第52話

 空中に湧き上がる、鼻を刺すような熱の籠った香り。粒状に溶けて舞い上がる血液の色が、空気の中へと霧のように朦朧と混ざり込んでティークの視界を徘徊している。

「私は、何をしているんだろう」

 ティークの背後に佇んでいた三本首の竜の肢体は、自らの血にその全身を濡らして、沈み込んでいた。四肢や首などの器官は全てが断裂し、無造作な骨身ごと滑らかな断面を晒している。

「私はこの日が訪れるまで、何をやり残せたんだろう」

 ティークが身に纏う鎧は斬撃を受けて腹部に深く亀裂が走り、ところどころがその衝撃によって欠け落ちている半壊状態だった。黄金色の光沢は、鮮紅色の血液に上塗りされていた。頭部に覆い被さっていた兜に至ってはもはや原型はなく、彼女の長い髪の隙間に挟まって金属片としか、その姿は残されていなかった。


―—ティークは、思う。


 あの人は、ペイン・ロイリアは、人を大切にできる人間だった。

 あの人は、人の痛みを理解することができる人間だった。

 あの人は、不器用で純粋な心で人を愛することができる人間だった。

 そのせいであの人は、狂ってしまった。

 あの人は、大切なものを失った。あの人は、それを受け入れることができることができなかった。私一人の力では、その代わりになることはできなかった。あの人が大切にしていた存在と私とでは役割が違うのだから、当然だろう。それでもあの頃の私は、幼いながらも必死にあの人の気を引こうと努力していた。けれどその努力の全てが、結局のところ無意味だった。私は、あの人に愛される存在には、どう頑張ってもなれなかった。

 やがて、私は決心をした。あの人を狂わせた、あの人の愛を受け入れるには不十分な存在であった男を、あの人が愛していたこの世界で唯一の人間をこの手で、殺めることを誓った。


―—ティークは見上げて、悟る。ギルの握り締める刃によって、両手の黒い布手袋を外した彼の手によって、首を刎ね飛ばされる寸前であるということを。


 けれど、そんな人生を歩むことを、この世界は受け入れてはくれなかった。きっと私が内に秘めていた願望や、私が日頃から鍛え上げた剣をこの手に握る理由なども、とっくに最初から見透かされていたのだろう。

 私が人生の全てを賭けた復讐劇を容赦なく叩き潰すのも、ティーク・ロイリアという一人の人間の死も、この世界の裏で糸を引く時空の管理者、この世界の意思そのものであるの存在にとっては調整作業の一環でしかない。私は、私たちは所詮、この世界で唯一、至極石の紡ぐ破滅の糸に適合し得る異界人という名の暴力装置を最大限の効率で運用するための歯車でしかない。

 最初から、分かっていたはずなのに。


―—静かに瞼を閉ざして、ティークはか細く、声を漏らした。


「ごめんね」

 私の家族は、もう元通りにはできないほどに、愛に壊れていたことだなんて。


「ギルとティークの戦いは、どうなったんでしょうか...」

「そりゃどう考えてもギルが勝つさ。いや、勝つっていうか、相手が負けを認めていようがいまいがあいつは必ず、相手を殺す。何がどうなってもそれだけは変わらん」

「何がどうなっても...ですか...」

「ああ、そうだ。ちなみにあいつは殺し屋として、命令に背いたことがないらしい。例え殺す相手が自分の知人やその家族であろうと、何度だってその手を血で汚してみせた。いくらこの世界に無知だからって、流石に一週間も経てば耳に入ることくらいあるだろ、あいつの異名」

 鹿芝の脳裏に、ギルの話した言葉の内容が過る。

「無垢の殺戮者。この世界に蔓延るどんな化け物よりも、あの黒い手袋を外したときのあいつが一番、恐ろしいよ。でも確か、あれでもまだ全然、全盛期の頃ほど本気じゃねえっつってたから、もし手袋無しのあいつに本気出されたら本当にもう、きっと成す術が無い」

「そ、そんなに...」

 木陰に腰を下ろしながら、鹿芝は男と対話していた。馬を走らせすぎて体力を消耗させてしまったらしく、ここで休息を取るためだ。綱を引いて、樹木の幹へと括りつけながら男は鹿芝へと視線を向けて談笑をしていた。

「ギルとは、どこで知り合ったんですか?」

「古巣が同じだったんだよ」

「え?...じゃあ、あなたも昔はギルと同じ殺し屋だったってこと...」

「まあそうだが、もう随分前の話だ。でも今思えば後悔したよ。想像していたよりずっときな臭かった。命のやり取りってのは、本当にもううんざりだ。思えばあいつとは、生まれ故郷が近かったな。集落は違ったが、俺もあいつもこことは遠くの、霧に覆われた土地で暮らしていた。だからまあ、そんなに接点は無かったが、ある日話す機会が出来てな。それが何だったかは忘れたが。でもあのとき、思いのほかあいつは繊細で純粋で、人に優しくするつもりは無い癖して性根が穏やかなのが損した性格の器用貧乏なんだって気づき始めて、そのうち、会ったとき自然と話す仲になった。思えばあの頃のあいつとお前って、どこか似ているようにも思えるな。他人を、恐れているような眼をしていた」

 馬をその場に留め終えて、男は鹿芝の隣へと腰を下ろして話を続けようとしているところ、鹿芝は不意に男の片手が目に入った。包帯で覆われた、手首から先の無い片手。

「その手...」

 男は鹿芝の視線に気づいてから、鼻から溜息を漏らして。

「ああ。なんか懐かしいな。思い出すよ、お前と出会った日のことを」

「大丈夫、ですか?」

「まあ、痛みはもうとっくに消えたよ。石を渡すことを渋ってたら、俺の手首ごと切り落とされて、ぶんどられた。最初は楽し気に俺のことを脅してきたが、急に詰まらなそうな顔になって脅しを止めた。俺の反応を見るに気づいたんだろう。俺は人の死ぬ様に見飽きた、人の血の臭いに慣れて感覚が麻痺して、それに嫌気が差した人間だって。あの男は、人に恐怖を味わわせることに快感を覚える野郎だった」

 鹿芝の脳裏に襲撃者の姿が浮かぶ。終始笑いながら、鹿芝へと刃の太いサーベルを振るってきた、狂気に満ちた男。けれどその死にざまは、酷く虚しく見えた。

「でもそれくらい何かに狂わなきゃ、この世界のどっかにいるであろう神様はたった一人の人間ごときにわざわざ何か、特別な力を与えてはくれないんだろう。自分の全てを投げ出してもいいと思える何かが、俺には無い。まあ、そういう状態が言わゆる、人並みの幸せ、満ち足りた人生と呼べるのかもしれねえが」

 自分の全てを投げ出してもいいと思える、何か。反射的に思い当たるものは、鹿芝にはない。だが、鹿芝はもう、ありとあらゆる本能を押し留めていた枷を捨て去っている。理性を捨てて、相手を殺す術を行使することに抵抗感を失っている。

 既に、人としてとっくに歪な存在なのだ。

「なんていうか、ありふれた台詞だけどな。何かに固執し続けて、果てもなく歪になり果てて、そこまでして成し遂げる価値のあるものがこの世界にあるとは俺にはとても思えない。最後にはきっと後悔する。例え、その目標を、その人生の生き甲斐としていたことを成し遂げたのだとしても」

 きっと、男の脳裏に浮かんでいるのはギルの姿だろう。同郷、ではないらしいが同じ境遇を経験したという彼ならではの、思い当たるギルの苦悩があるのだろう。

「かつては目の前に広がっていた無数の選択肢を、やり直せる可能性を、自分一人の与えられた時間の全てを失ったときになって、取り返しがつかなくなって人は初めてようやく気付くんだ。何のための人生なのか。何のための命なのか。こんなもののために、自分は必死になって今までの長い年月生きてきたのか、ってな」

 鹿芝は黙って俯いたのち、やけに重たく感じる口を開いた。

「残酷な話ですね」

「ああ、どうしようもなく残酷で、考えてみれば至極当然の話だ。時に自分の損得勘定に身を任せて、時に人の顔色伺ったりして普通に生きてりゃ、不必要な苦しみを抱え込む必要なんてねえのに」

 鹿芝の瞼の裏、瞬きの瞬間に閉ざした真っ黒い視界に、刹那、浮かび上がるペインの血に染まった笑顔。あれだけ傷つけあってもなお、彼女は幸せそうに笑っていた。苦しみを、忘れていた。

 不意に、思い出す。ペインが鹿芝の部屋の中で語った、愛。


―—人の愛は、理不尽そのものだ。人を愛するということは、その人以外の人間が持つ意思や考えを蔑ろにすることと同じだから。何かを愛している間は、愛することに心の全てを委ねている間は、人の抱いた心の痛みが理解できなくなる。誰かを傷つけたことなんて気にならなくなってしまう。


「でもいつの時代になっても、何かに固執しなければ生きていけない人は少なからずいると思います。そこまでしても、自分の人生の全てを使い果たしてでも何かを愛したいと思うのが、人間だから」

「まあ...確かにその通りだな。そういう人生も、悪くはないのかもしれない。それに、どんな人生にも救いはある。それが何なのかは人それぞれだとは思うが。だけどまあ結局、例えどれだけ取り返しのつかない人生を歩んだのだとしても、自分を守るためにできるのはせいぜい、自分のやってきたことは間違いじゃないと思える証明をすること、くらいだな。けどやっぱ、俺は御免だな。食って寝ての繰り返しだけでも、この世界で暮らす生き物として十分な一生だ」

 風が吹いて、眼下の雑草が擦れる音が重なって、静寂の中に雑音が入り乱れる。

「自分のやってきたことは間違いじゃないと思える、証明...」

 そう言葉を零して、遠くの空を仰ぎ見た。普段と変わらない、夕陽に染まった空の色だった。美しかった。ずっと、それを見ていたいと思った。だけど少しずつ、全身を暗がりに満ちた膜で包むような倦怠感が、鹿芝を眠りへといざない、やがてその色彩は跡形もなく消失した。

―—次、目を覚ました時、その身に最期が訪れることなど、知る由もなく。

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