2-3
──「木陰さん」。
そう呼ぶようになるまえは、私も彼を名前で呼んでいた。三上さんとつるみ始める以前の話だ。
本名、
成海さん、と呼べば相手家族が脳裏をよぎり、居心地が悪くなる。
かおるさん、と呼べば彼はとても可憐な存在に昇華された気がして、顔を見れなくなる。例えるなら、近所のお姉さんみたく遠くに感じてしまう。
家族としての関係をなかったことにはしたくない。けれど彼の家族との関係は考えたくない。欲深さゆえの葛藤が、そこにはあった。
そういう意味では、『木陰』という呼称はとてもちょうどいい。他人行儀すぎず、かといって踏み込みすぎない。日差しを程よくやわらげてくれるような性格の彼にはぴったり、このときのためにあるような響きを有している。
私は愛称めいた呼び方が好きだった。
――と、このように。
私は呼び方ひとつで複雑な心境になるくらいには、彼との距離を測ってきたのだった。
血のつながった兄妹、されど、複雑な事情さえ飲み込んでしまえば、残される葛藤も少なくて済む。昔はそんな風に、漠然とした感覚で物事を捉えていたけれど、すぐにそう簡単には割り切れないと思い知った。
私と木陰さんは、再婚した父と、父の元奥さんである女性との繋がりから顔見知りになった。四年まえの今頃のことだ。
兄妹にしては淡白な距離感を覚えている。
けれど、それでよかったのだと、今は思う。最初こそぎこちない関係性だった私たちも、次第に緊張はほぐれ、よく顔を付き合わせるようになり、砕けた物腰になり――今に至る。
そんな曖昧な関係性を続けてきたせいもあるのだろう。抱えた重さはいつのまにか別物にカタチをかえていた。大人に対する信頼が薄くなるほどに、近い境遇である彼が気になっていた。そうしてあるときを境に、自分の抱える感情に名前を付けられなくなる。いつもどおりを装い会話する私を、冷静な私は
「好きなんじゃないの? 異性として」
そうばっさりと指摘したのは、長めのカーディガンを羽織る魔女だった。
涼しげな横顔が、窓枠を指でなぞりながら、何の気なしに告げたのだ。整った顔立ちと、目に優しげのある暗さを宿し、けれど気分屋のネコみたいに教会を見てまわっていた。
初対面のときに一度だけ尖った帽子をかぶっていたが、そのころには見なくなっていた。黒を薄めたグレーの髪を晒していた。さすがに恥ずかしいのだろうか、なんて疑問を抱くがしかし、投げかけることはない。
「木陰さんを好きって……私が?」
「ほかに誰がいるってのよ」
ガラスの魔女はいつもふらふらしていて、気の向くまま、風の吹くままに過ごしている女の子だ。側からみて、とても誰かとつるむタイプではない。ドライな性格も隠した特殊性も相まって。
だけど、友人の少ない私からすれば
返ってきたのは、とても簡易的でテキトーな答えだったのである。
「好、き……」
「初めて感情を知ったロボみたいな反応するわね、あなた……」
すとんと落ち着く反面、「そう定めていいのか」と迷う心境。
そんな内心を見透かしたのか、それとも面倒で一蹴しただけか、魔女が言う。
「私は相手のことなんて知らないし、迷うのも自由だけど。でもいいことじゃない。あなたのソレは、持ってるだけ幸せなものよ」
彼女は手近な長イスの端に腰掛けると、どこからともなく取り出した蒼矢サイダーをあけた。プシュッと酸の抜ける音を響かせると、気泡が昇りはじめた透明さを、鮮やかなステンドグラスにかざしていた。
まぁ、このこじんまりとした教会の見どころなんて、ステンドグラスくらいだ。魔女の飽きが早いのは変ではなかった。
私は彼女の座る長イス──その反対側の端──に座り、自身の悩みに意識をもどした。
「もし――もしですよ? 一般的に異端とされている片想いだとしたら、どうですか?」
「……どうですか、って言われても」
魔女が炭酸をひと口味わって、そう返す。
「そもそも、あなたの言う異端ってなによ? 好きなヒト、山育ちだったりするの?」
「山育ち……だと異端なんですか?」
「人狼か何かなのか、ってコト。ヒトはヒトと。獣は獣と。それこそ一般的な思考でしょう。ま、人狼なんているわけないけど」
「魔女のくせに否定するんですね」
「私を人狼と一緒にしないで」
「わかりましたよ。あなただったらどうですか? 告白でもしようものなら、風当たりが強くなることは明らかな片想い。諦めますか?」
「その相手との関係性によるわね。実際、どういうワケで迷ってるの?」
「……血縁なんですよ」
「ふぅん」
心底どうでもよさそうな反応に、私は見上げていたステンドグラスから、横の魔女をちらりとみた。
魔女は相変わらず炭酸を楽しんでいる。組まれた足と編み上げブーツが見えて、大人っぽい印象を受ける。細められた瞳は眠そうにも、考え事をしているようにも感じられた。
私がまえに視線をもどし、数分。
やがて、魔女が答えを口にした。
「私なら、諦めないわね」
「……理由を訊いても?」
「一般的に良くない恋愛だからとか、風当たりがつよくなるとか。そんなのは私にとって雑音でしかないから。重視すべきは私の感情、であれば邪魔者はかき消してしまえばいい。事実、私はこうして魔法を使えるんだし? 気に入らないヤツは片端から黙らせていけばいいわ」
「横暴ですね。友人を失うかもしれませんよ?」
「別にいいじゃない。好きな相手が残っていれば」
「ご家族に縁を絶たれるかも」
「あら、すっきりしそうね」
「指名手配されて、行く末は牢屋の中なんてことも」
「国に喧嘩を売るのは初めてだけど、まあやるでしょうね」
ひとりの男のためにそのまでするのか、と平静を装いながら戦慄する。本当に言っているのであれば――あっけらかんに考えを発して、またサイダーに口をつける魔女は、やはりどこかハズれてしまっている。当時の私はそんな風に感じていた。
……ただ。
ただ、彼女の強気な結論はたしかに真理の一端を捉えていて。恋に悩む少年少女は、世界中を敵にまわすくらいの覚悟で望まなければ、掴めるモノも掴めないのだと、そう教えられた気がした。
真剣であればあるほど。
茨の道であればあるほど。
ひたむきであればあるほど。
「告っちゃえばいいんじゃない?」
「えっ」
「今すぐに、は生き急いでいるみたいだし、『五W一H』はあなたの自由にすればいい」
それから、魔女は「でも」とつぶやいて、席を立つ。
もの静かな教会内、暗く長めのカーディガンを揺らした。左手の指と指のあいだにぶら下げた炭酸のペットボトルが、ガラスみたく揺れていた。
私は「でも、なんですか?」と彼女を見上げた。
魔女は薄く笑って、私を一瞥した。
「縁者に恋するヒトなんて、探せばいるものよ。あなたは一般的な恋じゃないだとか異端だとかで足踏みしているけどね。変なところで頑固なシスターなんだから、相手のことをアクセサリーと見なしてはいないのでしょう?」
「も、もちろんですよっ。彼は、そういうのじゃ──」
「なら、難しく考えることはないでしょ。いえ、それもたまには必要だけど、考える時間が終わったのなら、やるべきことが定まったなら、全部忘れて、当たって砕ければいい」
はっとする。
胸の奥をトンと叩かれたような、些細な――、けれど確かな衝撃が貫いた。
それを見届けて、魔女は教会の出入り口へと歩いていった。私の背もたれの後ろを、すれ違うように、コツコツと靴音を響かせて。
「じゃ。また気が向いたらくるわ」
魔女は去り
私はろくに挨拶も返せず、足下に視線を落としていた。
……教会内に、また静寂が戻ってくる。
頭の中にはずっと、彼女の言葉が反響していた。見いだせそうな答えを探して、再生し続けていた。
彼女の言っていることは脈絡がないように聞こえて、でも筋は通っている気がした。魔女としての生き様の真髄を垣間みた。
そして、ときにその決断力は必要だ。
きっと今の自分に足りないのは『勇気』などというありきたりなモノだ。でも、勇気なんて、出そうと思って出せるものではない。少なくとも私は、「勇気をだせ」と言われたところで出せないだろう。人によってはそれで「よしやろう」と奮い立つことができるのだろうが、私はそうすっぱりと切り替えることなんてできはしない。
そういう意味では、魔女の捉え方はとても腑に落ちた。
難しく考える時間。
それが終われば、己に課した使命だけを残して、すべてを忘れる。
そしてただ突っ走ってぶちあたって、砕けてしまえばいい。また問題があったなら、そのときまた考えればいい。
ああ、実にわかりやすい。あれこれと理由や意味を求めてしまう自分にとって、彼女の思考は機械的に『勇気』を創り出す画期的な方法に思えた。
「なら、今は考えますよ」
もはやだれもいない教会に、ひとり。
イスに腰掛けたまま、ステンドグラスを見上げて私はつぶやいた。
「世間体も血縁のことも、なにもかも天秤に乗せて、最善の道を選びます。ねぇ──」
◇◇◇
「木陰さん」
「ん」
私が声をかけると、キャンバスに向かう背中が反応し、振り向いた。
トートバッグを肩にかけた私をみて、木陰さんは穏やかな笑みを浮かべると、「行こうか」と口にした。
天気予報は雪だるまを示しているが、日曜日の予定は決まっていた。あらかじめ約束していたということでもなく、自然と、ふたりで出かける習慣になっているのである。
教会をあとにした私たちは、その足で駅へと向かった。最寄りまで約一五分の距離を、同じ傘にはいって歩いた。私のトートバッグには三上家でこっそり作っておいたサンドイッチ、水筒にいれたミネストローネなど。対する木陰さんはというと、画材などが詰められたリュックを背負っていた。首からは安めのカメラを提げている。
ことのはじまりは、私が「たまには遠出でもしてみたらいかがですか」なんて口出ししたところからだ。教会でスケッチブックに鉛筆を走らせながら首を捻る彼をみて、何の気なしにこぼした提案。それが、あろうことか「そりゃあいい!」と採用されてしまい、流れで付き合うことになっている。
無人駅で切符を買い、上り列車に乗る。
ガタン、ガタンと、下りよりも気持ちゆったりめな振動とともに、車窓を景色が流れていく。
住宅街を抜けて、田園地帯を抜けて、また住宅街に差し掛かる。ところどころに積もり残った雪を、新雪が上書きしていく。予報では、明日からしばらくは快晴が続くそうだ。そうなればきっと、また彼は美術室に入り浸るのだろう。
乗客の少ない車内、向かい合わせの席で、対角線に座る木陰さんをうかがう。
中性的な顔立ちは、どこかあどけなさをも感じさせる。一方で穿った見方をすると、とても大人びている。私が抱いた第一印象は相も変わらず、遠くに感じてしまう。
腹違いとはいえ、兄にあたるから? それとは関係なく、性格が落ち着いているからだろうか? または、趣味が創作だとそう感じるとか? なんにせよ、彼はいつだって穏やかに、日々を生きていた。
今日も、彼は同じ。
これまでと同様、これまでも同様、物憂げにみえなくもない横顔で、流れる街並みを眺めていた。
「今日はあのキャンプ場でいいんですか?」
「うん。今日は人も少ないだろうしね」
電車に揺られること三十分。
ついたのは、山の麓に位置する有人駅だった。田舎らしさで溢れた、けれど過疎化が進んでいるわけでもない雰囲気が、ホームに展示された人形から漂っている。
音を吸収する降雪を背に、バックパックの外国人がカメラを向けていた。この駅ではそう珍しくもない光景を横目に、改札をとおる。
便数の少ないバスに乗り込み、また十分ほど揺られる。他の乗客は買い物帰りの老人で、目的地のアナウンスが流れるころには私と木陰さんだけになっていた。
これも、初めてではない。
降車し、さらに山を登り始めたバスを見送る。それから木陰さんが先導して歩き出し、そのうしろを私が続いた。
白さに覆われ、一面が眩しい。アスファルトの平らな地帯を抜け、だだっ広い駐車場から芝生を踏み入った。
辺りに、物寂しいキャンプ場が広がる。
「やっぱり、だれもいませんね」
「この季節だからね。それにこの空模様だ。いたとしても、そいつは野生動物目当ての写真家だろうね」
「それか、物好きな絵描きくらいじゃないですか」
「加えて律儀な聖職者ときた。なんでもありだなあ。三上もいたらもう少し盛り上がるだろうけど、真っ先に『帰る』って言い出しそうだ」
たしかに。この天候で山付近までの外出――スキーをしにいくわけでもなし、コンディションは最悪といっていい。案の定、荒増公園は雄大な自然が広がるのみで、夏にはウンザリするほど溢れる人混みがウソのようだ。この時期に楽しめることなんて、野鳥観察か真冬のキャンプに限られる。
……広いキャンプスペース。周囲を取り囲む雑木林の陰は、いっそう雪が残っている。反面、茶色い幹や白樺はとても映えていて、異国へ来たかのような錯覚に陥らせてくれる。
私と木陰さんは、ぽつんと建ったドーム型の建物に入った。
さすがに無人なんてことはなく、自動ドアが反応する。文明を感じさせるライトをくぐり、受付カウンターのおばさんに話しかけた。
ふくよかな体型のおばさんはにこりと笑って、「いらっしゃい」と出迎えた。
「お久しぶりです。上のカフェ、今日はやってますか?」
「ええ、やってますよ。そちらの女の子もお元気そうで」
どうも、と頭をさげる。
前回訪れたのは三カ月まえだ。そのときはもう少し客足に恵まれていた。けれど、今日は私たちだけのようだった。
展示パネルの並ぶスペースを過ぎ、二階へ。
そこに、ひっそりと併設するかのような佇まいのカフェがあった。
こじんまりとしたカウンターでお姉さんがコーヒー豆をゴリゴリと鳴らしている。こちらに気づいて、にこりと微笑む彼女は、髪が長く、みどりのエプロンを身につけていた。
コーヒーを二杯、注文した。
斜めの天井がいい味を醸し出し、ラウンジに並んだイスとテーブルは、暖かそうな暖炉の熱を浴びている。窓際の席にふたりで陣取り、私は持参したサンドイッチを眼前に広げた。
お昼を持参できるのは、この店の良いところだ。
「ありがとう」
「今日は見晴らしが良さそうですね」
窓から外の景色を眺めて、私は言う。
そうだね、と木陰さんは安堵したようにつぶやいた。
建物裏の雑木林は、雪がさらに深くなっている。しかしながら、そこかしこに顔を覗かせた岩や、くねるように伸びていく小道が鮮やかさをつくりだし、ちょうど良い塩梅に感じられた。ひょっこりとキツネでもやってくるんじゃないだろうかと、そんな想像が頭をよぎった。きっと絵になるし、彼はすばらしく描き写してくれるに違いない。
木陰さんがスケッチブックと鉛筆を手にする。
私は読みかけの文庫本をひらく。
コーヒーが運ばれてきて、互いのあいだに湯気が立ちのぼり。ふたりきりの、ゆったりとした幸福が幕を開けた。
彼はいつもどおり、紙面を擦って音を奏ではじめた。
私は微笑んで目を閉じ、また開けて、文字をなぞりはじめた。
嗚呼、この瞬間はなんとも味わい深い。
冬の気温も、雪の冷たさも、次の瞬間には雪解け水。
いつまでたっても最善の答えを導き出せない私に、思い出の魔女はあっけらかんに囁いていく。あの日の言葉はなおも胸を焦がし、迷いを和らげた。
その日。
私は五七回目の告白をして──彼は五七回目の保留を告げた。
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