第72話 闇夜の黒猫

 背中に、冷たい汗が流れた。天幕の中にエルザとクリスタ、そして俺の他に誰かがいるなんて、声を掛けられるまでまったく気付かなかった。つまりその存在は、その気になれば俺をいつでも殺すことができたということだ。


 声のする方を見れば、そこには細身で小柄な女が、敵意がないことを示すように片膝をつき、視線を伏せて控えている。短い黒髪くらいしか印象に残らない、地味と言うより存在感が限りなく薄い、闇夜の黒猫みたいな、そんな女だ。


「驚かせてしまって申し訳ございません。私はヘルムートの配下であったギゼラと申す者」


 ヘルムートの部下と聞いて、俺とクリスタは一瞬身体を固くするが、すぐ緊張を解く。よく考えれば、彼女に俺たちを害する意志があれば、すでになんども殺すタイミングがあったはずだ。それなのにわざわざ声をかけて存在を示してくれているのだ、少なくとも今の瞬間、彼女は直接の敵ではない。


「ご理解いただきありがとうございます。私どもは力でヘルムートに従わされていただけ、ウィルフリード隊長、ましてやエルザ王妃陛下に敵対する意志はありません」


 俺たちが警戒を解いたのを感じ取って、ギゼラと名乗る女の口調が、柔らかいものに変わる。


「ギゼラさん、じゃあなぜ、君はこの天幕に入って、しかも気配を消していたのかな?」


 俺の問いにうなずいて、彼女がゆっくりと話し出す。ヘルムートの醜い欲望に気付いてはいたものの、証拠もなしにエルザに直訴するわけにもいかない。かといって奴の近接戦闘技術に敵う者もおらず、手をこまねいていたのだという。


 しかし今日、エルザが幹部と勝利を祝して空けた一杯のグラスワインに奴が薬物を仕込むのを見て、エルザが襲われることを知り、その天幕に忍び込み息を殺していたのだという。


「それで、君はどうするつもりだったんだ?」


「隠密のスキルに関しては部隊一の自信があります。気配を殺している間は、ヘルムートにも私の姿は意識できないはず。そして彼が決定的な行為に及ぼうとしたその瞬間に、背後から一刺しで殺します。男はそういったコトに夢中になる時、だらしなく警戒が緩みますから。そうでもしなければ彼には勝てません」


 俺は先を続けさせる。エルザは心配だが、ギゼラが信用に足るかどうか見極めなければ、彼女の身を預けるわけには行かないだろう。


 その意図を汲んだのか、彼女は自らの身の上から語りだす。貧しい東の国で生まれ、幼いころに口減らしのため闇ギルドに売り飛ばされ、壮絶な訓練を施されて一流と言っていい闇仕事のプロになった。そして今回王室が特殊部隊を創設する際に、ギルドから国に売り渡されたのだとか。十年契約でがっちり縛られており、途中で抜けるには巨額のカネか生命を差し出さないといけない羽目になるのだという。


「そんなわけで、いまいましい闇ギルドとはようやく縁が切れたものの、自由の身には程遠い身分でして。それならば何か大きい手柄を立てて恩賞を頂き、この身の自由を買って平和に暮らしたい、それが私の望みなのです」


「その『手柄』が、エルザの危機を救うことだったというわけか」


「はい。ですが眼の前で美味しいところを、お二人にさらわれてしまいました。ならばせめて解毒のお手伝いをして、ご褒美を頂けないかと」


 ずいぶん正直で即物的な言い分だが、信じていいものか。もちろんこういう時はクリスタがその能力を発揮しているはずと、頼れる妹分の方を振り返ろうとすると、ギゼラが口を開いた。


「どうかしら司祭のお嬢ちゃん、私の話に嘘は、あった?」


「……ありませんね。貴女のおっしゃることは、本当のようです」


「さっきの大活躍シーンを見ちゃったらね、もうお嬢ちゃんに何か隠すとか無理だから。むしろ正直にぶっちゃければ、こっちの隊長さんはお人好しっぽいオーラがびんびん出てるから、守ってもらえそうかなとか思ってさ」


 ふうん、この女、俺には丁寧だったけどクリスタ相手だとずいぶん砕けたしゃべり方になるんだな。


「ウィルお兄さん。この方を信じましょう、大丈夫ですっ!」


 やけに力強く宣言するクリスタに引きずられて、俺はギゼラに任せることにした。どっちみち、取れる選択肢は他にないんだしな。


 俺たちが場所を空けると、彼女はてきぱきとエルザの脈をとり、瞳を覗き込んだり首筋を触ったりしていたが、間もなく小さくうなずいて、天幕を出ていった。


 このまま逃げるつもり……ってことは、ないだろうなあ。少なくともクリスタの読心術に身をさらしたんだから、彼女の言葉には、かなりの真実があるのだろう。自信ありげなクリスタの表情に、もはや信じるしかないと腹をくくる。


 そして、ギゼラは二種類くらいの薬を持って戻ってきた。それを水に溶いて、小さな水差しみたいな道具を使って、少しづつエルザの口に流し込んで、あとはひたすら待つ。ギゼラとクリスタはもう大丈夫とばかりに自己紹介など始めているが、心配性の俺はエルザの顔を、ずっと見つめていた。


「ふぅ、わ……」


 やがて、エルザのまぶたが、ゆっくりと開かれた。


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