二章 その感情に理由はない。
2-1
「あなたのせいだから」
目をあけた途端、両手が力強く持ち上げられた。仰向けの体勢、頭上で両手首が固定される。金属ともゴムとも取れない変な拘束具がまとわりついて、同時に両足も動かせないことに気づく。見えない重りが載ったような感覚は普通ではなく、金縛りとも異なる恐怖が全身に走った。
混乱しながらも焦点を合わせた先──覆いかぶさるカタチで、だれかがいた。
辛うじて残された光を遮って、陰に落とし込んだ俺を見つめている。獲物を箱に閉じ込めた捕食者の視線が俺を射抜いて、四肢が硬直する。
知っているけれど、知らない。
闇をつくる帽子の下、垂れ下がった髪が頬をかすめ、瞳が射止めて逃がさない。気を抜けば陶酔してしまいそうな彼女の香りが包み込み、正気を必死に
咄嗟にノド奥から、掠れた声が漏れた。
「まほ──むッ」
発した声を抑えるように、口元を手のひらで塞がれる。
目を白黒させながら、見開いた視界に対する恐怖が増す。色白な肌は黒さを際立たせた。艶がかった口元は妖艶に笑みを浮かべていた。
鼻先で酸素を求める。フーッ、フーッと興奮が血液を循環させる。
けれど、肺に取り込んだのは甘美な毒でしかない。生きるために取り込んだソレは、内側からじわりと蝕んでいく。
頭に
口を塞ぐ華奢な指は同じもの。曲がった毛先は同じもの。影をつくる帽子だって、紛れもなく彼女のもの。
だというのに、根本的なところでは決定的にズレている。
やめてくれ。彼女に懇願しようと、意志を絞り出そうとした、そのとき。
「──アナタガスキ」
ふわりと、耳元に顔を近づけ、魔女が囁く。
それは、魔性の一言だ。魔法でもなんでもない、ただの言葉。
けれど、矮小な自分にトドメを刺すには十分で。
丹念に、綿密に、三上春間を閉ざしていく。
「アナタヲ、ズット……ニガサナイ」
声音が真っ直ぐ、深く響いた。呆気なく心を挫かれた。
視界は暗転した。魔女帽子の下は夜をさらに濃くした風に、香る匂いは包むように判断力を奪っていく。今まで抵抗していた全身が脱力して、沼の底へと引きずり込まれる。
現実が遠くなった。
魔女の肢体に包まれながら。足から、指先から、真っ暗な夜へと落とされていくのを感じる。気づけば、自らその先へと沈む感覚。心地のよい体温が支配し、抵抗する意志さえも手放して。
腕も、腰も、沼に呑まれる。
最後に残された顔を浸からせるように、魔女が身じろぎした。口元を覆っていた彼女の手から、解放される。しかし、それが束の間の時間であることは明白だった。
「──、」
沼の奥は呼吸ができない。
ならば、互いに互いの空気を循環させようではないか。
そんな風に、魔女の顔が近づき──口が、塞がれる。
どぷん、と身体のすべてが闇に包まれた。
虚ろに彼女の輪郭を眺めながら、自分という存在は、ガラスの魔女に塗りつぶされた。
そう、まるで、綺麗な、絵柄を、丁寧に、隙間なく、容赦なく、鉛筆で、壊すように。
「──ッ、──! はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
布団を蹴って飛び起きる。
背中をぐっしょりと濡らして、俺は未だ暗さの残る朝を迎えた。
鳥肌のたつ全身を意識しながら、辺りを見渡す。
まだ深夜か、と思われたが、カーテンの向こうから差す光が朝を知らせていることに、すぐさま気づく。アラームをセットした時計の針も、鳴る三十分まえの起床を示していた。
「は、ぁ、」
未だに震えたため息が漏れる。
心を落ち着けながら、頭痛を抑えるつもりで
……こんな夢は、初めてだ。
魔法使いに関する記憶を思い出すのは珍しいことじゃない。かつてのやりとり、思い出に浸るのも、自分にとっては当たりまえ。
けれど、こんなことは──
「こんなことは、なかった」
彼女との思い出に、あんな瞬間はない。
魔法使いに馬乗りで拘束されることは言わずもがな、口づけだってない。彼女はそういう感情からかけ離れた世界に生きていて、透明なまま日々に足跡を残していた。薄明の存在であって、綺麗な存在であって。固執していたのは、気まぐれに関係を築かれていた少年の方だ。
それも、浅くて吹けば消えてしまいそうなほど一瞬の繋がりである。
今の夢とは、相反する。
「……。起きるか」
こうしていたって仕方がない。そう思い立って、寝起きの悪さに抗った。
純粋な睡眠はとれていない。総じて六時間をきっているし、不健康だな。
そんな懸念を眠気と一緒に覚ますため、俺はいちはやく顔を洗った。今日が日曜日でよかったと、しみじみ思った。
タオルから顔をあげた自身と、鏡ごしに目が合う。我ながらひどい顔色をしていた。両手で口の端を持ち上げて、無理やり笑顔をつくってみる。
「なにやってんだろ、俺」
呆れつつ居間にはいった。
どうせまだ誰も起きてはいないだろう。適当に食パンでも──
「あら、おはようございます」
「……、おはよう」
なにかいい匂いがすると思ったら、キッチンでシスターが朝食をつくっていた。
足下には黒い電気ストーブが置かれ、炊飯器からは湯気が。今は軽いサラダでもつくるつもりなのか、野菜に包丁をあてがっている。
当たり前に起きている彼女を眺め、口をひらく。
「それ、母さんの分担なはずだけど」
「住まわせてもらっているのだから、これくらいはかまいません」
「今まで昼しかつくってなかったくせに」
「夕食はお手伝いしていましたよ?」
「軽く、な。ほとんどは母親が腕を振るっていた」
「そんなものは、些細な違いなのです」
ああ言えばこう言う。シスターは頑なに譲ろうとしない。朝イチのやりとりがこれとは、また奇妙な話だな。いつもとちがうコトが、すでにふたつ。堪えていた奉仕精神を抑えきれなくなったのだろうか?
ああ、いや……そう奇妙でもないのか。
内心で嘆息し、俺はとなりに並んだ。何も言わず。そんな様子に、シスターは懐疑的な視線を向けてきた。
「舞いあがるのはいいけど、俺たちの朝は少食なんだ」
トマトにレタス、きゅうり。三上家にはいささか多すぎる。危ないとわかっていながらも、横から手を伸ばし、トマトひとつをまな板から除ける。ついでに、握られた包丁の柄をトントン、と指で叩いた。
ほんの一瞬、視線がぶつかる。
シスターの瞳が手元と俺を往復。それから、虚をつかれたように俺を見つめた。どういう風の吹き回しですか? と。
「妹のトマト嫌いは一級品なんだよ。さりげなく出して八つ当たりを被るのが目にみえてる」
とってつけた理由に聞こえたかもしれない。彼女は決して納得しないだろうという打算があったが、期待どおり一言ですべてを悟ったらしい。
こちらの気遣いに気づき、されど優しく言う。
「……三上さんって、妹さんに甘いですよね」
こぼした微笑みは、たぶん本心だろう。
シスコンと罵ることはないだろうけど、「なんだか微笑ましい家族ですね」なんて呑気なことを考えているのだろう。
「三上家、なんだか温かい家族です」
……。
実際考えていた。
「そう、かな」
「そうですよ」
内心で苦笑しながら、サラダづくりを替わる。シスターはフライパンにサラダ油をひくと、ほどよく熱がまわったところでベーコンを投入。その片手間に、たまごをカチャカチャと混ぜる。スクランブルエッグか、もしくはオムレツが食卓に並びそうである。
「……」
「……」
静謐なキッチンに、調理の音だけが流れた。並んで準備をしていると、なんだか新鮮で話題が浮かんでこない。しかし、シスターが居候しはじめて変化があったということなのだろう、無言でも空気が悪くなる心配はない。
淡々と朝の準備をすすめる。
普段の俺は料理なんてしない。端からみれば危なっかしくもあるかも。猫の手を意識して慎重に野菜を切っていった。
一方のシスターはというと、たまごを溶きおえて、味付けも完了。ベーコンを追加で焼きながら、
トマトを切り分け、皿に移す。その拍子に、ちらりと彼女の顔色をうかがう。
「なんでしょう?」
「いいや、なにも」
また、タン、とまな板を鳴らしながら、野菜を切っていく。
朝の静かな時間を、シスターは不用意に乱そうとしない。今はそれがありがたい。それに、俺の気がかりも野暮というものだし。
そう思考を切り替えたところで――シスターはさらりと裏切るように、切り出した。
「三上さん、今日、調子わるいですか?」
バレた。
おぼつかない手先がぴたりと止まったのを、シスターは目ざとく見やった。どうやら親切心に従ったのが裏目に出たらしい。
フライパンを源に、香ばしさを増していくベーコン。朝特有の静けさのなかで、それだけが耳に届く。
たった数秒間だ。けれど、彼女の思慮深さに白旗をあげるのは十分な時間だ。わずかでも見せた隙をシスターは見逃さない。そんなことは、ここ数年の付き合いで思い知っている。
我ながら情けない。普段は隠しとおせるのだけど、夢の所為だろうか……今まで気にならなかった事柄が妙に気になってしまう。
また手元を動かしながら、俺は答えた。
「少しね」
大したことない。そんなニュアンスを含めたのは、彼女の過剰な心配を招かないための、せめてもの抵抗だった。
実際、ちょっと頭痛が残るだけなのだ。大げさに捉えられないように、という配慮はできるらしく、一安心。
その甲斐あってか。それとも呆れられてしまったか。しばらく訝しげに眺めていたシスターは、すぐにフライパンへ向き直ってくれた。
「私たちのことですか? 昨日あんな会話がありましたし」
「……ちがう。でも無関係ってわけでもない」
はぁ、というため息が、となりからこぼれる。
俺もため息をつきたいところだ。
今日はもう何から何まで、全部が気がかりで仕方がない。ステンドグラスが割られたことも、一風変わった魔法使いの夢も、そして、互いに相手の好意を知った関係性――ふたりへの
「ふむ、またあの子のことですね」
「まだそうとは限らないだろ」
気を紛らわすつもりで、パプリカに包丁の切っ先をいれる。ざくり、という感触が一際大きく聞こえた。
「あなたが調子を崩す理由なんて、風邪か憂鬱か、もしくは魔女に関して思い詰めているかでしょうに」
シスターがベーコンを取り出し、卵をいれながら返す。
「深くは聞きませんけど。なるほど、妹さんが気を揉む理由がわかりましたよ」
……そこまで言われると、さすがに悪い気がしてくる。自分の意思は曲げられないし、曲げるつもりもない。だけど、血のつながった妹が気の毒に感じてしまう。
だから、ぽつりと夢の内容に触れてしまったのは、その罪悪感がなにかしたからで。さらに言えば、この胸中に渦巻いて晴れそうにない雨雲をどうにかしてほしかったからだった。
「魔法使い――魔女ってさ。人間……だよな」
カラン。
「ん?」
となりを見やると、手からフライ返しを落とすシスターがいた。ぽかんとした表情で、信じられないとばかりに俺を見つめていた。
「フライ返し、落としたぞ」
指摘を無視して、シスターは頭を抱えた。聖職者がこの仕草すると、時おり「おまえ本当に教会勤めか」と疑いたくなる。
そう言ってやりたくなる衝動を抑えて、俺は説明した。
「一周まわってわからなくなってきたんだ。魔法使いのこと」
「え、ええー……あなたはまたそうやって空回りして……どうして難しく考えちゃうんですか、ソレ、二年前にとおるべき道ですよ」
「え、わかるの? 教えてくれ」
「くっ、こういうの、木陰さんの役目だと思ってたのに。自分で考えてください」
ぶつぶつと愚痴をこぼしてから、シスターはフライ返しを拾う。教えてくれそうにない。
スポンジを握り、慣れた手つきでサッと洗うと、手早くたまごの調理にもどる彼女。投げやりな風にこちらを諭してくれる。
「あなたが彼女のことをわからなくなったら、誰がわかるというんですか? だいたい、今更そんな疑問をいだくなんてどうしたんですか。失恋ですか?」
「俺と魔法使いとの関係なんて、失恋みたいなものだろ。その魔法使いに襲われる夢をみたんだよ。はじめての感覚だった」
「へー。襲われる、ねぇ。具体的には?」
「具体的に? ええと……窒息死?」
「はあ。窒息。首をしめられたとか?」
いや、首はしめられてないな。というよりは、
「単純に塞がれた。手のひらで」
「ふーん。また怖い夢をみましたね」
「ああ。あと、口とか、」
「──、」
はた、と。すこしだけ驚いた表情を向けられる。
「……なに」
なんだその目。どういう感情?
俺は首を傾げた。
シスターは目を見張ったまま固まっていた。
……あの。
こちとら赤裸々な脳内を晒したみたいなノリで、そんな存外な反応されるとちょっと恥ずかしいんだけど。ただ驚かれても困るんだけど。なんなら笑い飛ばしてくれたほうがすっきりしたんだけど。
本格的にどうしたんだろうかと眉をひそめていると、シスターは気を取り直した。
「そ、そうですか。変な夢でしたね」
そう口にして、シスターはフライパンを傾けた。
黄色くうまく巻け――てないな。最後の最後でどうしてそんなボロボロになっちゃうの? いやわかるよ。俺もたまにそうなるよ。でも君が失敗してるとなんだか不穏だからやめてほしい。
シスターは「こほん」と咳払い。ソレを適当な大きさに切り分けはじめる。
……明らかに動揺していた。
その原因を探り、俺は悟る。「口」に反応した彼女のことだ、きっと俺の知らないところで進展があったのだろう。もしかしたら想像のずっとさきのことまで――なんてこともあり得るか。
木陰とシスター。
血縁とか両親とかはともかくとして、個人的には、はやくくっついてほしいのが本心なので、つい訊いてしまう。
「シスターは木陰とキス、もう済ませたの?」
「なんで今そっちに飛躍したんです!?」
勢いよく首をぐりんとさせて反応したので、俺は思わず仰け反った。
反応速度がちょっと怖い。
「お、俺が知らないだけで、実はいろいろと進んでるんじゃないかと思ったんだよ」
「は、はいぃ!? だっ、だいたいっ、私と木陰さんは血の繋がった関係なんですから、そんな訳ないでしょう」
「でも告白はした」
「むぐ、」
シスターが口ごもる。
血縁があるから。
いわゆる禁断の恋だから。
そう豪語する彼女はしかし、兄妹の一線を越えようと踏み込んだ。それは変えようのない事実だ。
他人にこうして痛いところを突かれると、途端に覇気がなくなるシスターなのであった。
実は、こうやって常日頃おしとやかに振る舞う彼女に対して優位に立つのは、ちょっと楽しかったりする。仕返しのつもりでふふんと笑ってみると、苦虫を噛みつぶしたような反応をしてくれる。その様はまるで聖職者の顔ではない。
個人的には、ひどく人間味があるこちらの方が好ましい。
「いい性格してますよ。どうしてそんなに弄る――もとい、気にかけるんですか?」
「気にかけてなんていない。俺は落ち着くところに収まってほしいと願うだけで、手は差し伸べられないし」
「ウソ。たまに背中を押すくらいのことはしてるくせに」
「押した方向が明後日の方向なら意味ないだろ」
そう、もし木陰を間違えて崖から突き落としでもしてしまったら、俺は頭をかかえて身投げするだろう。魔法使い、今そっちに行くよ、なんて呟きながら。
……ひどいブラックジョークだ。これは言わなんでおこう。
そんなこんなで、朝食の準備は整っていく。
軽口を投げ合う平和は、そこはかとなく充実感が得られて、悪夢の余韻が薄れていく。
さて運ぶか、なんて考え始めたところだったのだが、俺は傍らを見やって止まった。
シスターが窓の向こうの光に目を細めていて、そっと囁いた。
「昨日も言いましたが……互いに、
「……そうだな」
俺は、気の利かない返答しかできなかった。
――静謐な朝が、滲んでいく。
フライパンの熱は冷めていく。
すでに窓の向こう側は朝の気配に染まっていて、キッチンに入り込んだ静寂は、早朝の教室とは異なる清々しさを肌に伝える。澄んだ空気に生活の匂い。ほとぼり冷ます誰かへの感情。
急かすことも、急かされることもなく、どこかゆったりとした心持ちで、俺とシスターは一日の始まりを感じていた。
雪が降り出したのは、朝食を終えて、食器洗いに精を出しているときのことだった。
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