3-3
シスターが戻ってくることはなかった。
日が沈んでからも、三上家にはぽっかりお穴が空いたみたいに物足りない。自然、妹も肩を落とす。さすがに自身の発言を間違っていたなどとは言わないが、彼女を傷つけてしまったことには負い目を感じているようだ。
そんな妹へ背を向け、俺は玄関先で靴紐を結んでいた。
扉の小窓からは、薄く青い色が見てとれる。夜の深い色を、積もった雪の白さと街灯の光が和らげている。
きぃ、と音が鳴って、居間の温かな明かりが差し込んだ。
「……お兄ぃ?」
か細い声が呼ぶ。
いつぞやの夜を思い出す。宝石騒動に巻き込まれる直前にもこんな時間があったなと、感慨深くなった。
もしかしたらこいつは、俺が何かをしでかそうとする度に、無意識な変化を捉えているのかもしれない。基本的に受け身な自分が動き出す瞬間を、妹は独自のアンテナかなにかで敏感にキャッチしている――想像するとちょっと面白い。
俺は軽く笑みを浮かべ、口をひらいた。
「探してくるよ」
妹が小さく頷く。
時刻は午後八時過ぎを示していた。もうすぐ母親も帰宅する頃合いだ。この暗さにも関わらず女の子が居ないとなれば、大きな騒ぎになりそうだ。そのあたり、母親は過保護だから。
「気をつけてね」
靴を履き終えた俺に向けて、控えめな心配の声がかかる。そこには、きっと様々な懸念が含まれている。それを察しながらも、いつもの調子で踵を返した。
情報屋へ依頼していた調査が役に立った。一度断ったはずのシオンの連絡先が、ヨーグルト好きの彼から送られてきていた。一緒に欲しい情報も添えられている。
俺は眩しい画面に目を細めながらやりとりの文面を閉じた。さすがは情報屋の片割れだ、シスターの居所は難なく判明する。
新凪さんの自宅に転がり込んで、そのまま泊まり込むつもりらしい。一先ずは安心だ、と胸を撫で下ろした。公園で寝そべり夜を明かすよりよっぽどマシだ。
俺は一息つくと、歩調と進行方向を変えぬまま、通話アイコンをタップした。
駅までの道すがら、スマホを耳に当てる。
プルルルル……という無機質な呼出音が響いた。視線を持ち上げながら、俺は応答を待った。
三回。四回。特段理由がなければ、すでに切っているところだ。そうしないのは、出てもらわないと困るからだった。
呼出音が流れていく。
さく、さく、靴が沈み込む。
アスファルトは雪が塗り替えていた。頭上に瞬く星々はまばらな雲の隙間から覗いている。
友情にハサミを
ブツ、という雑音が、唐突に呼出音を切る。
『……ッ、もしもし』
摩擦音の後、くぐもった声が聞こえた。
「こんばんは」
『なんですこんな夜に。あまりにもしつこい見知らぬ番号、生徒でなかったら警察に連絡してましたよ』
相手は声だけで俺だと気づいたらしい。
それが今はとてもありがたい。携帯を握った手の冷たさに耐えながら、俺はいつも通りの口調を心がけた。
「クリスマスは楽しめましたか、みどりセンセ」
『……冷やかしなら切ります』
「冗談です」
腕時計に目を落としながら、頭のなかで計算する。学校で合流してからとなると、教会に着くのは午後九時を過ぎるだろう。
足を速めた。
「夜分に申し訳ないんですが、頼みがあります」
『聞くだけ聞きましょう』
「美術室に入りたいんです」
『いつですか?』
「今からです」
『おバカ。今何時だと思ってるんですか? 私の権限で開けさせろと言うんですか?』
「そこを何とか。先生にしか頼めないんですよ」
『私にしか、って……はぁ。どうして今なんですか。理由をまず説明してください」
ため息をこぼしながら、先生は機会を与えてくれた。さすがは生徒に人気のみどりセンセだ。……男女で人気の意味合いは異なるけど。
俺は頭を回しながら理由を考える。比較的車の通りが多い道に出るまでのごく短時間をつかって。
先生は宝石騒動に巻き込まれている。魔法と無縁というわけではない。しかし、それらのあらゆる痕跡は修正された。怪物の姿に変えられてしまったことはおろか、一度命を落としたことすら記憶に残っていないだろう。
そんなまっさらな先生に、どこまで明かすべきか。
「理由といっても色々あります。それも、先生が思っているより複雑で難解な」
『理解しています。その上で訊いています』
「……、こちらとしては助かりますが、いいんですか? 俺はこれから悪さをするかもしれませんよ」
電話越しに、ふっと笑い声がした。「悪いことをする人は、そんなことは言いませんね」なんてつぶやいて。
それから、声音に真剣さを混ぜ込んで語る。
『あなたたち生徒は、私たち大人からみて若いです。でも、決して幼いわけではない。思考は繊細で深く、時には大人をも凌駕する。年齢差以前に、学校に通う皆さんは人間です』
「つまり?」
『つまり。こと隠したがるあなたのことです。きっと私の想像もつかない事情があるのでしょう。私はそれを土足で踏み荒らすほど無粋な人ではない……つもりです』
駅の光が近づいてきた。
同時に、夜行バスやタクシーなどといった環境音が増える。それを感じ取ったのか、先生は核心をつく問いを投げかけてきた。
『詳細はいりません。三上くん、あなたは結局のところ、何をなしたいのですか? 誰を助けたいのですか?』
それを聞いて、思わず歩みを止めた。
仕事帰りの社会人や紙袋を提げたお姉さん、駅の北口へと向かう親子。行き交う人々に反し、俺は立ち尽くす。動きを中断すると、吹き付ける風の冷たさが身に沁みる。
誰を助けたいのか。
その響きが耳の奥に残って、何度も自分に訊ねた。
「俺は……」
ガサゴソと、向こうから雑音が聞こえた。ハンガーの音が混ざっていたことから、先生は外出の準備をしながら返答を待っているようだった。
まるで、最初から見透かしているかのような沈黙。自分の在り方を言い当てられてしまった気分に陥いる。
誰を。
俺は、誰を助けたい?
悲しむ妹か。嘆くシスターか。はたまた、己の願望に引きちぎられそうな木陰か。
否。
そんなの、問うまでもなく決まってる。
『要点のみを述べなさい。あなた、試験ではちゃんと点数とれてるんですから』
本当に、この人には敵わない。こういうことが起きるたびに、大人として尊敬できる人だと再認識する。
僅かな躊躇いは霧散した。背中を押され、思考がクリアになった気がした。いつだって、物事の理由は一人に集約される。
俺は雑踏のなかで答える。
どうせ先生には何一つわからないだろうけど。きっと答えることに意味がある。
三上春間という一人の人間が、どこかの誰かのために動いている──今先生が欲していたのは、そんな善人めいた動機だった。
「先生。これから俺は、友の夢を否定します」
吐いた息が夜空と喧騒に
『それは、なんのために?』
「救うために」
『誰を?』
「もう生きていない──孤独で不器用な、優しい女の子のために」
そうですか、と。納得の声がした。
今まで聞いたなかで、最も優しい声音だった。
『車で二十分ほどかかります。正門で合流しましょう』
多くは語らず。
ばたん、という扉の音と靴音を響かせながら、先生は通話を切った。
同時、こちらも歩みを再開する。
辛うじて残されていた葛藤は、氷解した。目蓋を閉じれば浮かび上がる面影に、この手を届かせる──それだけのために動くための覚悟ができた。
明日の自分は、どうなっているのだろう。
築きあげた友情をふたつとも失って、ひとりぼっちになっているかもしれない。かけがえのない友人だ。人生を繰り返しても、二度と同じ間柄の仲間を見つけられる気はしない。
そんな未来に対する恐怖はしかし、今は薄い。
気温を振り払うように、俺は前を見据えた。
◇◇◇
あの日の魔法は、無情にヒトの人生を変えてしまった。
焼けるような痛みが突き刺さる。
電気が頬を貫いたのではないかと思うほど、悶絶する刺激が襲い、喉奥から絞られた悲鳴が溢れた。
それを耳にして、髪をつかむやつらは笑い声を高くする。いつ聞いても耳障りだ。
がつん、と地面に叩きつけられ、衝撃に苦しむ。
口に砂が混入し、鼻奥からツ、と血の味がした。
歪んだ視界に雑草の根本が映り込み、手足が脱力した。抵抗すればするほど、こいつらは人形の四肢を捥ぐことを楽しむのだと知っている。
日陰となった校舎裏、他人は通りかかることもなく、苦しみから逃れられる気はしない。もっとも、カーストで言えば最上級で、みんなの人気者たる彼らの行いともなれば、見かけたとしても止めようとは思わないだろう。
傍観――中学生の社会構造は容赦がない。誰もが責任を負うことに引け目を感じ、見たくないものは感知しない。
それ以前に。ボクはもう、だれかに救いを求めるほどの気力を失っていた。女のようにも見えるこの容姿のせいか、息を潜めた生き方のせいか。それとも、ただ単純に順番がまわってきたからか。人間は様々な理由を「何となく」で済ませ、残酷に害をなす。いざ咎められれば虐めではなくスキンシップのつもりだった、などと
他人などみんな死んでしまえと、当時のボクは感じていた。
朦朧とする意識の最中、ふと今の惨状を思い出す。
ガツガツと頭に響く衝撃が、なおも続く地獄を伝えていた。光の見えない苦痛に耐えながら、掴まれた髪が抜ける感覚がする。
死んでしまえばいい。
すべて、すべて、死んでしまえ。
そう呪いながらも、ボクはなすすべなく壊れていった。
一筋の光が通り抜けたのは、そんなときだった。
「──、」
唐突に騒がしい音が途切れた。
鈍い打撃音も、ザラつく声も。綺麗さっぱり消え失せる。同時に自分の息づかいも落ち着いて、ボクは現実に意識を差し向けた。
「ひどい有り様ね」
焦点の合わない目が、ぼやけた輪郭を映した。
覗き込むように、黒いシルエットがこちらを気にかけていた。
聞いたことのない女の子の声。三角形を被った佇まい。何もかもボクの知らない人物が、地獄から解放してくれた。
徐々に視界の像が定まってきた。日陰よりも暗い姿の彼女は、頭に尖った帽子をかぶっている。前髪の隙間からは夜の瞳。影の奥には、感情を感じさせない無表情。纏う雰囲気はあまりにも普通からかけ離れていて、息を呑んだ。
周囲に転がる生徒の身体は、びくびくと痙攣してもがいていた。変わり果てた彼らの有り様と冷たい魔女の冷たい視線は、恐怖を植え付けるには十分だった。
「生きてる? ならいい。じゃ」
用事はおわったとばかりにそう言って、魔女はあっさり身を翻した。
待って、と引き留めた。およそ言葉にすらなっていない掠れた声でも、彼女の耳には届いたようだ。
反身で振り返り、ボクを見下ろす。
せめてお礼を。そう思って呼び止めたけれど、乾いた喉は満足に言葉を紡いでくれない。弱々しい音しか吐けなかったボクを、魔女はじっと見つめていた。
しかし、魔女はナニカが琴線に触れたらしい。徐に指を向けると、小悪魔めいた微笑みを浮かべた。
そして、わかりきった疑問を投げかけた。
「あなた、いじめは嫌い?」
「──」
ボクは数秒唖然としてから、頷いた。
そ、と淡白に感想をこぼし、くるりと魔女は指をまわした。視界におさめた自分を囲うように。
その仕草がなにを意味するのか、ボクには想像が及ばない。ただ何かされたことしかわからない。
どくん、どくん、と。今まで感じたことのない緊張感が這い上がってきて、自身の身体を観察する。
「……」
数秒経ってもこれといった変化はない。
どうなっているんだ。戸惑う自分に対し、魔女は語る。
「ソレは虐める彼らを怖がらせるだけのおまじない。使うのなら有効に」
「……ぇ、」
「ただし、あまり頼らないこと。使いすぎてのめり込んで……こっち側へ来ないよう気をつけることね」
それだけ残して、彼女は去った。
それがボクの持っている、儚く朧げな記憶。
四年前、しかも満足に見えていなかったこともあって、ガラスの魔女の姿は知らない。ぼやけた虚像みたいにしか思い出せないし、日を重ねるごとに薄れていく始末だ。
そう、ボクはただ、気まぐれに助けられて、気まぐれにおまじないをかけられただけの存在だ。とてもじゃないが、魔女にはなれない。三上ほど縁も深くない。中途半端で価値がない。
そんなボクでもできることといえば、コレしかない。
……いつからだろう。人生が狂いはじめたのは。
三上と知り合って、ガラスの魔女が死んでしまったことを知り、どっちつかずの生き方が思考を歪めていく。いつしかボクは、ただの自己満足な欲を抱くようになってしまった。
筆を走らせる。
先から伝わる紙面のざらつき。絵の具のなめらかさと微かな腕の痺れが、疼きを落ち着かせてくれる。
頭上には真新しいステンドグラス。月明かりを透かし、色づいた光を差し込ませていた。キャンバスの白に黒い衣の魔女を思い描いて、サラサラとカタチに起こしていけば、それだけで過去の情景が浮かび上がった。
人払い。それとガラスにちょっとした影響を与えるくらいしか、ボクにはできない。しかも日に日に弱くなっている。
おそらく今日が最期のチャンスだ。なら、三上には同席してもらわないと。
きっと彼なら、ボクと対峙する。たしかな実感をともなって、刻々と時間が過ぎていく。もう何時間ここに座っているんだろう。今か、今かと到来を待ち、ついに魔女の後ろ姿を描き終えた――そのとき。
キイ、と背後の扉が音を立てた。
ちょうどキャンバスから離した腕を、ぴたりと止める。空っぽなふたつの窓枠から吹き込む風とは別種の、冬の冷たさが流れてきた。
ボクは立ち上がって、振り向く。そこには、待ちわびた彼の姿があるのだった。
さあ、はじめようか。
ボクと君の、最期の問答を。
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