消えろと念じても、消すことができなかった。そのうえ、持っていた筆ははじき落とされ、パレットを持つ腕はがっしりと掴まれてしまった。呆気なく、俺は無力化された。


「その様子は、なにか思い出したんだね、三上」

「……」

「ボクが思うに、君の体質に効くのは、おそらくだけだったんだ。とはいえ、魔女は恐ろしいよ。そんな強い魔法をかけてしまうんだから」


 魔法を。かけた。

 打ちひしがれたまま、聞こえた単語を反復した。

 何を言っているのか理解できない。


「あんまりにも引き出すものだから、封じられていた一端が溢れたんだろうね。さながら錠が歪んだみたいに。なにを見たか知らないけど、きっと見せられたのは真実さ」

「真、実」


きっと、木陰の言葉にウソは混じっていない。

 すべて真実で、本当なのだ。偏見や価値観という要因が多少脚色していようと、語られた在り方は魔女の一部分だ。

 俺の知らない魔女。

 いつから、こんなにも独占欲が強くなっていたんだろう。

 自身の変化に焦点を向けて、ふと悟った。

 ──あのときだ、と。

 思い返せば、木陰は真っ先に指摘していた。俺はいつもと違うと、ある昼の美術室で告げていた。宝石を手にしたその日に、示されていた。

 滑稽だ。我ながら。

 なんて空虚な生き方だ。相手のことをよく知らない、それでいて失恋したも同然の関係性。彼女はすでに命を失い、それでもと影法師に縋っては追いかける自分。

 わかっている。わかっているさ。俺は間違ってない。この生き方は正しい。三上春間としての人生に相応しい。後悔する余地も残さず、何もかもを賭けられる。

 でも。それでも。やはり考えてしまう。

 魔法使いに『だれかを好きになる』という概念が俺があるか否かなんて関係なく。彼女に手を伸ばす者として、俺は相応しいのか、と。

 俺は魔法使いがわからない。俺は自分がわからない。

 まずもって、魔法使いの手を取ったものが俺である時点で、『完璧な復活』などあり得ないのではないか?

 そう、つい最近、宝石騒動で失敗したように。

 押さえつけられた床を睨んで、腕から力が抜けていく。人形の重さに追いやられ、沈んでいく。

 近すぎるがゆえに復活が叶わないのなら、俺は……。



「否定するのが、あなたの役目なのでしょう?」

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