第40話 生還
俺の家から、若い女が出て行こうとしているところだった。
紫色のローブのようなものをかぶっているので女の容貌は良く見えないが、俺にとって大事な女だってことは、なぜだかわかる。出ていく間際に半分振り向いた口元は、悲しそうだった。止めなきゃいけない、出て行かせてはいけない。でも、身体がひどく重くて、声が出ないんだ。
俺は必死でもがく。俺の動きを縛っていた「何か」をようやく振りほどいて、女の行方を追う。俺が動けない間にずいぶん先に行ってしまったみたいで、どこにいるのかわからない。
俺は当てずっぽうの方向に、ひたすら走る。
しばらくして、ライ麦畑を貫いて真っ直ぐひかれた街道の彼方に、ローブをかぶったままの女を見つけた。呼びかけたくても、まだ声は出ない。俺はひたすら全力で追いかけて……追いつきざまに肩を掴んで、女の顔を俺の方に向ける。
俺を見つめる、濡れた瞳の色は……
「……クリスタ、意識が戻ったみたい!」
「えっ! あ、本当……お兄さん! ウィルお兄さんっ!」
「ウィルっ! ウィルっ!」
俺の目の前には、紅い瞳と、翡翠の瞳があった。どっちも、何かの感情に濡れている。
「ああ……? エ……ルザ? クリスタ?」
「ウィル、良かった、良かったわ……」
「お、お兄さんっ! うっ、うっ……」
優しい眼で俺を見つめるエルザと、俺の右手を掴んで薄い胸に抱えこみ、ひたすら涙を流すクリスタ。
「これだけ目が覚めないと、さすがに私も焦ったわね」
「焦ったって……だいたい、ここはどこだい?」
「王宮だけど?」
「そうか……俺はエルザがあの騎士隊長と戦ってたところまでしか覚えていないんだけど……奴は、どうなった?」
「私が右腕を斬り飛ばしたわ。殺しはしなかったけど死罪は間違いないから、命日がちょっとだけ後ろに移動しただけね」
「さすがはエルザだな。俺達が支援しなくても、勝つべきところでは勝つ。それに比べて俺は、最後の支援魔法も失敗しちゃうしな……」
エルザもクリスタも無事だった。それは嬉しい、とても嬉しいんだけど……俺はまったく、役に立たなかったな。
「え? 失敗っ?」
めそめそ泣いてたクリスタが急に食いついてきた。
「そりゃ、失敗だろ。最後に『遅延』デバフを打ったけど、うまく相手に当てられなかった。あれじゃ奴の動作を遅くすることは、できないからな」
エルザとクリスタが眼を見合わせている。
「あ、あれはっ、狙ったのではなかったのですね……」
「そうなんだ……ウィルが狙ったとばっかり思っていたんだけど……」
そして、メゾソプラノとアルトの笑い声の合唱が響いた。残った俺一人だけ、さっぱり事情が分かっていない。
「何なんだよ。君らだけ面白そうに笑って」
「あははっ、ごめんなさいねウィル。でもねウィル、あなたの最後の魔法は、私達を救ってくれたのよ」
「え? あの、狙いがそれた『遅延』が?」
「それがよかったんですよっ! ウィルお兄さんの『遅延』が、騎士さんの片足の……先っぽだけに当たったんですからっ!」
「そんなのが、効いたのか?」
「そうですよっ! 全速でエルザお姉様に向かっていこうって時に、片足だけ動きが止まったんですからねっ!」
「あ、そうか。もしかして相手を転ばせたとか?」
「さすがに転びはしなかったけど、数秒だけバランスを崩して身体が泳いだわ。そして、私にはその数秒の隙で十分だったのよ、彼の魔剣を持つ右腕の……ひじから先を斬り落とすためには、ね」
「ほんのさっきまで、お兄さんがわざと足を狙って『遅延』を打ったんだと思ってましたっ! ね、エルザお姉様! まさか狙いが外れて足だったなんて思わなくって! ふふっ!」
「ホントよね~。あの状態で『遅延』をまともに掛けても、勢いが付いた騎士の突進は防げない。だから頭のいいウィルが、敵のバランスを崩す使い方に、とっさに変えたんだと思っちゃったのよね。ふふっ、私もクリスタも、ちょっとウィルを過大評価しすぎてたかしらね?」
ああ、もう勝手にしてくれよ。そうか、あれは失敗だった、それでも結果としてエルザの助けになったのなら……良かった。
エルザは優しく、クリスタは無邪気に笑い続けている。それはまるで姉妹のようで……二人の間にあった「女同士にしかわかんない」わだかまりが、いつしか溶けてしまっているようだ。
そういえば、いつの間にか「王妃様」呼びじゃなく「エルザお姉様」に、「司祭様」や「クリスタさん」じゃなく「クリスタ」に変わっている。いったい何が、あったんだろう?
「なあ、俺はいったい、どれだけ寝てたんだ?」
「どのくらいだと思いますかっ?」
「丸一日……くらいか?」
「はぁ~っ。ウィル……そのくらいなら、私とクリスタがこんなに心配しないわよ。閲兵式の日から、今日で丁度、五日目よ」
「ええっ!」
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