第54話

 そして、そのまま時間が過ぎていく。空の色から、夜が消えていく。

「あれは...誰だ...?」

 やがて地平線の向こうに、人影が現れた。遠目から見て、少し違和感のある姿をしていた。見える箇所全てが、黒かったからだ。まるで、闇そのものを全身に纏ったかのような、歪な気配を漂わせている。


―—鹿芝はそれを視認した瞬間に、理解した。殺意を帯びた眼差しを、その人影がこちらへと向けていることを。


「馬を止める。お前は、下がってろ。おそらく、待ち伏せしている野郎はヤツ一人だ」

 男はそう告げて、人影の十メートルほど手前で馬を止めた。鹿芝は跨っていた鞍の上から降りて、続いて男も地面へと降り立った。

 男は近づいて、黒ずくめの人影を凝視する。頭も顔も、焼け焦げた煤のようなもやに吞み込まれていて、四肢と胴体の輪郭すらも曖昧だった。そのとき―—

『お前に、用は無い』

 その人影が声を発した。音の崩れた機械音声のような、パソコンのスピーカーが異常をきたしているような、歪み切ったノイズとなってそれは発されていた。


―—そして、その音は協同学習室で聞いたノイズと、鹿芝の脳内で響き渡っていたノイズと、同じ音だった。


 けれど鹿芝は不思議と、そのノイズに不快感や鼓膜の痛みは感じなかった。鹿芝の意識へと、はっきりとで、その言葉は刻まれていた。

(この...声は...)

 だけどその声は、鹿芝にとって聞き慣れた人の声に近しいものだった。

「須床...先輩...?」

 ただ、どこかその声は、哀愁を孕んでいるような。

「...てめえ、何しやがる!」

 けれど、男の様子がおかしい。両耳を手のひらで強く抑え込みながら、呻き声を漏らしている。

「え?」

 鹿芝は、疑問を覚えた。あの人影の声は、そんなにうるさいものだったろうか。いや、違う。男にとって人影の発した声は、言葉として受け取れるものでは無かったのだ。

「くっそ、耳が痛えぇっ!!」

 男の反応を見るに、鹿芝と男の体質などにおける何かしらの差異がその反応の違いに影響しているのは間違いない。

『そこを、退け。この警告に従わないのなら、無垢の殺戮者としてお前に力を振るう。そのときがお前の、最期だ』

 人影が再び声を発し終えると、男は再度強く自分の耳を塞ぎながら、腰に下げた刀剣を鞘の中から引き抜いて構えた。

「おい、てめえ...気持ち悪い騒音ばっか出しやがって...これ以上変な真似してみろ!こいつでてめえを、身体中に引っ付いてるその気味悪い靄ごと、叩き切る!」

 男が怒鳴りつけるのも気に掛けず、人影はその左腕を男へと向けて、黒い靄に包まれていた左腕の輪郭を晒した。その表面を覆っていたのは、皮膚では無かった。黒を基調とした色合いに僅かに紫色の滲んだ鉱石、至極石らしきものが左腕の形を象って、肉体の一部と化していたのだ。

「お...お前...」

 男が絶句するのも気に掛けない様相で人影はその右腕を、黒い靄を内側から突き破るようにして現した。至極石らしき鉱石に覆われた左腕と異なり、右腕を覆う肌は通常の人間のそれだった。

 やがて、人影はその右手で自分の左腕に、触れる。

 すると、左腕は一瞬にして、金属光沢を粒状に散らした粉塵と化して砕け散って、その全てが宙で渦を掻いて廻って。

『呪具・波紋ノ音』

 消失した左腕と等しい長さを有した杖の形状へと変化して、その右手に収まった。特殊な色彩と金属光沢を纏っているという点を除いては、それは一見して何ら変わらない、ただの杖だった。

「お前...まさか...」

 男の手に握られた刀剣の切っ先は力なく、地面へと向いていた。その表情にはもはや、先程までその身に滾っていたはずの戦意は面影すら残していなかった。


――男はその瞬間に、真っ黒い靄に呑まれた人影の正体を理解した風だった。


 そして人影は、右手に握っていた杖の先端を、地面へと真っすぐに突いた。

(この音...どこかで...)

 杖を突くその音が、その音の広がり終えた後に耳に残る残響が、しきりに何かを訴えているように鹿芝には思えた。

(そうだ。思い出した。馬で、竜の大群から逃げていた時だ。あの音が聞こえたと同時に竜の、身体が...)

 怖気が、鹿芝の肌を走る。


――あの頃の俺には、自我が存在しなかったんです。自我が芽生えるより先に、俺とは別の魂が俺の身体を乗っ取っていたためです。


――俺の仲間だった人たちも、俺自身でさえも、至極石の力を利用した代償を背負いながら生きてきたのですから。ですが、やはりあなたは特別なのでしょう。なのでどうか、そのときはあなたに頼みたい。


 無意識のうちに、ギルの言葉が脳裏を巡った。

 そして、理解した。

「ギル...なのか...?」

 そう声を漏らした鹿芝の視線の先には、前方へと倒れ込んだ男の姿が、広がる血だまりに頬を濡らしながら沈み込む姿が、滑らかな断面を曝して断裂したその首が、転がっていた。

 杖を突いたと同時に、まるで不可視の斬撃によって一刀両断されたが如く、男の首筋は滑らかな切り口で独りでに裂けた。男は、一瞬にして死へと至らしめられた。

 黒ずくめの人影が杖を突いた、その瞬間に。

『鹿芝将鐘』

 人影が、鹿芝の名を呼ぶ。

『お前に何かを言うつもりは無い。ここで、死ぬだけだ』

 鹿芝はその声の主が誰なのかを、知っている。知らないはずがなかった。

「そうか...ずっと俺の、すぐ近くにいたんだ...」


――今になってようやく、気づけた。


 ギルが鹿芝の死を予言したとき、彼はそれが何に、誰によるものなのかを明らかにしようとしなかった。明らかにすることを、避けようとしていた。

「須床さん...」


――ギルは、須床ユウヤが転生を果たしたことで産まれた人間なのだと。


 だから、言葉にすることを頑なに躊躇っていたのだろう。

 自分の手で、あなたは死ぬことになる、ということを。

「相手を、人間だと思うな」

 鹿芝は、自分に命じた。そうする他に、何も無かった。

「自分と同じ人間だと、思うな」

 葛藤を掻き消すように。

「相手を殺すことに大義名分を求めるな」

 思考を上書きするように。

「相手が死ぬことに理由を求めるな」

 迷いを残さないように。

「相手を死なせるためだけに今この瞬間の全てを掛けて、自我を、自分の良識を、自分自身を殺すだけだ」

 鹿芝は、背中から翼を出現させる。

「俺は、お前を殺す。運命がどうであろうと、俺のやることはそれだけだ」

 人影は、一切の反応を見せることなく。

『変異』

 鹿芝が翼を出現させるのに呼応するように、人影の右手に収まっていた金属質の杖が刹那の内に粉塵と化し、再び宙に留まりながら渦を掻いて廻る。

『呪具・千万ノ剣』

 そして、金属光沢を撒き散らす粉塵は右手へと収束し、剣の形状へと変化を遂げて。

『開眼』

 右手に握り締められた剣の先端が鹿芝の方を向くと同時に、空を満たしていた夜明けの色彩は水面に何十種類もの絵具がぶちまけられたように歪み、混沌と化した様相を巻き起こしながら無数の色彩が渦を掻く。

 そして、その中心に一つの小さな穴が覗いた瞬間、その隙間はみるみる引き裂かれて肥大化する。何色と定義することのできない空に空いた空洞から、やがて鮮紅色の瞳孔を宿した白い眼球が蠢きながらその姿を晒した。

 同時に、歪な色彩に染まった空に、薄紫の滲んだ黒色の太い雷鳴が全身の神経系を駆け巡ったかのように刹那に、骨や血脈すらも透過して握り拳が心臓に捻じ込まれたかのような重厚な衝撃と共に、視界の全てを満たして閃いて。


―—無数の色で満ちた空から、数千もの剣が、降り注ぐ。


『俺の言っていることを、理解できるか』

「はい。あなたは、先輩...なんでしょう...?」

 大空を無心に見上げながら、鹿芝は須床に尋ねた。掠れた声で、確認した。

『あのとき、なぜ俺を見殺しにした...?』

「死にたく...なかった...死にたくなかったんですよ俺は!他に何も無かった!それが本音...嘘偽りのない本音だった...」

 怒りでも哀しみでも無い何かが、喉の奥で息を震わせているのを感じる。

「あなたは、何のために俺のところに来たんですか?殺すためですか?復讐のためですか?」

『その通りだ』

 須床は、迷いなく答える。

「俺と...同じですね」

 表情を変えることなく、鹿芝は口を開いて。

「自己満足のためだけに生きている、俺と同じ最低な人間だ。いや、それ以上に醜悪だ。生き物の命を奪うことも、人を殺すことも、全て手段であって目的にするべきことじゃない」

 脳裏に浮かぶ、文化祭での出来事。夜闇に覆われた自販機の青白い灯りが差し込む光景の中で、須床に教わったこと。

「覚えてますか?人は、自分以外の何かには絶対になれないんだって。自分は自分のまま変わらず生きるものだって。あなたが、教えてくれたことです。だけど、あなたは...もはや今のあなたは俺にとっての、俺と同じ文芸同好会の先輩じゃない...ただの化け物だ...俺を殺すためだけに生きている...人間の最底辺ですらない、人以外の何かだ...」

『だからどうした。これが、俺の生きる理由だ。そして、今のこの状態を作ったのは、他ならないお前自身だ。お前が選択を誤った結果だ。それが事実だ。ここで俺がお前を殺す。それだけが現実だ』

 淡々と、須床の言葉が心臓を刺すような感覚を伴って鹿芝の血脈を打っている。

「あなたは、どこまでも...俺と同じだ。誰かのために生きているという勘違いをしならが、いつも誰かのせいにして、生きている。誰かが犯した過ちをずっと許すことができないせいで、それを認められないから自分が生きていることに明確な理由が無いと気が済まなくて。生きることは義務でも権利でもない。俺たちの意思の問題だ。大人になってからも幸せに生きるために俺は、俺たちは...」

 不意に、視界が熱と湿り気に覆われて濁り、全ての物の輪郭が半透明色に朦朧と崩れ落ちる。

「あの場所に、あの学校の教室に、いたんじゃないんですか...」

『全ては過去の話だ。俺の意思は何も、変わらない』


―—そして天高く、一本の剣が掲げられる。


 ごめん、ギル。俺が弱くて、ごめん。


「待って...待って!」


―—少年の腰を抜かしながら発した声が夜明けの空に、果ての無い静寂に木霊こだまする。


 きっと今がお前の言ったそのとき、なんだよな。でも俺にはやっぱ、ギルの頼みを果たすことはできなかった。俺に生きる価値なんてない。だからお前を殺すぐらいなら、それこそ死んだ方がマシだ。ギルには生きててほしい。

 俺にはずっと、生きる理由が無かった。さっき、俺にはもう生き残る可能性が無いことに気付いたとき、俺は持てる手段の全てを尽くして抗おうとはしなかった。なんだか全てがどうでも良く思えたんだ。


「やめて...待って!待ってください!」


―—ただそれだけだ。必死に叫んだところで、誰も助けに来ない。来るわけが無い。


 俺は何のために、この世界に抗っているんだろう。

 幸せの、ためなのかな。自分のことを許して、作り笑いでもいいから笑うために。

 もしかしたら、そうなのかもしれない。もしかしたら最初から、フィアはそんなこととっくに気付いていたのかもしれない。俺は心の奥底で、人並みの幸せというものを望んでいたのかもしれない。


「死ぬなんて、死ぬなんて嫌だ!」


―—少年の首筋へ、冷酷な視線が降り注ぐ。刃を振りかざす位置を、見定めている。


 だからこそ、この運命は俺の身の丈にあった正しい結末だと思う。

 俺に人生を変える機会を与えてくれた、俺にとって大切にするべき人を見殺しにしておきながら、全てを忘れてのうのうと生きて、フィアと一緒に笑い合って、一緒に幸せになりたいだなんて傲慢な願いが叶うはずがない。叶うべきじゃない。

 俺にはフィアの死を嘆く権利なんて最初から無かった。最初からそういう運命だったと言われても納得できる。あれは当然の仕打ちだったと、今なら思える。


「俺を、どうか...」


―—枯れ果てた喉を呼気が激しく行き来しながらも、少年は言葉を紡ぐ。


 目の前で人が痛めつけられているのに、助けようとするどころか、どうしたら自分は安全でいられるかということしか考えていなかった。一宮が白井に暴力を振るわれていた時も、須床先輩が黒竜に喰い殺されそうになっていた時も。


「どうか俺を、逃がしてください...」


―—目尻に走るヒリつくような痛みと、頬をなぞる熱の感覚。


 人として最低限のことすら出来ない俺に、人並みの幸せなんて与えられるはずがない。そんなのは正しい生き方じゃない。


「最後に...最後に会わせて欲しいんだ」


―—顔面を滴り落ちる雫が少年の顎先から粒になって落ち、音も無く砕けた。


 いや、違うな。


「俺はッ!!一宮いちみやに謝らなきゃ...」


―—声が、止まる。


 こんなクソみたいな現実なんて今更な癖に、なに感傷浸ってカッコつけてんだよ。さっき自分で言ってただろ。生きることは義務でも権利でもない。自分の意志で決めることだろって。


―—舌も顎も動かないことやら、自分の荒々しい呼吸音が一瞬にして静寂に還ったことやらで、一斉に思考回路がごった返す。


 人として最低限のことすら出来ない人以下の何かでも、幸せになりたきゃなればいい。別に幸せって言ったって色々ある。人生変えるような大きな幸せばっか望まなきゃいけない訳じゃない。それこそ、さっきの俺だってそうじゃないか。


―—少年の頬が床に寝そべって、赤黒く染まった剣の切っ先が視界へと差し込んだ。


 死にそうになるの別に初めてじゃない癖に、須床さんに殺されそうってなった時にあんなみっともなく喚いたのも、竜を殺せだの一生物の限界まで痛みを与えてナントカみたいな無茶ぶりばっか言われてムカついてたからだろうし。

 そういうストレス発散だって、ある種の小さな幸せになるのかもしれない。色々と最低な考え方だが。あー...もうなんていうか、こうして考えると致命的なぐらい性格腐ってたんだな、俺。もっと早いうちに気づいておけば良かった。


―—それは、初めての感覚だった。


 けど思えば、最期の最期で言いたい放題して、なんかスッキリしたなあ。人間の最底辺ですらない、人以外の何かだ...とか。いくら死に際とはいえ暴言吐き過ぎだろ、俺。


―—痛みもそれ以外の感覚も一切無く、ただ混乱と恐怖に染め上げられていた意識が空白に塗り潰されていく。


 この世界は、最高な世界だと思う。

 血で始まって血で終わるようなこんな血だらけな人生でも、太陽が沈んだその時、それは永遠に遺る小さな星となれるのだから。


―—―—死を、初めて実感した。

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血だらけで永遠の ikeuyu @ikeuyu

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