第65話 出撃するの?
とろんとした表情で口を半開きにし、恍惚に浸っていたらしいドロテーアがようやく任務を思い出したかのように視線を上げて眼を見開く。すると持っていた羽根ペンが彼女の手を離れ、それ自身が意志あるもののように軍事地図に向かって動き始めた。
「うん、成功したみたいね! クリスタお願い!」
「はいっ!」
鉛筆を手にしたクリスタが羽根ペンの軌跡をなぞりはじめる。ペンが滑らかに移動したところは線を、暫く留まったところには丸を描いて。丸が三つになり四つになっても、鉛筆が街を囲む城壁の内に入ることがないことに、俺たちは驚く。
「丸が描かれた場所は、どうやら宿営地みたいね……」
「この殿下は、街に戻らず郊外の村々を回っているということかな」
「そのようね。フライベルクを足場としてケムニッツにそのまま攻めて来るのかと思ったけれど、この様子を見たら周辺村落の宣撫工作に重きを置いているみたい。支配地域の拡大ではなく、フライベルクの実効支配を固めることを優先するつもりね」
なるほど。それならマリウスの宿屋が敵軍に蹂躙されることは、暫くなさそうだ。個人的にだけど、少し安心する。
しかし、羽根ペンはまだ動き続ける。そして鉛筆で描いた丸……恐らく宿営地が十箇所目になったところで、ようやくその動きを止めた。その位置はフライベルクからかなり離れ、最もケムニッツに近い村を示していた。
「これは……」
「まさに今、この村にターゲットがいるということでしょうね」
術を解いたドロテーアが、きっぱり断言する。その姿は先程だらしなく口をあいていたのが嘘のように、神秘的で静謐さに溢れた女に見える。その言葉はまるで闇精霊のお告げのように、俺たちの耳に響いた。
「王妃様、これが本当だとすると、ターゲットを拘束する千載一遇のチャンスなのでは……今すぐ出撃すれば!」
「この女の言うことが、本当ならばな。だが、こいつが俺たちを引っ掛けようとしているとしているとは、誰も疑わないのか? チャンスと信じて突っ込んだ先にたっぷり伏兵が待ち構えていて、こっちは全滅なんてことは、ごめんだぜ」
喜色を浮かべて出動を求める軍人部隊のブルーノと、闇魔法の追跡術をまったく信じず否定に回る、闇仕事部隊のヘルムート。対立する二人の間に、視線の火花が散る。
あえて、ここには口を出さない方がいいだろう。意見を述べたとしても、最初からドロテーア寄りとみなされているであろう俺なのだから。あくまでここは、総指揮官であるエルザが、判断し決断すべきところのはずだ。
だが、いつもすぱっと迷わずパッションに任せて突き進むはずのエルザが、今日ばかりは行動を決めかねているみたいだ。確かに、いくらなんでも呪いまがいのお告げだけに従って部下の全生命を賭けさせるのかと問われれば、誰しも逡巡するだろう。エルザ本来の性格からすれば、ここは突っ込みたいはず、もう一つ何か、彼女の背中を押すものがあればだが。
そんなことを思っていたその時、エルザの視線が俺に向いた。その紅い瞳がいつになく自信無げに揺らぐのを見て、支えてやりたい想いが湧いてくるけれど、ここは手を出しちゃいけない。それは彼女が司令官として持つ威信を失わせる行為だし、何よりもう俺には、エルザの隣に立つ権利はないんだ。俺は彼女の瞳を真正面から、ただ眼をそらさず見つめる……それしかできない。
ふと、クリスタがかすかな衣擦れの音とともに、ゆっくりと動く。エルザの背に自分の右手を静かに当て、耳元で何やら小さくささやいている。それから二十ばかり心の中で俺が数えた頃には、揺れていたエルザの視線が定まり、いつもの強い意志がそこに戻っていた。
「方針を、決めたわ」
「出撃なさるのですな!」「お止めになるのでしょう?」
ブルーノとヘルムートのかぶせるような問いには答えず、エルザはなぜか俺の方を向いて決定を伝えた。
「追跡魔法が示す村に、ターゲットは必ずいるわ。直ちにできうる限り接近し魔法部隊の『探索』で兵力を調査、五百以下なら夜を狙って襲う。いいわね、これは相談ではなく決定であり、命令よ」
最後の言葉は、ヘルムートに向けたものなのだろう。顔を輝かせるブルーノとは対照的に、ヘルムートはこめかみに青筋を浮き出させ憤懣やるかたない表情だ。しばらくエルザに執念のこもった視線を送っていたが、やがて諦めたのか、目を伏せた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
クリスタと二人になったところで、さっきから気になっていたことを聞いてみる。
「なあクリスタ。さっきエルザに、何てささやいていたんだ?」
「うふっ。ドロテーアさんの『お告げ』を、信じてもいいですよって!」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「私の力をご存じですよね? ドロテーアさんの心には、私たちを陥れる意志など、欠片も感じられませんでした。そして彼女の記憶によれば、あの『追跡』で探った場所の的中率は、百発百中だったようですからねっ!」
そうか、クリスタは、俺たちのためにその力を使ってくれたんだな。彼女の中ではトラウマであり、決して好きではないだろう、その読心能力を。
「ありがとう、クリスタ」
「うふっ! ご褒美くださいっ!」
そう言って少し上を向いて眼を閉じたクリスタの頭を、優しく撫でてやる。クリスタはちょっと不満そうに口をとんがらせていたけど、最後は気持ちよさそうに、また眼を閉じた。
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