第8話「何を言うてはるんですか」

 そして4月1日。今日は入学式だ。入学式その他式典に関する体育館の設営は、毎回、男女バスケ部、男女バレー部、そして、女子バトミントン部が朝早くから行っている。今朝も7時半に体育館集合だった。動きやすいよう、各部員はすでに制服から部服に着替えている。

 体育館に集められた各部の部員たちがざわざわと談笑をしている中で、体育職員室から打ち合わせを終えた各部の部長が出てきた。設営作業を取り仕切るのは教師ではなく、基本的に部長たちだ。「注目!」と涼哉の声が響き、談笑は止んだ。今日の全体の監督役は涼哉らしい。作業前の挨拶が始まる。

「本日は朝早くからお集まりいただき、ありがとうございます! 今日は嬉しいことに私たちの新しい後輩が希望を胸にして入学してきます! 彼ら彼女らを快く迎えるために、早速ですが全員で協力しながら入学式の準備を始めていきましょう! 例によって各部部長に作業内容を伝えてあります! それぞれの指示に従って作業を開始してください! 最後にですが、怪我だけは無いように! 皆さん大会も近いでしょうから決して無理はしないようにしてください! 困っている人がいればすぐに手伝う、『助け合いの精神』でお願いします! それでは頑張っていきましょう! 以上! よろしくお願いします!」

 全員から「よろしくお願いします!」と元気のいい返事があってから、それぞれの部員たちは部長のもとへ集まっていった。

 男女バスケ部の役割は、体育館横の男子更衣室に併設されている倉庫に積まれている長椅子を体育館まで運び、並べることだった。特に倉庫に高く積まれた100脚以上の長椅子を下ろす作業がとんでもなく重労働であるが、その作業は琉瀬たち男子の新3年生がやってくれている。男バスの新2年生は、女バスと一緒にまず体育館に養生シートを敷き、倉庫から出された長椅子を並べる作業を割り振られた。

 涼哉は部員に指示を出すと、補佐役の深を連れてすぐに他の部活の方へ行ってしまった。2人は各部の部長や部員、そして教員のもとを行ったり来たりしてとてつもなく忙しそうだった。

  怜真はというと、ひとりで体育館周りの掃除を言い渡されていた。どのような作業においても、人数が多ければよいというものでもない。とりわけ長椅子の運び出し口が1つしかない今回のような作業においては、長椅子の整列の人間を増やしたところで単に余ってしまうだけだ。それでも他の部員たちは適当に仕事を探してやり過ごしていたが、怜真はぼーっとしているところを涼哉に見つかってしまった。そして現場監督から直々に体育館周りの清掃を命じられたのであった。

 周囲には同じような経緯で体育館周りの掃除をしているのであろうバレー部やバド部の部員が何人かいるが、ほとんど接点がない人ばかりだった。しかも、掃除をせずしゃべってばかりいる。だから怜真はひとり、真面目に掃除をすることにした。とりあえず体育館の外縁の土足禁止の部分の砂を全て掃き落した。今度は校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の方にでも行こうかと思ったとき、

「あれ、怜真やないかぁ。お前も左遷されたんか?」

 後ろから声をかけられた。振り返るとそこにいたのは女バレ部長のたちばなけいだった。

「京さん。お久しぶりです」

「久しぶりって言うほどか? 春休みは練習の入れ替わりん時に毎回すれ違ってたやん」

「顔は合わせますけど、お話はしないじゃないですか」

「それはそやね」

 京は豪快に笑った。京は怜真や琉瀬と同じ中学出身である。中学の頃、怜真は一応彼女の存在を認識してはいたが、接点は一切なかった。しかし、高校生になりバスケ部に入って間もない頃の部活終わりに突然声をかけられ、なぜか気に入られてしまったらしい。それ以来仲良くしてもらっている。

「怜真。ちょっとこっち行こかぁ」

 そう言って京は怜真の腕を取って歩き出した。そして、人気のない体育館裏に着くと、適当な段差に京は座った。

「ほら、怜真も座りぃ? 京さんとお話しようやないか」

 京に引っ張られて怜真も彼女に触れるくらい近く隣に座った。

「暖かくて気持ちいいなぁ」

 京の言う通り、ちょうど日が当たって暖かい。和んでしまいそうになるが、しかし、今はひなたぼっこをしていい時間ではない。

「おれはいいですけど、京さんは女バレの部長なのにこんなところでサボってていんですか? それに『お前も左遷されたんか?』って、京さんは左遷する側でしょう?」

「あたしはあたしの権限であたしを左遷したんや」

「何を言うてはるんですか」

 怜真が呆れたようにわざとらしくため息をつくと、京はやっぱり豪快に笑った。

「そんなんでよく女バレの人たちは文句をいいませんよね」

「みんなあたしよりもしっかりしているからなぁ」

「ほんとそう思います」

「こら! そこは『そんなことないですよ! 京さんが1番です』くらい言わなあかんやろぉ?」

 京に軽く小突かれたので、怜真が大袈裟にいたがってみせると、京はまた豪快に笑った。「もう、やめてくださいよ」と冗談めかして怜真が言うと、京は急に真面目な顔になった。そして少し黙って空を見上げた。

「そんで、最近調子はどうなん?」

 社交辞令的な挨拶に聞こえるが、これはきっと本題だ。

「まあ、元気にやってますよ。春休みはずっと部活をしてました」

 それで終わってしまった。さすがにこれでは不味いかと思ったが、それ以上言うことがなかった。

「ふむふむ、なるほど。何か困ってることがあるみたいやねぇ」

 見抜かれている。無意識に拳を握る力が強くなってしまう。その瞬間、手汗が滲んだのがわかった。

「あたしも今日から高校3年生。けれど怜真も高校2年生。その差はこれからも開くことはない。だからあたしがどれだけ人生経験を積もうと、その差で怜真を圧倒することはできひん。年長者として怜真の困難を解決してあげることはできひん。そんで相談に乗ることもできひん——いや、せーへん。一緒に悩んでなんてあげへん。けどな、怜真。その代わりに甘えさせてあげる。京さんが存分にその疲れを労ってあげる。さあおいで?」

 かなり小柄ではあるがしっかりと女性らしいスタイルをしている京は、怜真の方に向き直って妖艶な目つきで誘う。目が合った瞬間、怜真は彼女の瞳に釘付けになる。金縛りみたいに動かなくなった怜真を融かすみたいに優しく、京の柔らかくて小さな両手は怜真の髪に触れた。そのまま頬に滑り落ち、顎をなぞった。それから首筋に回ったかと思えば、ゆっくりと怜真の身体を引き倒した。抵抗出来るわけもなく、怜真の頭はさらけ出されている彼女の引き締まった腿に落ちた。

 しばらくの間、京は何も言わずただ怜真の頭を優しく撫でた。それはとても心地よく、次第に怜真の瞼は重くなってくる。これ以上は本当に寝てしまうと思い京の方を見上げようとしても、その豊満な胸が邪魔で顔が見えない。と思っていると徐々に近づいてきて視界が完全に奪われようと——、

「先輩」

「怜真。先輩と呼ばんといてっていってるやろ。京さんって呼んで」

「京さん」

「なんや?」

「ありがとうございました。おかげで元気がでました」

 怜真は京の胸を避けながら身体を起こした。

「あたしはなんもしてないけどな」

 京は笑った。けれど今度だけは豪快なものではなく、優しくもどこか寂し気な笑顔だった。

「そろそろ戻りましょうか」

 怜真がそう提案し、京は黙って頷いた。その時、

「おいこら怜真! 居らんなって思ってたらなにサボって……げ、橘」

 涼哉が怜真を探しに来たのであった。

「おいおい宮野、『げっ』って失礼ちゃうかぁ? あたしが可愛い後輩を可愛がって何が悪い?」

「別に構わんよ? お前が時と場所を選んでくれたらな? 女バレの子らめっちゃ困ってたぞ! おかげで男バレの山本君と俺の仕事増えたっちゅうねん! はよ戻れ! 怜真も事情は何となくわかったから、とりあえず男バスのとこ戻って。これ以上ここでサボるって言うなら2人とも顧問に連絡やからな?」

「そりゃ勘弁。説教はするのもされるのも嫌いやからな。それじゃあお先に失礼するわぁ。怜真! 続きは今度なぁ!」

 京は反省の色を微塵も見せないで、速足で体育館に戻っていった。

「続きって何してたんや?」

「別に特には。ちょっと世間話を」

「ふーん、まあなんでもええわ。はよ戻んぞ」

 涼哉がせかせかと歩いていく。怜真も急いでそのあとを追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る