第50話

「マサカネ様!」

 見ると、ギルが刀を横に構えて飛び掛かってくる飛竜の牙を防ぎつつ上体をこちらへと振り返らせながら、叫ぶ。

 その瞬間、気づく。身体の奥深くへと沈むように、視界の端からひしひしと感じ取れる、死の予感。生き延びるためにあなただけでも逃げろという、ギルの強固な眼差しに込められた意志。

「走って!」

 反射的にその場を飛び退いて、そのままギルの立つ場所とは反対の方向へと駆け抜けた。

 同時に、三本首の竜のそれぞれの口腔から、それぞれの首の太さの倍程度に及ぶ太さの直線状に伸びる、青い焔にその輪郭を満たした熾烈な息吹が竜の眼前を丸ごと焼き払い、その灼熱の中へと鹿芝の肉体が飲み干される寸前であった。


―—そして竜の息吹が四体の飛竜と、それらが噛みつかんと襲い掛かっていたギルをも巻き込んで、地面へと降り注いで。


 そのまま、鹿芝の背後にあった地面は青い焔に包まれた。あらゆるものの輪郭が、熱に朽ちて溶け消えていく。地盤が崩れ落ちるような震動が重く低く響いて、瞬時に全方位を駆け抜ける青色の閃光ばかりが視覚を塗り潰して、鹿芝は地盤に迸る衝動に立つこともできずに前方へ倒れ込んで、やがて呆然とした。

「なんだ...これ...」

 残ったのは焼け焦げた土の色と、黒焦げて塵となったかつて生物だったものの臭い。立ち上がりながら、それを認識する。

「ギル!」

 見れば、あと寸でのところだった。

 ギルの足元には、飛竜のものと思われる血だまりが蒸気を噴き上げながら緩やかに広がっている。すぐ近くに転がる飛竜一体の死体を除き、切り伏せた残骸全てが焔に呑まれて跡形もなく塵と化したようだ。青い焔に全身が呑まれるその直前に『伸縮刀・円』にて周囲の空間を飛竜四匹ごと即座に薙ぎ払い、竜の息吹の軌道から飛び退いていたようだった。

「マサカネ様!立ち止まってはいけません!あの竜は...」

 そこまでを口にして、ギルは言葉を止めた。視線の奥で湧き上がった砂埃に腕を覆い、低く唸る大地の震動を踏ん張った両脚で堪えながら。

 鹿芝が反射的に閉ざした瞼を上げると、三本首の竜がそこにはいた。真正面から立ち塞がっていた。三つの長い首が、視界の上辺すらも突き抜けて天井に浮かぶ輝かしい空色と重なって、その強大さを誇張しているように見えた。

 そして彼の目を引いたのは、真ん中の首の上に立つ全身に黄金色の鎧を纏う騎士らしき人の姿。さながら紙面上でしか伺えないようなファンタジーな物語の世界に出てくる、その中でも王道デザインの騎士様だ。遠目では分からなかったが、その兜の後ろ側からは真っすぐな毛並みの金色の長髪が滑らかな光沢を晒して、風に身を任せてカーテンのようにゆらりゆらりと揺れている。

「こうして話すのは一昨日いっさくじつ以来、でしょうか。久しぶりですね」

 けれど、その鎧の内側から漏れた、わずかにくぐもったその声音が、鎧の中身にいる者の正体を理解させる。

「ティーク...さん...」

 鹿芝は名を呼ぶだけで、名を呼んだそれきりで、絶句した。

 全く以て、驚きの連続だ。ペインがフィアを殺めて、ギルはペインを狙う殺し屋で、そして今度はティーク。ただでさえ、ペインとの戦闘による翼の修復機能を乱用したことによる後遺症が、鈍い痛みを頭蓋の奥で発しているというのに。

 重く閉ざされた唇を静かに開いて、乾いた口腔を過ぎ去る呼気が更に口の中から水分を奪って。それでも、言葉を紡いで。

「なんで...なんで、俺たちを殺そうと...」

「いえ、あなただけを殺すつもりですよ」

 だけど、端的なその言葉に、呆気なく言葉を失う。

「は?」

 反射的に、そんな返事が漏れてしまう。

「どうして俺を...殺すんですか...?」

「それを知ってどうするんですか。あなたはこれから死ぬんですよ?むしろ私は先に、あなたに聞きたいことがあります」

 そのとき、ティークは竜の頭上から飛び降りて、鹿芝の目の前へと金属の擦れる音を黄金色の鎧から鳴らしながら降り立った。そして、重厚な黄金色の鎧を全身に纏うティークのくぐもった声が、鹿芝に尋ねる。

「あなたはこの人生でやり残したことはありますか?」

「やり残した...こと...?」

「はい。やり残したこと。あなたがこれからの人生でしたかったこと。ただ、変な期待だけはしないでください。私はここであなたが何と言おうとあなたの手助けをするつもりはないし、もはや今のあなたは、私がそんなことをわざわざしなければならない立場ではない」

 ティークの、兜の奥からひしひしと伝わる冷徹な眼差しと、鹿芝は対峙する。今までティークからは向けられたことのない、冷たい温度の視線。

「あなたの死後に、こうなったらいいなという願望を聞き届ける。それだけです。親孝行ですか?兄弟の生きる支えになること?あるいは子供...家族を守りたいだとか、そういったことでしょうか?それか、命乞いでもなさいますか?時間はいくらでもあるわけですし、構いませんよ?結果は何も変わらないことですし」

 視線が、ティークの被る兜すらも上手く捉えられない。

「どうして...ティークさん、どうして...」

 どこに視線を向ければいいのか、よくわからなくて。

「早く、答えてください」

 そう問い詰められる。一歩、片足を前に出してこちらへと迫りながら。

「もしかして...もしかして俺が、ペイン・ロイリアを殺したから?」

 彼女の一挙手一投足が視界の隅を掠めるだけでも心臓の鼓動が速まるのを、ただ感じる。

「あの人を殺したのはギルさんでしょう?あなたには関係がない。私にとってそんなことは、どうでもいい」

「え?」

 躊躇ためらいながら発した言葉のその返答が、どうでもいいという淡々とした文言。余りに不可解で、理解が追いつかなくて。

「いや...そんなわけが...」

「私は、ずっと操られていた」

 鹿芝の台詞を遮断して、ティークは言葉を紡ぐ。呻くような吐息を時折、鎧の奥で漏らしながら。

「私は騎士だった。竜を始めとする異形の生物によってありとあらゆる摂理を歪められたこの世界を正すための騎士のはずだった。なのにあろうことか、私はペインの暗示によって自分が騎士であることを忘れ、この屋敷の同居人として振舞うことを強制させられた」

 腰に下げた騎士剣を、装飾の施された騎士剣の入った鞘ごと抜いて、ティークは自らの意志を自分に問うように声を発した。

「私は...私はこの騎士剣に、自分の与えられた役割を果たすことすらできない怠惰で醜い人間を、自分の立場すら弁えずのうのうと...鹿芝将鐘、あなたのように...思わず嬲り殺してしまいそうな被害者面を下げた、哀れで愚かで憎たらしい人間をこの手で裁くと、誓いを立てた騎士のはずなのに」

「え...」

 まるで、話が飲み込めない。ティークの苦悩に呻く声ばかりが鼓膜を揺らしていて、状況を上手く把握できない。


―—ティークは、ペインに操られていた?


 鹿芝は、ティークに尋ねた。

「騎士、って...?」

「私は...竜王の騎士剣を、アマテラスの名を与えられた騎士剣の担い手です」

 繰り返し、問い続ける。

「操られていた、って...どうして...?」

「私はあの屋敷の、ロイリア邸の玄関扉より先に足を踏み入れていたところから既に、記憶が無い。あの時点でもう暗示の術中に落ちていた。私自身がなぜ操られていたかなど、暗示を掛けられた当人である私が知っているはずがないでしょう」

「いや、だって...あなたは...」

 鹿芝は混乱した頭で、もつれた滑舌で、そう言葉を発して。

「ペイン・ロイリアの妹なのに...」

 そこまで告げて、その場を静寂が支配した。風が地表をさらって、砂の粒が薄く撒かれて、そんな様子ばかりが辺りを埋め尽くす。

「やっぱりあなたって、とても面白い人ですね」

 ティークの眼差しが、鎧兜の奥から覗くその瞳が真っすぐ、鹿芝を見据える。

「最初から私に、姉はいない」

「え...じゃあ...」

―—このとき、ティークの眼差しは、

「なんでティークの家名は、ペインと同じ...」

―—相手を人間だと思うような目ではなかった。

 人以外の、人ではない何かを見る眼差しで、瞳の奥に殺意を宿していた。

「お前に...」

 その、端的に零れ落ちたティークの声音を認識したとき、鹿芝は状況を上手く理解できずにいた。

 視界には、ギルがいた。伸縮刀の刃を斜めに構えて、必死に腕の筋繊維を張って何か...衝撃を堪えている。そして彼と対峙しているのは、ティーク。

 見れば、ギルは鹿芝へと降り注ぐはずの騎士剣の軌道を、伸縮刀で受け止めて遮り、攻撃を防いでいたのだ。ようやくその状況を理解したとき、鹿芝の視線はティークのそれと重なった。肌の上を、悪寒が走るのを感じていた。

「誰にでもできて当然の常識を、与えられた役割を、人として最低限の義務すらも放棄した...見捨てたお前に...私にそんなことを問う資格など無い!」

 憎悪と、何か別の感情に震えた声だった。息が荒く、歯を細々と打ち鳴らしながら激しい感情に身を任せて発された、声だった。

 刹那、ギルとティーク、双方の鍔迫り合いが弾かれ合って終わりを告げた。刃の衝突した反動で互いの間合いが開いて、しかしティークの眼差しが注がれているのはギルではなく、その背後にいる鹿芝へ向けられている。

「お前が何も覚えていないというのなら、教えてやる。私が磨いた剣で、お前のはらわたに刻み付けてやる...!」

 そうはっきりと声を発して、ティークは踏み込んだ右足の爪先に全身の重心を掛けて、鹿芝目掛け刃を振りかざしながら地上を一直線に駆ける。

「マサカネ様!逃げてください!」

 だが突如仕掛けられた猛攻をもギルの刃は淡々と受け止め、そして背後の鹿芝へと叫んだ。

「ギル...」

 鹿芝は反応に後れを見せたが、すぐさま護衛の冒険者が向かってくると聞いた南西の方角へと走り出した。

「逃げるな...」

 ティークの声が、低く籠った声量が、地盤の奥で唸るような赤く熱気を帯びたような怒気を孕ませて。

「逃げるな...逃げるなぁあああ!!」

 鮮明な殺意を宿して、声帯を引き裂くような怒鳴り声を放ちながら鹿芝を真っすぐ睨みつけた瞬間、騎士剣の刃に刻まれた紋章から陽光の如く鋭い光、瞳孔を刺し貫くような眩しい閃光が放射状に解き放たれる。

 その瞬間、ギルの体躯は不可視の衝撃に吹き飛ばされて宙を舞っていた。近くの草原に生える木々を超えるほどの高度まで、弾き飛ばされていた。その光景を、振り向きざまに鹿芝は目にしていた。遠目から見て、然程の出血は見られないため命に別状は無さそうだ。安堵の溜息を漏らした、そのとき。

「鹿芝将鐘」

 そう名を呼ぶ声が、地面へと重力に引っ張られて落下したギルの姿を映す視界とは反対から、鹿芝が振り向いていた方向の背後から聞こえた。

「ティーク、さん...」

 その黄金色の鎧が視界の端に映ったと同時に、左腕の感覚が消えた。意識を焼き尽くすような熱い痛みばかりが、消失した左腕のあった場所から広がって、膨れ上がって。

「ああああああああ!!」

 視線が地面を向いて気づく。腕だ。左腕だ。切り落とされた、左腕だ。血が広がっている。身体の一部だった箇所が、血だまりの中へと沈んでいく。その光景を凝視しながら反射的に無くなった左腕のあった場所を、血液の溢れ出る肩の断面を右手で抑え込んで、息を嚙み殺して痛みを軽減しようと必死に試みる。

「お前には、私の言っていることが分からないのか...お前が踏みにじった私を...私の境遇を...想像することすらもできないのかぁっ!」

 その震えながら発されたティークの声音が降り注ぐ。

 そして、理解する。

「相手を、人間だと思うな...」

 鹿芝は、その言葉を呟いて己に念じる。

 ティークは敵だ。殺す相手だ。殺す相手はそう、人だと思うべきじゃない。善意や、増してや同情するような心持ちなど一切捨て去るべきだ。例えそれが、自分のことを理解してくれた、善人だと思っていた人であっても。

「殺す...だけだ...!」

 背中から、赤黒い両翼が一瞬にして生え伸びて、その内側から宙を直線状の軌道に沿って転がる斧を一つ、渾身の威力を伴ったそれを放出する。

 だが―—

「それがお前の答えか」

 ティークは斧を、掴み取っていた。

 人体の腕くらいなら容易く吹き飛ばせるであろう威力を有しているはずの斧を、ティークは柄を握り締めて、その勢いを殺していた。異次元の芸当だった。驚愕した。思わず、攻撃の手を止めてしまうほどに。

「そうか...よく分かった」

 そう呟いたティークの声音は、鹿芝の背後から聞こえた。同時に、右腕に走る激痛を認識する。ティークの握り締める斧が後ろから右腕の血肉を抉り取って、それが飛散して地面へとばら撒かれていた。

 それが余りにも早すぎて、鹿芝は動けなかった。声も発せず、ただひたすらに痛みに悶えて、失った両腕のあった場所から血を噴き出しながら立ち尽くしていた。

「私は、期待していた。お前は覚えているかもしれないと思った。けれど現実は残酷だ。罪人は罪を自覚し、刑罰を以てそれを償うことで初めて許される。だがお前は何一つ、自分の罪を自覚することすら、自分の行動によって成り立っているこの現実を認識することすらできていない」

 そう告げ終えるとともに、鹿芝は足場を失ったかのように膝から崩れ落ちた。そのまま、前のめりに倒れ込んだ。下を向いた視界を、白骨が埋め尽くした。

(あれ、立てない...)

 両足の膝から下が、横に薙いだティークの一閃によって切断されていた。それを理解すると同時に、追い打ちを掛けるようにティークは剣の柄を両手で強く、握り締めて。

「何一つ、分かっていない」

 鋼鉄の刃が鹿芝の背中へと押し込まれて真ん中から貫通し、勢いを保ったまま腹の奥まで貫き通した。骨すらも砕いて、太い騎士剣の鋼の感触が肢体の内側を抉っていく。口腔の中を、喉から湧き上がる血液が這いずり回って、やがて満たされたそれを力なく吐き出す。

「マサカネ様!」


―—ギルの声が朦朧と遠退いて、意識の奥深くで掻き消える。

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