第53話

 凍り付いたような瞼を持ち上げて、暗闇を破った視界が色彩を帯びて鮮明に煌めいた。鹿芝が見上げた空は、まだ黒の色がわずかに残った明け方の空だった。視線を動かすと、荷物を纏める男の姿があった。

「おーい。そろそろ出発するぞ」

 鹿芝が目を覚ましたのに気づくと、男はそうやって鹿芝に声を掛けてくる。

「あー...あともうちょい...五分だけ...」

 頭に圧し掛かる重みが、まだ目覚めて一分も経たない不鮮明な意識を微睡へと飲み込もうと促してくる。しかし、男はそんな様子にもお構いなしに。

「ここから二時間くらい馬に乗る。そのあとぐっすり寝りゃあいい」

「なんで今なんです?まだ夜が明けてからそんな経ってないのに」

「朝になる前に動かねえと寝起きの竜の眷属共に寝込みを襲われる危険があるんだよ。賊に襲われるのと比べてもよっぽど危ない。分かったらさっさと支度しろ」

「はーい」

 朝が訪れる。そんな予感のする空を見詰めながら、鹿芝は不意に男に尋ねた。

「そういや...少し唐突なんですけど、まだ聞いてませんでしたよね。あなたの名前」

「今更自己紹介とか、それ今話す必要あるか?お互いまだ疲れが取れてねえし、その話の続きは今度でいいだろ。さっさと街に行って、ちゃんとした寝床を確保してからでいい」

「それもそうですね」

 鹿芝はそう言いながら、身を起こした。


 男と鹿芝を乗せた馬が、大地の上を駆け抜けていく。朝の静寂に呑まれた地平が、どこまでも視界の端まで続いている。ロイリア邸は、とっくに地平線の向こうに沈んでいた。

「そういや気になってたんだが、異界人の故郷ってどんなところなんだ?」

「どんなところ...って言っても、自然とか気候とかこことそんなに変わんないですかね。空は青し、土は茶色いし、太陽も月もある。けど違うところも結構あって、文明はかなり発展してて。化石燃料を燃やしたエネルギーで勝手に動く自動車とかが時速三十キロくらいで街中で走ってて、あと遠隔で通信とか色々できるスマホっていう、手のひらサイズのクッソ平たい鉄の塊的なアレを皆が持ち歩いてるのが当たり前になってます」

 他にも色々あるが、代表例と言えばそれくらいだろうか。

「そいつは、俄かに想像できねえ話だな。車が勝手にって、それって馬が押したり引いたりしなくても勝手に走るってことか?」

「まあ、そうですね。でもまあ、車の運転は法律で年齢に制限が掛かってるから俺はやったことないですけど」

 思えば、元の世界に戻れないということは免許を取得して車を運転したり、などといった経験も一度として味わうことはできないということになる。

「竜みたいな異形に襲われた時はどうすんだ?やっぱ剣で戦うのか?それともさっき言った自動車で跳ね飛ばすのか?」

「跳ね飛ばす、って...いや、そもそも竜みたいな異形の生物があっちにはいないですね...日本の、それも田舎の方でいるとしたらせいぜい、猪とか熊くらいかと」

「思ったより、随分と穏やかな世界なんだな」

「思えば、そうなのかもですね」

 もしも、この世界に転移しないまま大人になっていたとしたら、どんな人生を過ごすことになるのだろう。想像もできない話だと思う。

「でも...思えば、この世界に来てからちょうど一週間か。ミリシアさんとの約束云々うんぬんの時の記憶を除いたらの話だけど」

 不意に、三つ目の約束という言葉が脳裏を過る。この世界で生活をすること。過去を改竄し、世界の歴史を変えること。既に二つの約束をしていたが、三つ目が何だったのか、上手く思い出せないままだった。

「お前は、前の世界に戻りたいって思うか?」

 少し沈黙が流れてから、男がそう切り出した。

「どうだろう...異界人としての待遇が良かったからっていうのは勿論あると思うけど、別にこのままでもいいかなって、思います。この世界で、自由に生きてみるのもそんなに悪くないなって...」

 正直な感想のつもりだった。

「例え、その先に凄惨な死が待ち受けているのだとしてもか?」

 けれどその問いを聞いて、少し自信を無くしたような気もする。

「もしそうなら、そりゃあ嫌ですけど...」

 自分の本音がどこにあるのかなんてきっと、他人は愚か自分ですらも、良く分からない。

「でも、やっぱそれでも俺は、この世界で生きる道を選びたい。幸せになることだけは、諦めないと誓ったから」

 ただ、今はもはやそう断言するしかないのだろう。

「そうかよ。なら...良かった」

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