一章 ステンドグラスに鼓動はない。

1-1

 カタリとペンを置く。

 デスクから立ち上がった俺は、窓辺に寄った。


 白だ。真っさらな、白だ。

 魔法使いとの日々が始まった季節が今年も過ぎて、冬が到来していた。

 二階の自室から眺める景色には、変わり映えのない住宅街が広がっている。曇りの気配を混ぜ込んだ空には、僅かに青色が滲む。反して地上はというと、昨夜に降り積もった雪が占めていた。数日前に大降りしたものが、今となっては徐々に溶けていくのみである。

 肌寒さに一度身震いをして、一階へと降りる。平穏な土曜日の居間で、しつらえられたこたつに潜り込む妹がいた。俺が訪れても反応をみせることはなく、雑誌をぺらりと一枚めくる。

 その様を眺めて、改めて嘆息する。

 春の宝石騒動を経て、日常に舞い戻る平和の恩寵。まるであの儀式そのものが季節の変遷を呼び起こす引き金だったのではないかと思えるほど、ぱったりと現実は戻ってきた。あらゆる事象は失われる以前の状態へと戻り、消されたはずの生徒と先生も戻ってきた。おまけにその間の記憶はないという徹底ぶりだ。

 ――所有者を理想の在り方に近づける魔法。

 二年前に亡くなった魔女が残した、麗しくも残酷な奇跡の結晶は、あえなく終わりを迎えた。俺は魔法使いと再会し、再びの別離を経験した。過ぎてしまえば、あの数日間は泡沫の夢がごとく薄れていく。

 テレビ台に添えられた時計を見やると、午前十一時をまわったところだった。

 冬休みを直前に控えた土日となれば、皆が皆羽を伸ばす。期末テストもつい先日乗り越えたところで、あとは返却を待つのみ。気を抜くなという方が無理だろう。妹のだらけ具合も納得の有り様だった。

 母親はすでに出かけた後だった。どこかにショッピングにでも向かったのか、それとも何かの会合でも予定にあったのか。些細な疑問を追求する気にもならず、俺は冷蔵庫を物色した。


「あ、ダメですよ三上さん」


 この家には誰ひとりとして苦言を呈するヤツはいないはずなのに、叱るような声がかかる。

 振り返ると、エプロンを身につけた金髪の少女。今は身につけていたヴェールがなく、絹のように整った髪を露わにしている。

 はぁ、と息をつき、俺は冷ややかに睨む。


「いつからシスターはウチの母さんになったんだ? 本物の母さんをどうした」

「わ、私があなたのご両親を排除したかのような物言いですけど、そんなことしておりませんからね? あと、お邪魔させてもらっておいて何ですが、『シスター』と呼ぶのはやめてください」


 どさり、重そうなビニール袋を置いてシスターが言う。


「できれば私のことは本名で、とお願いしたじゃないですか」


 俺は軽く流して、冷蔵庫から蒼矢サイダーのボトルを取り出した。ファミリー向けの大きいサイズで、六割ほどまで減っていた。


「慣れないんだよ。その『神林かんばやし実里みのり』っていう名前。妹もそうだそうだと揶揄してる」

「え」

「それお兄ぃの虚言だからー」

「えぇ……」


 一回目の「え」と、二回目の「え」の温度差が大違いだった。しれっとウソをついた俺に対して、シスターの蔑むような表情が突き刺さる。

 ……こういうの、聖職者ならではだなぁ。なんてことをしみじみ思いながら、俺は棚から空のペットボトルを取り出す。

 「またあなたって人は」と愚痴りながら野菜を取り出すシスターの背後で、俺は化学実験みたいな作業を始めた。

 空のペットボトルは、五○○ミリリットルの蒼矢サイダーのものだ。ラベルを剥がさず、洗って干したもの。自動販売機で買ったものか、近場のコンビニで買ったものかも思い出せない。特有のダイヤカット模様が入れてあるのは、この小さい方のボトルのみだ。飲み口へ、ファミリー用のボトルから炭酸を注いでいく。

 ファミリー用だろうとそうでなかろうと中身は変わらない。こいつは何をやっているんだという凍てついた視線を向けられたのがつい二週間まえのこと。妹とシスター――もとい神林揃ってのことだ。

 ふたりともわかっていない。俺はただ、水筒に炭酸を入れて飲むよりも、コップに注いで飲むよりも、この手のひらに収まる小さいボトルから飲む方法が一番好きだからこうしているだけ。こうすれば余計なゴミは減らせるし、コストも軽くなる。シャンプーだってボディソープだって、入れ替え用からボトルに注ぐ形式をとっているというのに、なぜサイダーはダメなのかせない。

 サイダーは飲み物だからなのか?

 まぁ、そのあたりはどうだっていい。重要なのはひとつだけ。

 この飲み方が最も魔法使いを思い出せる、ということだけだ。


「うわ」


 昼食の準備を始めるシスターが、皿を取ろうとして一言漏らす。

 今日も俺の奇行を目撃し、引いていた。

 やっていることは決して悪いことじゃないはず……なのに、彼女たちの反応は心外だった。


「『うわ』って……おい聖職者」

「今はミノリちゃんです」

「慣れてきたとはいえ、傷つくんだぞ、その言い方。妹もそのナイフで突くみたいな物言いは感心しないって言ってた」

「言ってませーん」


 妹が野次をいれる。

 雑誌にも金がかかっているんだから、もっとちゃんと読んでほしい。こっちはこっちで喋ってるから。

 抗議の視線は軽くいなされた。


「あなたのソレ、喜ぶのだけですよ多分。あと妹さん曰く、気持ち悪いから外でやってほしいとのことでした」

「俺の妹はそんなこと言わない」

「ごめんお兄ぃ」


 ……家族の絆は意外と脆いらしい。

 魔法使いに生きていてほしかった。そしてこの家に居候していて、俺を支えて欲しかった。切実に。

 しかしよくよく考えると、あの魔法使いもこんな無意味に思える行動を目にすれば、苦虫を噛み潰したみたいな表情になるかもしれない。彼女はそれなりに喜怒哀楽が表せられる。でかい帽子の下の顔が目に浮かぶくらいだ。

 いよいよ味方がいないかもしれないと悟り、俺は開き直った。


「いいんだよ、もはやあんたらに何と言われようと気にもしない」

「はあ、そうですか。わかりましたわかりました」


 野菜を切り、トントンと規則正しい音が響く。興味なさげに昼食の準備を始めてしまう。この話題はここで打ち止めらしい。

 俺がさっそくペットボトルに口をつけて振り向くと、まな板の前で背中を向けて、腕を動かす彼女がいた。


「……」


 キッチンの最奥からは、居間が一望できる。

 まな板に向かう背中も、季節を表すこたつの存在も、そこに寝そべる妹も、冬の一幕。

 喉を通り抜ける甘さと弾ける刺激が、世界の見え方を思い出させてくれる。

 傾けたボトルの装飾が、視界に屈折を生む。かつての情景が脳内をよぎり、今という現実が遠くなる。

 妹も、シスターも。

 魔法使いのことは、思い出にしたいのだ。思い出にさせておきたいのだ。


「ちょっと、三上さん?」


 現実に、引き戻される。

 何秒、こうしていただろうか。

 レンズのピントが合ったように、覗き込んだ怪訝な顔に気づく。


「後ろの皿、ください」

「え、あ、ああ。うん」


 シスターは「最近は心ここに在らずですね」と呟いて、またまな板へ向かう。

 持ったボトルと目先の日常を見比べる。そこにない黒い帽子のシルエット。幻が、残響が如く呼んでいた。たしかにここ最近は考え事に耽ることが増えた。いや、以前から魔法使いとの記憶に思い馳せることはあったのだが、その頻度が増していた。

 これは、何か理由でもあるのだろうか。

 過去から現在へ引かれた直線は、変えようがない。対比は似通うことなく、決められた路線を跡として残す。

 いくら鮮明といえども、夢は夢。ふとした拍子に容易く風化してしまうのだと、俺は再認識した。

 吐き捨てるように、独り言をつぶやく。シスターの「どうしたのでしょう」と言いたげな背中、ひいては、平穏をもたらす日常風景へ向かって。


「忘れるのは、怖いなって思ったんだ」


 思いの外、声はすんなりと通ってしまったらしい。微かに硬い空気を意識して、それを炭酸で流し込んだ。

 一定間隔でぺらりとめくられる音が、このページだけは長く感じる。

 まな板を叩く包丁のリズムが、一瞬だけ途切れて、再開する。


「……そうですか」


 背中ごしに、呆れではない、曖昧な声音が聞こえた。



 数分後。

 俺たちはかた焼きそばを味わいながら、居間に流れるニュースを眺めていた。リポーターが話題に挙げているのは、鐘之宮駅前でリニューアルオープンしたお店について。本屋や画材屋、百円均一ショップ、ファッションその他を取り扱うテナントが寄り集まったビル――俺も何度かおとずれたことがある――のまえで、笑顔の女性がマイクを握っていた。

 こたつを囲んで、俺たちは大皿から取り皿へと焼きぞばをよそっては口へ運ぶ。耳に流れ込むのは平和な内容ばかりで、これといって言及すべき点もない。このように黙々と食べるのも自然な空気となってしまっている。

 シスターが我が家に居候し始めて、半年ほど。彼女は『お邪魔させていただくのですから、家事の手伝いくらいはお任せください』と母親に申し出て、土日の昼に三上家以外の味が混ざった。それがこんなに長引けば、当初漂っていた違和感も感じなくなってくるものだ。

 ふと素朴な疑問を思い出し、かた焼きそばを味わう食卓に切り出した。


「母さんは?」

「知らない」

「お母さまはお友達と中学校へ行きましたよ。駅伝大会なんですって」

「……ああ、そういうことか。知り合いが行くからって理由だけで、またお人好しなことを」

「すばらしいじゃないですか。妹さんが中学を卒業したのもそう昔ではないのです、名残惜しさもあるのかもしれません」

「へぇ」


 駅伝大会ということは、大人たちがデカい鍋から豚汁を配っている頃合いだろう。

 俺も、ひとつ下の妹も、そしてあの魔法使いも、一度経験している。寒い中走って、たどり着いたゴール地点で配られる無料の労いだ。田舎特有の大量豚汁はそれなりの美味さである。

 季節は冬。遅めの秋といっても良い。ニュースのちょっとしたコーナーでも冬らしい特集が組まれているし、街中もクリスマスの華やかなスポットが増えてきている印象だ。緑を添えていた木々も葉を落とし、景色は純白の気配を増すばかり。


「今日も行くのか?」


 それはさておき、と。斜め向かいで食べるシスターへ訊ねた。


「ええ、一息ついたら向かいます」


 どこへ、などと口にするのも野暮だ。シスターは頷く。

 俺もついて行かなければならないことは知っている。シスターもそれを前提に答えている。その流れは彼女だけではなく、俺自身が望んでいることでもあった。正直あまり気は乗らないが、行かなくてはならないのだと、かけられた呪いが急かす。半年ほどまえに消えたばかりの面影は、尚も……否、さらに濃い存在感を植え付けて、重い腰をあげさせる。

 シスターはそんな俺の内心を見透かしたように、


「木陰さんも来ているはずですよ」


 なんて、エサをチラつかせた。

 シスターの付き添いとして赴くことが、土曜日の動きとして形式化していた。

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