第六章 過去も未来も全ては延長線上にある
第28話 私の物語【木掛優】
ありふれた場所での、ありふれた時間軸での、ありふれた物語――。
普通。
この普通っていうのが私にはよくわからない。
普通って、世の中で一番便利な言葉なのでは?
普通って言葉が先行していくことで、普通じゃないって言葉も生まれていく。
光が影を生むように、両者の線引きを色濃くしていく。
ある人は言うよね。なんか、言ってることがわかんない。
ある人は言うよね。全然、話が通じないし、何考えてるかわからない。
ある人は言うよね。結局は、自分に害のない範囲で、そういうのに近づかなくて、放っておくのが一番いいよね。
ありふれた、簡単な言葉ほど厄介なものはない。その言葉が周囲に広まれば広まるほど、光の陰に隠された闇もまた、その色を濃くしていく。
いつからか、そう思ってしまった。
普通じゃないって言葉がプラスの意味を持つのは、一握りの成功者だけだと思う。少なくとも、普通の環境に置かれた日常の中では、それは埋没してしまう。普通じゃないを矯正していく存在も多くあって、世の中はうまくまわっている。
普通が基本であって、普通じゃないが基本ではない。
今までの私の人生の中では、そうであった。
私は人より普通であったと思う。どこにでもいるサラリーマン家庭だったし、家から近い高校を経て、ほどほどの偏差値の大学もいったし、親のコネだけど普通に就職したし。
でも、そこには友達も恋人も存在しなかった。
常に一人であった気がする。
人生を変えるような経験も、いや、人生の糧となるような経験も人より少なかったかもしれない。
だから。
私が自分自身を普通だと思っても、周りから普通じゃないって思われていた。
いまいち、自分が自分の人生の主役である、という実感が湧かない。
そんなふわふわした感情のまま大人になり、流されるように満員電車に揺られて、会社の受付嬢をしている。そんな、どこか他人事みたいな自分事を過ごしている。
私がそんな風に思ってしまったのは、多分、これが切っ掛けなんだろう――
「優、また虫を捕まえてきたよ」
「わ~、すごい。今度はなに?」
「これはね、ジャコウアゲハだよ。黒い肢体が特徴で、綺麗だよね」
「ふーんすごいね」
私のお父さんは昆虫が好きだった。休みの日に、近所の公園や森に分け入って、何かしらの昆虫を捕まえてきた。お父さんが虫捕り網を持って走り回っている間、私とお母さんはハイキングシートを敷いて、お菓子をぼりぼり。さながらピクニックのようだった。
お父さんは生き物全般が好きだった。動物も、魚も、昆虫も、そして家族も。私たちに怒るようなことはなく、とても穏やかで、理想的な父親だった。
「今日はカナブンだぞ」
「今日はオオクワガタだぞ」
「今日はホタルだぞ」
次々と昆虫を捕まえては、虫かごを買って、熱心に飼育していた。私もそんなお父さんの影響で、自然と昆虫に愛着が湧くようになった。クラスメイトの女子は総じて虫が苦手。校庭の花壇の土からカブトムシの幼虫が出てきた時は、上へ下への大騒ぎになった。
誰か触ってよ。
押し付け合うクラスメイトを横目に、私はいとも容易くひょいと摘まみ上げる。
すごーい。昆虫好きなんだね。
ちょっとした歓声が起こる。小学三年生なんてこんなもの。
昆虫博士。
いつしか、私はそう呼ばれるようになった。
自分でも特に悪い意味と捉えてはいなく、一芸に秀でている、むしろ誇らしい気持ちすらもっていた。
そんな中、一つの忘れられない出来事が起こった。
秋の嵐の夜。
寝る前にジュースやお茶を飲み過ぎたこともあり、夜中にトイレで目が覚めてしまった。私はもぞもぞと布団から這い出て、寝ぼけ眼にトイレへと急ぐ。
がさがさ。
静まり返った部屋の中で物音がした。
ああ、きっと虫かごのクワガタやカナブンたちが動き回っているのだろう。そう思って、用を足したあと、虫かごが置かれた部屋のドアを開けた。
その時、私の目に飛び込んできたもの。それは――。
虫かごを蹴破りそうな勢いで、激しく動き回る昆虫たちであった。
がさがさ。がさがさ。
がさがさがさがさがさがさがさがさがさがさがさがさ――
昆虫たちが激しく動き回る姿を見て、私の胸がざわつきだす。
この子たちは、逃げたがっているのでは。
面白半分に昆虫を捕まえて、彼らをこの狭い檻に閉じ込めているのでは。
心の奥に芽生えた感情は、止まることなく私の体を突き動かした。気が付くと、私は無数の虫かごを持って外に飛び出していた。彼らを逃がすため夜空に向けて蓋を開け放つ。昆虫たちは箍が外れたように一斉に飛び立っていった。中には狭い虫かごに詰め込まれたせいで、足がもげて動けずに死んでしまった昆虫も沢山いて、胸がじくりと痛んだ。
その中で一匹だけ、いつまでも虫かごから逃げ出さない昆虫がいた。それは緑色に輝く一匹のカナブンだった。ひっくり返るでもなく、通常の起き上がった姿なのに、いつまでもこの場所から動こうとしない。
どうしたんだろう。
私は強い不安に駆られた。
弱っているのかも。
私は丁寧にカナブンを拾い上げて、優しく両手で包み込んだ。すると、さっきまで身動きひとつしなかったカナブンは、息を吹き返したように小さく動いた。近くの公園まで歩き、そっと野に放ってあげた。カナブンは弱弱しい足取りで草むらの奥に消えていった。
虫の命は儚い。
カナブンだって成虫から一か月もない。
彼らの自由を、一瞬しか輝けない生命の煌めきを奪ってしまった。
そんな罪悪感が心の奥深くに芽生えてしまった。
それからだ。私は公園でも街中でも、弱っている虫を見かけた時は、そっと両手で包んであげるようにした。虫たちは私の両手に触れると、みるみるうちに活力が漲り、力強く動き出した。
せめてもの償い。そう思っていた。
しかし、昆虫たちと心が通じ合う反面、私の世界は大きなズレを生じ始めてしまった。
「優ちゃんの言ってること意味わかんない」
「えっと、優ちゃんって何考えてるの? わたしの言ってること伝わってる?」
「うん、まあいいや。じゃあ……、わたしたちは向こうで遊んでくるね」
皆は口々にそう言ってきた。
この頃から、私は周囲から変な目で見られ、苦笑いだけされるようになった。
皆とかみ合っていない違和感を覚え始めた。
私は何かスイッチが入ってしまうと、ひどく心配するようになってしまった。
学校でも、会社でも、家庭でも。私が心配すればするほど、人は遠ざかっていった。
人とうまく会話が成立しなくなってしまった。
お父さんはなんとか私を元に戻そうと、しきりに心療内科の受診を勧めてきた。お父さんは子供を愛しすぎていたんだと思う。自分が理想とする子供と違うことにひどく落胆していた。
なんで、優はこんな感じなんだ。
俺がなんとかしなきゃ。
善意と思いやりは、当人にとっては時に悪意へと変換される。
私は家族からも普通じゃない人間だと思われている。無言の矯正をされればされる程、ますます心を閉ざすようになり、状況は悪化していった。
でも、こんな私のことを好きになってくれた人もいた。
高校二年生の頃だ。
クラスメイトのサッカー部に所属している爽やかな人だった。
家が近所だったこともあり、向こうから話し掛けられて、休み時間に世間話などを話すようになった。初めてできた友達のような人。いつしか、それは好意に変わった。
でも、結果としてその恋は実ることはなかった。
既にクラスで浮いていた私と仲良くしていることに、彼が揶揄われ始めたからだ。
彼はいい人だし、私なんかと仲良くして、彼までクラスで浮いてしまったら大変だわ。
そんな心配性が固い鎧となって全身を覆ってしまった。
次第に私は彼を避けるようになり、彼もまた私を避けるようになり、『何か』が始まりもせず自然消滅した。そして、元の立ち位置に戻った私たちを、皆が普通のこととして受け入れてくれた。元々ポテンシャルが高い彼は別の子と付き合いだして、私のことなんか気にも留めない。
そんな馬鹿みたいな心配性が招いたひとりっきりの日常。
でも、一度入ってしまった心配のスイッチは、自分では止めることが出来ない。
思い悩む日々が続き、人は遠ざかり、それが普通になって、時だけが流れて大人になり切れない大人になった。
今でも覚えている。
あなたが自動ドアの前で、一匹のひっくり返ったカナブンを助けていた時。
ああ、あの営業さんって優しい人だわ。きっと真面目な人なんだろうな。だから、一生懸命に外回りを頑張って、こんな暑い日も走り回っているんだろうな。でも、日もかんかんに照っているし、汗もたくさんかいているだろうし、きっと水分を飲み過ぎてしまう。それに、水分だけではミネラルを摂取できないから、多分塩分チャージや塩辛いものを食べ過ぎてしまって、塩分過多になって『高血圧』なんかになってしまったら大変だわ。
いつからか、そんな風になってしまった。
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