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取り込んだシーツを物干しに干す。これは学校がない日の海児のルーティーンだった。
宿泊客が疎ではあるが、切らしたことはない民宿。曽祖父の代から代々続いている民宿【ひぐらし】の息子である海児は、学業の傍ら民宿の手伝いをしている。労働させられているという自覚はない。民宿の息子として当たり前だと思っていたし、他所の民宿の息子は皆そうだと思っていたからである。
海児の朝は学校がないとしても早い、朝6時前には起きて民宿の前を掃き清める。朝のジョギングをする近所のおじさんに挨拶をしながら。それが終わってから漸く朝ご飯にありつくのだ。
海児の住む山間の村【千年村】は、いわば過疎化の一途を辿っている。出来の良い生徒はこの村を出て他所の学校に通う。小学校中学校と同じ顔ぶれが揃って、なんてことはほとんどない。
「海、釣りにでも行くか?」
父親の鉄平に誘われ、海児はおぅとだけ告げた。宿泊客がはけた今、鉄平の休み時間みたいなものだ。身体を崩して煙草をやめてからというもの、彼はミントのガムが手放せない。あれだけきついピースを何本も喫っていた父が嘘みたいだ。しかし煙草を止めると食事が美味しく感じるのは嘘じゃないらしい。酒と飯の量が増えたせいで、だいぶボリューム感を増している。
海児はいつも使っている釣り竿とビクを持ち、マウンテンバイクの脇に置いた。車はあるが、鉄平と海児の釣りのポイントは車じゃ入れない。鉄平の自転車のカゴにはいつもの釣り道具、先刻知り合いの釣具屋から貰った虫がある。
「じゃ、母さん、釣ってくるよ」
「また良いヤマメ、お願いね」
千年川の水は綺麗だ。そのまま飲めるくらいに水質が良い。なので豊富な栄養を蓄えた餌を食べ、活きの良い美味しい川魚が数多く泳いでいる。アユやヤマメやイワナを釣っては、民宿の料理として出したり、食卓に並んだりする。
「海よ、今日ようけ釣れたらよ、すまねぇが龍っちゃんのとこにいくらか分けてやんねぇか?」
「別にいいけど、どしたの?」
「いや、約束しちまったらしいんだ。ヤマメいっぱい釣れたら、龍っちゃんに分けるってさ」
「父ちゃん、それ酔っててわかんなくなってんじゃない?」
「だぁ、兎に角いいんだって」
鉄平が言う龍っちゃんとは、幼馴染であり悪戯仲間の麻木龍郎のことだ。民宿を営む鉄平に、龍郎も村に古くから店を構えて営業している食堂の店主だ。ほぼ毎晩に近いペースで一緒に日本酒を傾けながらくだを巻いている。
自転車を脇道に停めると、苔むした倒木を手摺のように伝って、山道を下る。緑色のテントのような森の中。見上げると楢や楓の木の葉の間を木漏れ日が照らす。ほどなくしてチョロチョロと水の流れる音がした。水面はキラキラと輝き、中が透けて見えるくらいに澄んだ川の底では、我が物顔でヤマメやウグイが泳いでいる。
「やるか」
長靴で川の中に入ると、二人はひょいと川に釣り針を投げ入れた。昔から二人はウキを使わないミャク釣りだ。糸の途中に矢印のような目印をつけ、魚のアタリはその目印の上下で見極める。糸の張りと目印のポンピングのタイミングで竿を跳ね上げ、魚に針を引っ掛ける。
「父ちゃん、早速きたよ」
「お、いつも早いな海は」
竿を置こうとする鉄平にいいよ、と告げる。タモを扱うのも慣れた。鉄平のいない間、たまに一人で釣り糸を垂れる事もあるからだ。竿を持ち上げながらバシャバシャと水面に姿を現したヤマメをタモで掬い、針を外した。
「こりゃなかなかだな」
「ここ、あんま皆知らないからね。いいポイントなのに」
ヤマメをたんまり釣った鉄平と海児は、3分の1をクーラーボックスに入れた。鉄平は残りを持って帰る。鉄平は海児に言った。
「すまねぇが、龍っちゃんのとこによろしくな」
「あぁ」
「あと、歌奈ちゃんにもな」
海児はクーラーボックスの紐を肩にかけ、マウンテンバイクを走らせた。舗装された道に出て、商店がいくつか並ぶ駅前の通りに出て行った。
もうそろそろ、祭の時期のようだ、村の公民館では古いタイヤを太鼓代わりに叩いて祭囃子の練習をする青年団や祭の保存会の面々がリズムを刻んでいる。朝早くに張られた縄。これを見る度に夏が来たなと海児は毎回思うのだった。
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