ガラスの魔女は復活できない。Ⅱ

九日晴一

オモイデ

 斜陽しゃようが照らす。

 斜めに差し込む眩しい光は、木目調の廊下に映える。年月の重みを感じさせるロッカーと、並ぶ窓。規則正しい連なりを流して、上履きの立てる音はいつもより鮮明に耳につく。リノリウムの階段から一転、床は年月を感じさせた。


 ──、───、──。


 遠くから伸びる鼻唄は意識から靴音をかき消し、現実から一歩外れたような感覚に陥らせた。

 窓に映り込む景色へと視線を向ければ、立ち並ぶ紅葉が葉を落としている。通り風に乗せられる音色とコントラストを奏で、どこか深い底へと誘われているような体感に襲われる。

 どこかで聞いたことのある音楽かもしれないし、実は全くの勘違いで、初めて耳にする音楽かもしれない。記憶にないのに懐かしい情景を想起させる、不思議な曲調だった。

 締め切られた教室の引き戸。

 どれもこれもが来訪者を遮っているなか、目先のひとつが開いていた。こっちへおいでと招いていた。

 鼻唄はなうたは、なおもこちらを誘っている。

 立ち止まり、顔をわずかに上げる。自分のクラスの番号が掲げられており、避けては通れない状況なのだと悟った。

 微かな迷いが生じたが、最後には興味が勝った。無意識に殺していた呼吸を再開し、先へ踏み出し、無機質な枠に手を添えて、教室を覗き込んでみた。

 鼻唄が、ぴたりとこちらに意識を向けた。

 途切れた旋律の主を探す視線が、たった一人の少女を捉え、離せなくなった。


「……、」


 空色に焼けた街から窓ガラスを透過し、光が流れ込んでいた。不規則なソレは見える範囲にフィルムを貼って、昼間とはまるきり別世界を創りだす。立っている場所と、時間を忘れさせる。

 魔女帽子を被った彼女は、机に腰掛けていた。脚をぶら下げながら、優雅に放課後を楽しんでいた。

 止んだ歌が恋しくなる。

 震わせる空気が留まり、沈黙が耳に痛い。

 あとで知ったことだが、彼女が口ずさんでいたのは「チムチムチェリー」という曲らしい。ドイツの魔法使いをめぐる物語の曲で、とても彼女らしい選曲だった。それだけに、相対するこのときも、俺は聞いていたかった。

 代わりに、俺は彼女という存在を記憶に刻み込もうとした。

 黒いカーディガン、白い制服の襟。覗く肌は色白で、夕陽の鮮やかさに負けない強さをもっていた。スカートから伸び、組んだつま先。その横に投げ捨てたように通学カバンが倒れている。

 カバン口から散乱した書類の大半は小説、傍らには──炭酸のペットボトル。

 数秒、いや、数分。あっけに取られた俺はそこに立ち尽くし、呆然と彼女を眺めていた。

 教室の入り口を潜ったさきはきっと異世界、唯一の登場人物は気ままで不思議で個性的な、ひとりの魔女だ。誰だって、少なからず目を疑うだろう。言葉を失うだろう。彼女の並外れた雰囲気と子供の世界における罪を目撃してしまえば、誰だって混乱する。

 当の彼女はというと、振り向いた姿勢で固まっていた。魔女帽子のツバの下、目を丸くして、まじまじ俺を見つめていた。


 二対の視線が交錯する。

 どちらとも、言葉を失ったまま。


 オレンジに染まる視界で、彼女の瞳だけが、時間に抗うような夜を宿していた。

 無造作に流した髪は肩まで伸びていて、引き結んだ口元が示すは強情な性格。他人と自身との間にクレヨンで線を描いてそうな、そんな拒絶感を纏っている印象だった。

 ……三角を乗せた影法師が、足下まで伸びていた。

 ただただ無言の空気が漂っている瞬間は、まるで現実味がなくて、ひとつの絵画を切り取ったみたいだ。

 そのとき、さっきまで流れていた歌よりちょっとだけ低い声が、空気を震わせる。


「こんにちは」


 それがあまりにも綺麗に透き通っていて、鈴の音を揺らしたみたいな声で、彼女が発したものだと理解するのに数秒を要する。


「こ……んにちは」


 何とかそう返すと同時に、彼女の警戒心が薄れていくのがわかった。

 俺は心を落ち着けて、改めて彼女を観察する。

 制服を着ているところも、無遠慮に机へ腰掛けているところも、そこらの生徒と変わらない。だが、大きく尖った帽子を筆頭に、あらゆる全てが一歩外れている。理由を一言で表すとなると苦労するけど、佇まいは紛れもなく未知のソレだった。

 今まで、こんな人に出会ったことはない。中学生になって半年ほど経つけど、少なくともこんな生徒はウチのクラスに在籍していないことも確かだ。


「あなた、よく辿り着けたわね」


 彼女は何かを呟き、すとん、と地に足を着ける。

 言葉の意味は、よくわからない。自分の教室なのだからあたりまえだ。

 魔女は陽に翳すペットボトルと隣り合うカタチで、窓辺へと身体を寄せた。そして夕陽を遮るように立って、首を傾げる。


「このクラスの人? どうしてここへ?」


 繊細で不躾な言葉が自分に向けられたものだと悟り、俺は言葉を探す。


「ただ単に、忘れ物をしただけだよ」


 嘘は言っていない。事実、俺は一度駅まで行って引き返してきたばかりだった。

 しかし、反応は芳しくない。


「ウソ、ついてないでしょうね?」


 訝しげな視線が、ツバの下から投げられた。改めて足から頭のてっぺんまで観察されていることに居心地の悪さを覚えながら、俺は反論した。


「どうして君にウソをつかなきゃならない」

「人はウソをつく生き物だから」

「暗に、胡散臭い人間にみえるって言ってる?」


 微笑んでみる。人付き合いは苦手だったけれど、精一杯社交的に振る舞ってみせた。

 けれど、魔法使いはため息をこぼす。


「……八割がた。なるほど、あなた、言葉より顔でウソをつくタイプなのね」


 不自然だった。より訝しげに見たのも俺の方だった。

 その容姿のくせして疑い深い彼女の方こそ、何かやましい隠し事でもあるのではと思った。その上、平気で校則を破り、学校でひとり炭酸パーティーときた。こいつに常識なんて追いつかないのだろう。

 ……もしかしたら、俺のことを「自分を捕まえにきた刺客」とでも勘違いしていたのかもしれない。と考えを巡らせたが、それこそ考えすぎだ。俺は親切心で大人の手先みたく振る舞うのが苦手だし、こういう場面に出くわしたときは、見てみぬふりが最も安全で、当たり障りのない賢い生き方だと感じてる。

 このときも、コスプレをした女生徒が放課後に炭酸を楽しんでいることなんて、注意する気も起きなかった。触らぬ神に祟りなし。

 俺は肩をすくめると、自分の机に近づき中を漁った。彼女の居る窓際とは、真反対の廊下側だ。屈んで目的の物を探す自分を、彼女は視界の端で興味深そうに眺めていた。

 妙に落ち着かなくて、会話は絶やさない。


「君、このクラスじゃないだろ。こんなところで黄昏たそがれて、炭酸はどんな味がするんだ?」

「……場所で変わるの?」

「変わるさ」


 魔女帽子の彼女は、目の前に置かれたサイダーを一瞥する。

 透明な液体は半分まで減っていた。酸も抜けているのではなかろうか。


「普通は自分のクラスで飲むだろ、ってことだ。それが自然な思考なんだよ。友達云々とかじゃなく、他クラスは空気が違って近づき難い。ひとりでいるなら尚更だ。こんな場違いな教室で飲む炭酸の味なんて、もの悲しい記憶にしかならないんじゃないかと」

「なるほど。でもお生憎さま、私は刺激よりも色を楽しむタイプだから。それに他クラスだろうと自クラスだろうと、私にとっては同じよ」


 机に目的のノートがないことを悟り、俺は腰をあげた。そして彼女の方に笑いかける。


「だとしたら――美味うまい飲み方だ」


 その一言は、妙にするりと滑り出た。自分でも不思議なほどに違和感なく、今なら大丈夫か、と考える暇もなく、つい発してしまった。

 ただ、言葉にして初めて、ちょっと踏み込みすぎたと反省する。わかったような語り口をしていた自分が恥ずかしくなる。

 ところが、予想を裏切る反応を返すのが、この魔女の特徴でもあったらしい。

 どこか浮かんだような佇まいの彼女は、大きい帽子の下で目を見張ると、すぐに細め、笑みを浮かべた。

 そして妙なことを口走る。


「なんて呼べばいい?」


 間を挟んで、名前を訊ねられているのだと理解した。

 あたりまえの疑問、興味。人間関係の構築の第一歩を、魔女はなぞるように踏み込んだ。容姿を度外視すれば、なんらおかしなことはない。

 だというのに、俺は言葉をいつも以上に丁寧に噛み砕いてしまう。

 その問いかけが、ひどく唐突に思えたから。普通を装った罠なのでは? といらぬ警戒心がはたらき、素性を明かすことを躊躇ってしまう。


「……気持ちはわかるわ。怪しいもの」


 黙り込んだ俺に対し、彼女は依然、窓辺に背を預けている。夜を控えた街並みのなか、悠然と立つシルエット。佇まいがこちらをひきこもうとしてやまない。

 ただ、哀愁を含んだ態度をみせたのは意外で、ふと冷静に考える。

 よくよく考えてみれば、彼女はコスプレをする非行少女でしかない。あることないこと想像を働かせて遠ざけるのも失礼なのではないかという気がしてきた。


「友達になってくれたら、あなたの使いたい魔法をつかってあげる」


 新たな提案。

 ひどく現実味のない響きを平然と言ってのける魔女。聞こえようによっては子どもの言葉遊びにも感じられる。だって魔法はオカルトじゃないか。

 ……。

 だけど。

 だけど、さっきから、彼女にふざけている気配はない。それだけが思考をかき乱して、判断を鈍らせる。ほんとになんなんだ、こいつは。

 顔をあわせたときから、今この瞬間まで。多少取り繕ってはいるけれど、瞳の奥には真剣な色味があふれている。それどころか、どこまでも澄んでいて目を離せなくなりそう。不思議で不明瞭で不審だ。だが佇まいだけは曇りなく。今までこんなヒトとは接したことはなかった。クラスメイトとも、家族とも、誰とも異なる。一線を画す。どこか別世界を生きている。

 俺は本性を引きだそうと、訊き返した。


「魔法って、どんな魔法でもつかえる?」

「なんでも、とはいかないけど。使い方によっては大抵のことができる」


 誘いにノったのが嬉しいのか、ちょっとだけ前のめりに魔女が応えた。

 続けて問う。


「なら、ひとつみせてほしい」

「……」


 彼女が目をしばたく。

 だが、あっさり頷いた。


「わかった」


 短く了承。

 窓辺から背を離した魔女は、さっきまで飲んでいたであろうペットボトルを手に取った。

 ソレでなにをするのだろう?

 なんて観察していると。


「ふ、――っ、……んっ、んくっ」


 前ぶりもなく、あたりまえのようにフタをあけ、口をつけた。

 大きめの尖り帽子を傾かせて、ラッパ飲みがごとく炭酸をあおり飲んでいく。夕陽に照らされ、白いノドを鳴らして、豪快に。ごきゅ、ごきゅ、と。


「っ、ぷは」


 残っていた炭酸が、あっという間に尽きる。そして、空になったペットボトルを、タン、と傍らに置いた。

 魔女が口元を手の甲で拭う。言葉を失う俺に対し、あまりにも格好にそぐわない雰囲気をまとって、不敵な笑みを向けられる。その表情に、ぞくりとした感覚が背中を駆け抜けた。

 ――「みてなさいよ」。

 つり上げた口の端でそう語り、形容しがたい凄みを放った。俺は大きい帽子のツバの向こう、細められた瞳に囚われた。


 呼吸を忘れたのは、その直後だった。


 ――カチリ。


 遠く、くぐもったカラスの鳴き声がする以外、静寂を保っていた教室。そこに、複数の異音が混じった。

 正体をさぐり、カギが開いたのだと思い至り、同時。

 変化は、爆発のように起こった。


 魔女の背後。

 俺が眺める視線のさき。

 床とベランダの境界。

 外気と喧噪を断っていた窓ガラスたちが、いっせいにガラリとズレた。


「――ッ!?」


 重なった摩擦音を響かせ、世界にぶわっという音が流れ込む。

 せきを切ったようにびゅお、と風が吹き荒れ、並んだ机が脚を引きずる。埃を吸ってそうなカーテンが天井近くまではためいては揺れる。ばさばさと音をたてる。壁に貼られたプリントの『おしらせ』が、破けそうになりながら画鋲にしがみつく。

 突如として襲った台風のごとく異変に、俺は思わず目を細めた。腕で風除けをつくりながら視線のさきを睨んだ。


「な……ん……っ」


 薄く笑む彼女の顔が、色と音の洪水のなかに立っていて、恐怖を覚えた。

 混乱。

 焦燥。

 危機感。

 あらゆる思考が邪魔をして、冷静さを失う。本気でマズイ、と冷や汗を浮かべた。

 と、そこに。


 ――カコーン!

 一際目立つ音とともに、固い衝撃が顔面に直撃。


「だっ――!? つぅ……!」


 視界に飛んできたのは、ペットボトル。衝撃と風で舞い上がり、光を受けて、最後にはからんからんと床を転がっていった。俺は悶えながら、けたたましい音を耳にする。

 さほど痛くはな――いや、やっぱ痛い。ちょうど角のところがあたって痛い。飲み干したのはこのためか! なんて思い至ると同時、ちょっと腹立たしくなった。

 そこで、彼女の魔法は終わったらしい。

 今度はぴしゃりと窓が閉まり、瞬時に静寂が戻った。


「……? あ、」


 じんじんする額を我慢して目をひらき、俺は目を白黒させた。


「満足した?」


 さきほどと変わらない佇まいで、魔女が微笑んでいた。

 まるで夢をみせられていたみたいだ。さっきまでの騒音がウソみたいだ。感想はいくつも浮かんで、俺を混乱させた。彼女の言う『魔法』は、それこそ現実から外れた法則にあるということを、身を以て思い知った瞬間だった。

 夢じゃない。ウソでもない。

 周囲を見渡して、俺は息を呑んだ。

 眉間に残る痛みも、ズレた生徒の机も、床に転がったサイダーのペットボトルも。なにもかもが、現実を報せている。

 ――ホンモノ。

 髪を乱れさせることもなく、魔女帽子の位置をなおすだけの彼女は、どうしようもなく常識から外れた世界の住人だった。


「い、今の、」

「ついでにこれ」


 魔女は靴を慣らして眼前までやってくると、何かを差し出した。

 すこし使い古されたノート。見覚えがある――どころか、俺の所有物そのものだ。表紙の汚れ具合も角の曲がり方も、俺がこの教室にもどってきた原因だ。


「忘れ物……」

「探しておいたわ。感謝してよね」


 唖然。

 魔女は半ば押しつける風に俺へと預けると、ちょっと屈んで顔を覗きこんできた。

 長いまつげ、夜色の瞳。ふわりと柔軟剤の香りを漂わせて、したり顔をする。


「これであなたはお友達」


 「よろしくね」と指をたてる魔女は、心底楽しそうに笑みを浮かべていた。灰色一色の自分なんかを選ぶ理由がまったく解せないが、口にするのも憚れる。

 立ち尽くす俺をおいて、魔女は踵をかえした。

 視線が背中を追いかけ、振り向く――が、そこにすでに彼女はいなくて、油断も隙もない。神出鬼没の幽霊か、などと内心で突っ込みをいれて、慌てて廊下に飛び出した。

 ど真ん中を優雅に歩く背中があった。


「おい!」


 見失うと面倒なこともあり、反射的に呼び止める。

 魔女は足をとめ、振り返る。夕暮れ色の廊下に、黒い帽子はとても目立つ。「まだなにか?」と首を傾げるあたり、本気で忘れてそうだ。


「名前」

「あ、忘れてた」

「……俺は春間。三上、春間」


 自分の声が自分の名前をなぞる。

 普段の行動基準に反しているのに、違和感は介在しなかった。恐怖感もなぜか霧散していた。それどころか、正体不明の焦燥感にかられて名前を告げていた。

 確かな証拠を掴んでおかなければ、もう会えない気がしたから。


「ふぅん。ハルマ……うん、ハルマ。中々いい名前ね」

「君は? なんて呼べばいい?」

「……うーん」


 あごに指を添えて、彼女は悩む素振りをみせた。ちょっとだけ上を見あげる横顔が、しかしすぐに落ち着きをみせる。

 魔女帽子の向こう側。

 時間帯の光と彼女の瞳の色がつくりだす対比が、薄明を連想させる。

 彼女は涼しげな雰囲気で、流し目で視線を投げながら、通り風みたく声を残した。



「私は魔女。ガラスの魔女。トクベツに、『魔法使い』と呼ばせてあげる」



 その邂逅は――致命的に何かを変えた。


 強引で可笑しくて、格好つけたがりの少女。体躯に似合わない特徴的な尖り帽子。濃すぎるはずの存在感は、しかしどうしてか、瞬きの内に空気へ溶けてしまいそうでもあった。

 その儚さが決して勘違いではなかったのだと、そう思い知るのは約半年後のことだ。

 結末は、あの頃から決まっていた。

 そう。教室に踏み込んだときから。

 彼女と出会った、その瞬間から。


 今もなお、彼女の結末は変えようがない。運命を覆すのは容易ではない。

 思い出は思い出のまま、未だに魔女の呪いとして続いている。

 俺たちの糸は、薄くて綺麗で残酷な、ガラスみたいな『死』に分かたれている。


 嗚呼ああ、どうしようもなく。



 ──ガラスの魔女は、復活できない。

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