逃げる夢、これは私の記憶の話。
蘇芳 ななと
黒いナニカ
どうして、ワタシはこんなところにいるのだろう。
どうして、ワタシはこんなことになっているのだろう。
確か、幸せな夢を見ていたはずだ。
それがもう何か、思い出せないけれど……。
「ハァッ、ハァッ」
よく通る近所の道を私は必死になって走る。
道路から家の塀へと飛び移ってそのままその家の屋根へと登る。私は休むことなく屋根から屋根へと飛び移って走った。
チラッと後方を一瞥する。
五メートルほど離れた距離に全身黒いモヤで覆われた人型の何かが私を追ってくる。大人よりも大きいそれは重たそうな身体を引き摺って、でも速い動きで迫っていた。
逃げなければ!
アレに捕まったら終わりだ!
私の心はそんな考えでいっぱいで、ただただ必死になってアレから逃げていた。
塀の上を走り、入り組んだ道を無視して一直線に進んでいく。
アレを撒くことは出来ない。アレはどこまでも私を追ってくる。
もっと、もっと遠くへ。
手の届かない場所へ。
より高い建物へと逃げて私は空を駆ける。
そうだ、上へ。
誰の手も届かない空へ。
私は空を跳ぶ。けれども、突き抜ける青空を見て私は思い出してしまった。
羽も無いのに、上へ行けるわけないじゃん。
その瞬間、私の身体は真下へと引っ張られた。
落ちると思うより先に喰われると思考が告げる。硬直する首を何とか動かして視線を下に向けるとあの黒いモノが大きな口を開けて待ち構えていた。
ああ、終わりだな。
死への恐怖はなく、ただ漠然とそんなことを考えながら私はソイツの口の中へ落ちた。
青い空が塗り潰された黒に染まる。
そこで私は目を覚ました。
けたたましいアラーム音を止めて起き上がる。
時計を見ると針は六時を指していた。覚醒したばかりでぼんやりする思考の中、私は出社する準備をする。
身体が怠い……。
最近、ずっと同じような夢を見るし、寝ても疲れが取れないな。
締切に追われてるからあんな夢見るのかな……。
そんなことを考えながら、ボケーッと朝食を食べ、重たい身体に鞭打って身だしなみを整える。
ふと時刻を確認すると家を出る予定時刻から数分も過ぎていて、私は慌てて家を飛び出した。いつもギリギリに出社するからこのままでは遅刻確定だ。
ヒィヒィ言いながら会社に着くと早速上司が怒鳴ってきた。
「笠沼ァ! テメェ何遅刻してんだァ!?」
「す、すみません」
「普段もギリギリに来やがってぇ、普通は上司より先に出社してるもんだろうが!」
「申し訳ありません。で、でも、いつも残業で遅くまで残っているのでどうしても」
「言い訳なんてすんじゃねぇ! 他の奴だって残業してるのに毎朝早く出社してんだぞ!」
「ッ……はい……」
唾を飛ばしながら上司はまだ説教をする。私はこっそり横目で他の社員達を見た。
こちらを気にすることなくカタカタと忙しなくキーボードを叩いて無表情で仕事する人が五割、仕事をしていてもこちらが気になり視線を向けてくる人が三割、手を止めて上司から見えないようにこちら見て笑っているのが二割だ。その中には私の部下もいる。
「笠沼ッ! 聞いているのか!」
「はい……以後、気を付けます」
その日の私は罰として他の人の仕事を回されて、自分の仕事には一切手をつけられなかった。
しかし、締切の近い仕事が一つあるから明日に回す訳にはいかない。
節電の為、真っ暗になった会社の中、小さな灯りを頼りに資料を作成していく。
家に帰る頃には時刻はとうに日を跨いでいた。
自宅の二階に私はいる。
カーテン越しに窓から家の前の通りを見ると例の黒いモノがこちらをジッと見上げていた。
ああ、逃げなければ。
迎え撃とうとは思わない。何故ならアレは何度倒したって、何度殺したって、私を追ってくるからだ。
別の部屋へと移動して窓を開ける。隣の家は平屋なので飛び降りるのには丁度いい。
私は裸足のまま、窓枠に足を掛け、飛んだ。ダンッと衝撃が足裏を伝ってくる。痺れなど気にせず私は走り出した。
いつものように屋根から屋根へ、西へと向かっていく。
あそこは海だ。逃げ道は無いが人が多いからもしかしたら私の姿を見失うかも。
一縷の望みをかけて私は走る。家から海まではそう時間はかからない。
道路を渡ってゴツゴツした岩場を飛び越える。海水浴というよりは釣りに向いているその場所には大勢の人がいた。
大人も子供も海に潜り何かを探している。そんな彼等を尻目に私は防波堤の先まで来ていた。
「ハァッ……ハァ……」
身体は疲れていないけど息が乱れる。
「おい、お前! そこで何している!」
突然、遠くから怒鳴られて、驚いた私は振り返った。海に入ったまま、こちらに向かって男性が声を張り上げる。
「ボケッとするな! お前も早く中に入って探せ!!」
男性の声に反応したのか、周囲の人が一斉に私を見る。その中にはあの黒いモノもいた。
明らかに異様な存在なのに誰もアイツに気付かない。
ザブン、ザブンと近付いてくる人の波に、私はのみ込まれる前に海に飛び込んだ。そしてわざと人の多い場所へと泳いでいく。
軽やかな速さに私はこれで逃げ切れると確信する。こんなにもスムーズなら人ごみに紛れて、波に隠れて、アイツを撒ける。
スイスイと泳ぐ私は岩場に手をついてふとあることに気が付いた。
何故こんなにもスムーズに泳げるのだろう。
波はいつだって身体に纏わりついて水平線の向こうへ運ぼうとするのに。
そもそも私は泳げないのに、息苦しさも感じず泳ぐなんて。
……ああ、これは夢だ。
それに気付いた時、視界が薄暗くなった。上を見上げると黒いモノが真後ろに立っている。
ぱかりと開いた口が私の頭を飲み込んだ。
今日も今日とて、上司から仕事を増やされた私はひたすらに手を動かしてキーボードを叩いていた。昼食をとる時間すら惜しい。栄養ドリンクを飲みながら資料に目を通していたら部下の女性がこちらにやってきた。
「笠沼せんぱぁい。こっちの資料のことなんですけどぉ。何度読み直してもわからなくてぇ」
そんなことを言って資料を見せてくる。
「ああ、これはここの別紙に書いてある部分に」
「笠沼先輩、わかってらっしゃるなら、代わりにやってくださいよ」
「え?」
「だって、私がやるよりわかってる先輩がやった方が早く終わるじゃないですか。それにこれ、そろそろ締切がやばいですし」
慌ててスケジュール管理を見るとそれの締切は五日後だった。
「なんでもっと早く言ってくれないの」
苛立ち、思わず苦言を呈すと部下の女性は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「先輩、知ってますか? 私、長谷部さん達のプロジェクトチームに選ばれたんですよ。だからこんなショボい仕事してる暇ないんです。だ、か、ら、私の分もお願いしますね」
「ちょっと待って、そんな話、聞いてないっ……て」
私の言葉を無視して、部下は資料を私の机に放り投げるとさっさと出て行ってしまった。
キャッキャッと女の子達の楽しそうな声が聞こえる。投げ捨てられた資料に視線を落としたまま、私の耳は遠くから聞こえる彼女達の話を盗み聞く。
「…………」
初めから私に仕事を押し付けるつもりだったのだろう。
今夜も日を跨いで帰ることになりそうだと私は覚悟した。
私は家の中でふと誰かの視線を感じた。それは外からだ。見ると今日も家の前の道路に黒いモノがこちらを見ている。
逃げなければ。
しかし、玄関からは逃げられない。やはり、二階の窓から隣の家へ飛び移るしかないようだ。
私はすぐに寝室の窓から飛び降りた。
今回はどちらに逃げよう。
立ち止まることは許されない。
私は西へと向かった。海のある方角だ。だが海には行かない。その手前の道路で車に乗って逃げるのだ。
大丈夫、私は免許を取っているし、車なら走って逃げるより遠くへ行ける。
行き交う車を避けて、駅前へ向かう。電車の止まった駅は人がごった返していて、電車の代わりのバスが来ている。
人混みに紛れて私は物陰にあった軽自動車を目指した。
淡い黄色の軽自動車は傷一つなく、綺麗だ。私がドアに手を掛けるとすんなりとそれは開いた。鍵も刺さっている。いける。
私はすぐさま運転席に座ってエンジンをかけた。すぐそこにアイツが迫ってきている。早くしなければ。
道路へと出て、いつもの道を行く。早い早い。これなら安心だと私は暫く車を走らせる。
最初は良かった。しかし、いつしか車のスピードは落ち、握っていたハンドルも私の意思とは関係なく回り出した。
制御不能。
まさにその言葉がふさわしい。
まずい、まずい!
私は焦るが、車は右に左にと何度も角を曲がって、ある場所へと辿り着く。
人の溢れるそこは私が初めにいた場所、駅前だ。
なんで!
戻ってきた!
車はもう動かない。
私はすぐに車から這い出た。
また最初からなんて!
逃げなきゃ、逃げて、逃げて……!
人混みを掻き分けてぶつかりながら大通りへと出ようとする。あともう少しというところで、私は自分の名前を呼ばれた気がして立ち止まった。
瞬間、手首を何かが強く掴む。
慌てて掴んできたソレを見て私は息を呑んだ。
黒いモノだ。口をあんぐりと開けて待っている。
私はもう何も考えることなく暗くなる視界をぼんやりと眺めて、息を大きく吸った。
「今日は飲みに行くぞー」
上司の言葉に逆らえず、私を含め何人かの社員が居酒屋へと連行された。
仕事はやりかけたまま、終わりなんて見えない資料作りがあるのに、俺との酒が飲めないのかと喚かれては手を止めざるを得なかった。
これで遅れても悪いのは私のせいにして責めるくせに。飲みに付き合わなければ多少は早く終わって、家に帰れるなり他の仕事に手を回すなり出来たのに。
恨めしくて上司の気付かない後ろで睨んでいたのは数時間前の話だ。
今、私は便器の前に座り込んで嘔吐していた。
断ろうものなら暴言を吐き、酒を大量に注いで、早く飲めと更に要求してくる。
胃の中が爛れ、燃え上がるような熱を感じながら、他の社員の野次を受けて何杯も呷る。誰も止める人なんていない。
大量のアルコールに身体が拒絶を起こしてトイレに駆け込んだという訳だ。
頭がグラグラして、気持ち悪い。
口元を吐瀉物まみれにした私はぐったりと便器に寄りかかった。その後の記憶はあまり覚えていない。
意識がはっきりとしたのは店の一室で店員と警察官が何やら話している時だった。
未だ残る気持ち悪さを抑えて、状況を確認する。とりあえずわかったのは上司や他の人達は皆、私を置いて次の店へ行ったということだけだった。
最近は海側に逃げているから、今回は反対側へ行こうと思った。
相変わらず黒いモノが追いかけてくる中、北東へ向かう。横道へ行けば大きな墓地へと繋がるのだが、私はその時何故か、その墓地へ行けばあの黒いモノは追ってこないと直感していた。
そうと思えばすぐに横道に入り、緩やかな坂を登る。墓地はすぐに見えた。
幾つもの墓石が建ち並び、そのすぐ傍には古い民家も建っている。
私は奥へと走った。振り返るとやはり黒いモノは追ってきていない。これなら一先ず安心だと私は走るのをやめた。
吹き抜ける風が体温を奪って気持ちいい。
私は暫く墓地を歩いた。すると先程通った民家に戻ってくる。
ブロック塀に囲まれた家からは犬の吠える声が聞こえた。よく見ればブロック塀の隙間から犬の焦茶の毛と湿った鼻が見えている。
犬は唸り声をあげてこちらを威嚇していた。ガシャンガシャンと犬を繋ぐ紐の金具が音を立てる。
ここにいたらあの犬に噛み殺されてしまう。
残念だが私は墓地を去ることにした。しかしこのまま戻ってもあの黒いモノに見つかってしまう。
私は元来た道に戻らず、もっと奥に進み、墓地の通りから外れ、木々の隙間を縫うように坂を下りた。
けたたましい音に私は飛び起きた。
大音量で流れるそれは電話の呼び出し音だ。どっくんどっくんと五月蝿い心臓を無視して画面を見ると相手は上司からだった。そして画面と一緒に映し出されているのは現在の時刻、出社時刻はとうに過ぎていた。
慌てて電話に出れば開口一番怒鳴り声が響いた。私はただひたすらに謝ってすぐに着替えた。
身体が怠いけどそんなことを言っている場合ではない。
散乱したゴミを蹴飛ばしながら私は家を飛び出した。
小学生の頃によく遊んでいた友達が、目の前にいた。
彼女、彼等は楽しそうに何かを話している。一人の子が私にも話を振ってきたので返したが、その子はすぐに他の子と楽しそうに喋り出してしまった。
ああ、きっと選択肢を間違えたのだなと理解する。
皆が私に興味を失くしたように遠ざかっていく。この疎外感すら懐かしい。
私は背を向けて歩き出した。やはり一人の方が気が楽だ。
私は黙々と歩いて山の中へと入っていった。
出社して早々、事務の女性から書類の事で尋ねられることがあった。
なんだろうと思いつつ、手を止めて顔を上げる。女性社員は私の顔を見た途端、引き攣った表情に変わった。心なしか血の気が無いようにも見える。
きっとここ何日かまともに眠れてないから隈が酷いことになって、私の顔が見るに堪えないのだろう。
仕方ないよね、うんうんと一人頷いていると、近くを通りかかった部下がこちらを見て短い悲鳴をあげて走って行った。
「あ、あの、やっぱり大丈夫ですっ! 失礼します!」
部下の姿を視線で追っていたら、女性社員までもが走り去っていく。
引き止める間も無く姿が見えなくなってしまった。
一体なんだったのだろうと首を傾げていると上司が帰ってきて私を見て急に怒鳴ってきた。
「何サボってんだ! ただでさえお前は仕事が遅いんだから休んでる暇があるなら仕事進めろ!」
「……すみません」
「ノロマが! お前みたいな奴は死んだ方が世の為だがなぁ、うちは優しい会社だから雇ってやってるんだぞ! 感謝しろ! わかったんならこの書類も今日中にまとめとけ!!」
叩き付けられた書類が散らばる。
それを手に取った視界の端に黒いナニカが入り込んだ。
ふと私は笑いが込み上げてきて息が漏れた。その日の仕事終わりは空が白んでいてその奥に透き通るような青が見えた気がした。
私は一人、自宅の寝室から外を見る。
外は真夜中で暗い。しかし、そんな視界不良の中でも黒いモノはよく見えた。
私は視線を黒いモノから外して上を見た。夜空は星が輝き、無数の光の穴があった。
月は見えないが背景の暗闇が淡い光に照らされて薄暗い黄緑色に見える。もしかしたら月ではなく星の明かりかもしれない。だってこんなにも大量に輝いているのだから。
赤、白、青、色とりどりの点が明滅を繰り返して、流れ落ちていく。
綺麗だと、流星群を見るのは久しぶりだと感動していたが、視界のすぐ脇を黒が掠めて、私は慌てて窓枠へ足を掛けた。
飛び出して、あとはいつものように屋根から屋根へ飛び移る。
たとえ足場が無くても空を蹴って、無ければ作れば良いのだと想像した踏み台を出現させて、私は黒いモノの届かない高所へと逃げた。
目の前に星が降る。
手を伸ばせば掴めそうだ。試しに伸ばそうとすると足を滑らせてしまった。
ああ、終わりだな。
遠ざかっていく星空を見て私は最初頃に見た夢を思い出した。
下には黒いモノが口を開けて待ち構えている。私は笑った。
あれだけ逃げ回っていたのに、今だけは満ち足りた気持ちになっているのだ。
大丈夫、食べられても次に目を開けた時には目覚めているから。
生温い風を感じながら私は目を閉じた。
その日のうちに私は退職することになった。
【終】
逃げる夢、これは私の記憶の話。 蘇芳 ななと @nanato_s
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