2-4

 情報屋と協力しはじめて三日。

 冬休みまえの最後の一週間に突入し、待ち構えた期末試験。一年間を乗り越えた生徒は各々の憂鬱を抱え、残された気力を振り絞る思いで臨むことになる。俺や情報屋も多分に漏れず、残りわずかな平日といえども気は進まない登校を繰り返していた。ここ最近は、自宅で与えられた貴重な自分の時間を割いて、ぼちほちと、適度に勉学に励む期間だった。

 割れたステンドグラスの件もあって、さほど取り組めたとはいえない。そも、そこまでの成績を望めるほど秀でてもいない。学年平均のちょっと下あたりをうろつくだけの、ありきたりな生徒が俺だった。

 学内の雰囲気は、試験まえにも関わらず軽やかに感じた。

 試験準備期間は部活動もなくなり、代わりに居残りで勉強する光景が散見されるが、それでも定期試験よりはぴりぴりとした空気はなく。なんなら、自分のクラスでは楽しそうに駄弁る女子の姿もあったくらいだ。

 それが意味するところは、年末よりさきにやってくるクリスマスが原因だろう。試験の日程と重なりはするけれど、生徒たちが浮かれるのも無理はない。

 あるところでは、家族で宴を。またあるところでは、恋人と甘い夜を。過ごし方は人それぞれ、ときには苦い思い出になる可能性だって否めない。

 それでも、基本的には歓迎されるイベントだ。

 今年も残すところあと数日。

 試験さえ乗り越えれば、年中働きづめの母も仕事から解放されるだろうし、妹はさらにこたつの深みに嵌るだろう。今年はシスターも加わって、年末の料理は異なる味付けが楽しめるに違いない。

 そんな小さな連続の予感を──俺は俯瞰している。


 人気のない廊下を歩く。

 棟をまたぐと、ことさらにワックスの剥げた木目が出迎えた。調理室と美術室くらいしかない棟だ、部活のない放課後ともなれば静けさが増す。斜めに傾いた陽も差し込まず、暗さが際立っていた。

 居残る生徒をのぞけば、大半はさっさと帰宅したか、あるいは塾に移動していることだろう。それがこの試験まえ期間のあるべき行動らしい。

 その点でいうと、こうして美術室の主人を訪ねるべくほっつき歩いているのなんて、俺くらいかもしれない。

 足音が響くだけの移動。先に待つは、ひとりの少年。だれかと談笑に浸るわけでもなく、静寂を求めて彷徨う亡霊のようだと、内心で自嘲する。

 孤独、と他人は言うけれど。慣れてしまえば、案外心地のよいものだ。

 魔女がいなければ成り立たない時間。

 欠落を感じさせる日常。

 足りない波乱。

 それらを他人で埋めることは罪悪感しか生まない。だから、こうして群れから離れるように歩くことは抵抗感がなかった。むしろ、自分に相応しい在り方がこれなのだと、どこかの誰かに褒められている気分だ。

 木陰は、こんな俺を知ったら『異常』だと罵るだろうか。

 角を曲がりながらすこし考えて、首を振る。木陰なら、また「君らしいね」と朗らかに笑うだろう。

 目前に構えた白い引き戸を視界にいれて、ため息をつく。

 余計な思考を頭の片隅に押しやって、俺はいちど後方を振り返った。人影がないことを確認する。それから、寒々しい廊下から逃れるべく、鈍色の取手に手をかけた。

 重みの移動とともに、ガラガラという聴き慣れた音が反響した。

 閑静な廊下とさほど変わらない、むしろ埃っぽさが寂しさを増す教室が出迎えた。

 彼の不在を悟った。

 いつもなら開いているベランダ側の窓が、今日は閉ざされている。陽の届かない美術室は空気に灰色を混ぜ込んだみたいに静まり返っている。

 開け放たれた戸から空気が流れ込み、埃が舞った。

 ……さすがに、木陰も帰宅したようだ。

 そう考えて、すぐさま否定する。いや、いつもなら彼は居残るはずだ。

 試験準備期間だろうがなんだろうが、木陰という人間は絵と向き合う。大人で例えるなら「ちょっと一服」感覚で、タバコの代わりに筆をとる。今日この時間に彼がいないことに、得も言われぬ胸騒ぎを抱いた。

 そんな彼を知っているから、何もないことなど理解していても、無性に探りたくなった。普通とは異なるなにかがあって、それがわずかでも波乱と希望をもたらしてくれるのではないかと夢想した。

 波乱と呼ぶべき事象なら、つい先日体験したばかりなのにな。と、ひとりでに苦笑する心持ちで、俺は長テーブルの脇を歩いた。

 いつもよりはっきりと靴音が耳にとどく。

 鼻をかすめる絵の具の残り香が、芸術の気配を伝えてくれる。

 片側を覆う薄手のカーテンが、明るさを薄めていた。視界を確保するために開け放つと、美術室を「絵を描ける」程度の光が満たした。

 教室の後方は長机が寄せられ、広めのスペースが設けられている。描き途中なのか、複数のキャンバスと木イスのセットが放置されていて、うちふたつはそのままだ。回り込めば美術部員の作品を拝むことができる。

 しかし他人の絵を身勝手に覗く気にはならず、代わりに残りひとつのキャンバスに目が止まった。

 窓辺に寄るような端、布がかけられ角を浮かび上がらせていた。

 まるで直感めいた確信が足を突き動かして、俺は絵の正面へ回り込んだ。イスには洗われたパレットと筆が二本置かれていた。筆は乾き切っておらず、僅かに湿っている。

 昼の美術室に陣取る彼が同じモノを使っている光景を、俺は記憶に刻んでいた。およそ青春とも呼べない短期間を、画材の匂いで彩ったころが、今こうして答えを導き出しているのだ。

 この絵は、木陰の作品に違いない。

 彼がここにいない理由が、布の向こうに隠されているのだろう。

 俺は冷たい空気に浸すように腕を持ち上げ、触れようとした。


「なにをしているのですか」

「っ!?」


 不意に届いた声に驚いて、俺は身をすくませた。

 伸ばしかけた腕を引っ込めて、声の主を振り返る。

 半開きになった引き戸に手をかけ、怪訝な表情でみつめる教師がいる。

 下半身はスラックスを身につけているのに反し、上半身はカーディガンを羽織った、いつもより柔らかな物腰。鐘の宮高校の男子たちの間でも美人と名高い、すらりとした鼻筋。

 みどり先生だった。


「先生こそ」


 そう返すと、あからさまにため息をつかれる。こちらの「言う気はない」という意思を読み取ったようだ。

 それから、先生は有無を言わさず入室してきた。初めて訪れたみたいに、周囲を見渡しながら。

 俺は件のキャンバスを悟られないよう、すこしだけ移動する。


「普段から肝心なときに限って見かけないから、どこで過ごしているのかと思えば……美術室だったんですね」

「ときどきですよ。本当に、ときどき」

「へぇ……」


 ウソをついた。こうでもしなければ、俺と木陰の憩いの場が、時間が──言うなればオアシスが、失われてしまう気がしたから。

 しかしそんな心配などつゆ知らず、先生はさらりと指で机上を撫で、並んだキャンバスを見やる。心なしか、少し楽しそうにみえた。


「それより、俺になにか用事ですか?」


 話題逸らしに応じ、そうだ、と先生は手を叩いた。


「いえ、あなたを探していたわけではないんですがね」

「じゃあ何だってこんなところへ?」

「そりゃあ、この時間に美術室の扉が開いていたら気になりますよ。一応教員ですからね」

「そうでしたね。一応教員でしたね」

「……怒りますよ」

「親しみやすい良い先生、という意味ですよ。今のは」

「そ、そうですか」


 虚を突かれたみたいな反応をして、頬をぽりぽりとかくみどり先生。

 なるほど、多くの男子生徒が心奪われるのも納得だ。毅然とした態度のくせに、ふとした瞬間に年頃の乙女みたくギャップを覗かせる。持ちまえの美人さも相まって威力は絶大なのだろう。

 もしも俺が魔法使いと出会っていなければ、幾多の男子生徒の仲間入りをしていたに違いない。

 ……。

 いや……違うか。魔法使いに出会わなかったら、俺は先生と話そうとすら思わなかったかもしれない。


「三上くんは榊原先生と仲が良いのですか?」


 唐突に、そんな疑問を投げかけられる。

 榊原先生というのは、この学校で美術科目を担当している老齢の教員だ。いつもは備品の詰められた倉庫を挟んで、ふたつ隣の準備室で過ごしている。

 しかし、これといって仲が良いわけではない。


「俺が、というよりは、友人が美術部員なんですよ」

「ああ、なるほど。三上くんはその部員の子と仲が良いんですね」

「まぁ、そうですね」

「……」

「……」


 静けさが深いこの場所だからこそ、沈黙は痛い。

 俺は話題を探して、すぐに思い至った。

 コレなら布のかけられたキャンバスを悟られることもないし、ただ俺の抱える悩みを訊ねるのも一興かもしれない。

 俺は手のひらを開いて、ぎゅ、と少しだけ強く握る。ふたりの人間を思い浮かべながら、口を開いた。


「先生は好きな人、いますか?」

「はっ!? えっ、はいッ!? なななななな何ですか急に!?」


 目に見えて動揺している。しん、としていた教室が一転、彼女の蹴飛ばしたイスが倒れてけたたましい音が響いた。

 しかし先生はそれすら気に留めず、露骨に距離をとり、口もとを隠して警戒体制になる始末。


「すっ、好きな人ですか!? え、えぇ……あなただけはそういう目で見ないと思ってたのに……」

「あの。違いますからね? 先生を狙って遠回しに探りを入れてるわけじゃないですからね?」

「あ、そうなんですか。よかったぁ……」


 というか。やっぱりあるんだな、生徒から探りを入れられたこと。サラッと「あなただけは」とこぼす辺り、何人かの生徒からアタックされた経験をお持ちなのだろう。そういう意味では、ちゃんと教師として断っているみたいで安心する。

 俺は気を取り直して言う。


「俺が訊きたいのは、『人を好きになったことはあるか』です」

「好きになったこと……ですか。うーん、そう、ですねぇ……高校のときにひとりだけ、サッカー部の男の子を好きになったことありますけど。これまで恋愛に心躍ったのはそれ一回限りですね」

「なるほど……今はいないんですね?」


 先生が頷く。


「じゃあ、例えば手を繋いで仲睦まじく登下校している生徒をみて羨ましく思ったりしますか?」

「え? まぁ、それなりには。たまに他の先生と話したりしますよ。『あの二人付き合ってるらしいですよ、けしからんスよねー』って」

「そうですか」


 ……生徒をそんな目でみていいのか教員。

 しかし、しばらく恋愛していない先生ですらも、興味だけは抱いている。男女の関係を意識している。

 なら、やはり参考にはならないか。


「何ですか何ですか? 三上くん、好きな相手でもできたんですか?」

「茶化さないでください。俺の話でもないし、訊きたい主旨は真逆です」

「真逆?」

「恋愛感情をもたない友人がいるんです」


 主にふたり。

 ひとりは魔法使い。彼女は俺を連れまわすが、恋愛に関しては無頓着のように、さばさばとした対応をとっていた。

 もうひとりは木陰。それなりに仲の良い相手から告白を受けているのに、さらに言えば心情的にも許しているのに、受け入れる素振りを全くみせない。


「ああ、なるほど。わかりました。あなたが訊きたいのは、『他人を好きにならない感覚』ですね?』


 そうだ。

 魔法使いも木陰も、他人を遠ざける。どこか普通から一歩外れたみたいに生きて、達観している。常識を外側から見つめ、恋愛感情とは無縁そうに振る舞っている。

 木陰がシスターの想いを知りながら拒否し続けているのは、どういった理由があるのか。どんな感覚なのか。俺は彼の内面を読み取れずにいる。


「俺は理由が知りたい。他人を遠ざける理由、告白を頑なに断る理由、断るくせに距離を詰める理由、好きでもないくせにデートに誘う理由、恋愛感情をもたないはずなのにひとりだけ特別扱いする理由……彼らはまるで、別世界の住人だ」


 彼らの行動は予想がつかない。考えの先読みができない。いたずらに周囲をかき乱して嘲笑あざわらう。

 そのせいで。

 俺は魔法使いに今もなお翻弄され、なんとも言えない複雑な気持ちになる。

 シスターは成就というゴールの見えない線路を裸足で歩き続けている。

 俺とシスターは境遇が似ていた。叶うはずのない願望を抱いて、夜空の星に手を伸ばしている。星は気分屋で、たまに現れては姿をくらませる。弄ぶように。けれど悪い気がしないからタチが悪い。


「そうだなぁ」


 先生は蹴飛ばしてしまったイスを立て、そこに腰を下ろした。

 そして、いつもは見せない物憂げな表情をして、自嘲的に笑う。


「私も経験豊富なわけじゃないから、何を感じて、何を考えているかはわからないですけど。たしかにそういう人は、どこか別世界を生きてますよね」


 先生のまわりにも、恋愛に興味がない誰かがいたのだろうか。過去に思い馳せるように、彼女は語った。


「きっと、理由なんてないんですよ」

「理由が、ない?」

「はい。理由はない。でもはあります」

「……それは、同じものではないんですか」

「似て非なるものです。近い意味合いではありますが」


 俺は黙り込む。

 原因──その表現は的確に物事の本質を表している気がして、考え込んだ。


「彼ら彼女らは、恋愛感情を持たない。そう捉えれば無機質なイメージを抱きますけど、ただ『他人を好きになる感情』を理解できないヒトなのだと捉えれば、とても人間的なイメージになります」

「……」

「おそらく、向こうも向こうで一杯一杯なんでしょうね。好意が理解できない自分──それがひどく異常に感じられて、普通になりたくて。だから、告白を断った相手でも寄り添ってくる。合わせようとしてくる」


 木陰と魔法使いの顔が脳裏に浮かぶ。

 いつも見通したように振る舞う木陰も、一歩引いた見方をしている魔法使いも、その裏には葛藤が隠されているのだろうか。

 葛藤を抱いていたとしても、やはり俺には読み取れそうにない。彼らはとても、隠すのが上手だから。


「そこにあるのは、理由ではなく原因です。他人を好きになりたい本能。反してそれを許さないいびつな思考回路。自身が定めたルールではなく、気づけば縛られていた鎖のようなもの。そうやって絡まって正しい方向を見失う原因が、曖昧な行動に走らせる」

「はは、まるで見てきたかのような物言いですね、みどりセンセ」


 感想をこぼすと、先生は苦笑した。「むかし、友達がちょっとね」と。

 釣られて俺も苦笑した。


「でもまぁ、本当に恋愛感情を持たないなら、の前提ですよ」

「……持たないですよ」


 少なくとも魔法使いは。木陰はどうか分からないけど、彼女はたしかに、恋愛とは程遠いところに生きている。

 ガラスの魔女は他人を好きになどなりはしないのだ。それは揺るぎない事実で、変えようがない。


「そうですか」


 先生は踏み込むことはしなかった。生徒の人間関係はとても複雑なことを理解しているらしく、あっさりと話題をきり上げる。


「さて。私はもう行きます。期末試験は明日なんですから、はやく帰って勉強してください。ちゃんと戸締まりはして、ですからね」

「わかりました。ありがとうございます」


 立ち上がって、先生が去っていく。「いやに素直で怖いんですけど」なんて呟いて、二の腕をさすりながら。

 俺はその背中を見届けてから、しばらく時計の針の音を聞いていた。かつん、と一分が過ぎて、再度、布のかけられたキャンバスに向き直る。

 今度はだれにも邪魔されることなく取り去られた布。その奥に眠っていた絵を見て、俺は驚きに目を見開く。息を呑んで、モデルとなっている彼女の名前を口にした。


「……、シスター」


 向かいの席に座り、肩肘をついて文庫本に目を落とす実里ミノリ。いつもはシスターの装いをしているが、描かれた彼女はとても自然体で、耳にかかる髪をかきあげている。細められた瞳の綺麗さも、長いまつ毛も、きめ細かな肌の色も、何もかもが繊細なタッチ。

 昼休みに描いていた絵なんかとは比べ物にならないくらい、魂がこもっていた。

 何の気なしに、習慣の一部として描いた絵ではない。あらゆる感情を絵の具に混ぜ込んで、筆の運びの強弱をこれでもかと追求し、一点の狂いも許さず創られたものだ。

 素人目にもわかるほど、切実な感情が伝わってくる。


 魔法使いとは異なり、彼はこちら側の人間だった。そんな安堵と同時に、底の見えない新たな疑問が浮上した。

 なぜ。

 本当に、なぜ告白を受け入れないんだ? なにがお前にそうさせるんだ?

 教えてくれよ。


「――木陰」

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