第48話 第五章・code talker

―—瞼の裏側に占有された真っ黒い視界が血の巡る色を帯びた、そのとき。

「マサカネ様、意識はありますか」

 聞き慣れた声が、鼓膜を震わせた。

「意識があるなら手を挙げてください」

 それは、ギルの声音だった。

「あー、はいはい...意識ありますよー...ここどこ...?頭痛いな...えっぐいレベルでくらくらする...全身修復しまくったからな...後遺症っぽいなこれ...」

 瞼を開くと、上空では陽が照っていた。青い空が一面に広がっていて、眼下には誰のものかも分からない白骨で満たされた地面がある。痛みに眉間が脈打ち、全身が痙攣しているような感覚に満たされたまま、鹿芝は地面を這いずっていた。

「え...?」

 身体を半分起こして、視線のみをギルの方へと向ける。黒い手袋を両手にはめる彼の姿はいつもと同じく無機質な様子で、足元に広がる少女の姿をした死体に目をやるのみだ。

「殺しました」

「殺した...って」

 鹿芝は絶句するしかなかった。他にどうしようもない。

「俺の任務は、キタオス・ドラ第一階調律師ペイン・ロイリアの抹殺です。まあ、これは任務というよりは依頼に近しいかもしれませんが。俺の本職はもう殺し屋ではありませんし」

 ギルはそう淡々と言葉を続けるが、鹿芝はそれを遮って。

「いや、でもお前...お嬢様のいる屋敷に帰るって、一昨日おとといに馬車でここを出たはず...」

「いえ、実際に屋敷に戻るためにロイリア邸を出るのはあの日から一週間後の予定でした」

「え?」

 呆気に取られた表情を浮かべて、ギルの瞳を見上げる。

「ペイン・ロイリアに虚偽の報告をしたのは、マサカネ様を運ぶ帝国行きの馬車が到着するより先にこのような形で襲撃を受けた際などに、マサカネ様を安全な場所まで送り届けてくれる護衛を雇うためです。少し、予定は狂いましたが」

「護衛、って...?」

「知り合いの冒険者です。つい最近まで殺しを生業としていた俺からの依頼にどうせ物騒な内容なんだろと承諾を渋っていた様相でしたが、マサカネ様についての情報を話した途端、気が変わったとのことです」

 ギルは、屋敷の敷地外にある麓に広がる平原の向こう側を指さして。

「あちらの、南西方面から馬で迎えに来るはずですので、体力が回復したら向かいましょう。この屋敷まで来るように伝えてありますから、もうすぐで合流できるかもしれません」

「どうして、わざわざ...」

「周りを見てください」

 唐突にそう言われ、鹿芝はそれとなく辺りを見回してみる。有象無象の白骨で埋め尽くされた地面。異常以外の何物でもない光景であることに違いはないが、もうすっかり感覚が麻痺しているせいか、違和感も碌に感じられなくなってきている。

「あなたはもう少しで、これらの骨の一部になるかもしれなかった」

「でも、ペインはもう死んで...」

「おそらく、ペイン・ロイリアを始末したところで状況は変わりません。あなたの命を狙う人間は、この世界に数え切れないほどにいる。それこそ、殺し屋として生計を立てていた頃の俺にとっての古巣にだって、あなたを始末するべく動いている人間は数多くいるでしょう」

 遠くの空。縦横無尽に浮かぶ真っ白い雲が隊列を成すように並んで、ゆっくりと流れていく様を、ギルは見上げながら。

「古巣、ってことは今は違うのか。じゃあギルは、誰に命令されたの?ペインを殺せ、って」

 そう尋ねられると、途端、ギルは何も言わず視線を落としてからしばらく。

「それは、教えられません」

「まっ、そうだよな。守秘義務ってやつ?やっぱ暗殺者かっこいいわ...じゃねえ!そもそもお前殺し屋だったの!?え!?いつから!?俺知らなかったんですけど!」

 確かに怪しい節はあった。そもそも、いくらペインの邸宅で世話係を務めている有能な人間だからって、投げナイフで鹿芝の人体(とはもはや言えないのかもしれないが)の脳味噌部分を貫通させるほどの怪力を有している時点で、色々と妙に思える点はあった。

 まあ、それら全てが『このままではあなたは死ぬ』の言葉のインパクトで打ち消されてしまったので結果的に気にならなかった訳だが。

「いつから...ですか」

 ギルは言葉として口から発しているのを渋っているのか、視線を泳がせている。それを見かねて鹿芝が話を逸らそうと口を開くが、そのとき。

「自我を持ったその瞬間から、俺は殺し屋でした。いえ、あれはもはや、殺人鬼と言った方が正しい」

「え...?それってどういう...」

「無垢の殺戮者と、あの頃の俺はそう呼ばれていました。あの頃の俺には、自我が存在しなかったんです。自我が芽生えるより先に、俺とは別の魂が俺の身体を乗っ取っていたためです。あの頃の俺は、生まれながらにして自分の何倍もの背丈を誇る大男を片手で何十人、ゆうに張り倒すほどの力を持っていたそうです。加減を誤れば、容易に人の頭蓋骨すらも叩き割ってしまうほどの、危なっかしい力です。今は、どうにか抑えつけていますが...」

 そこまで呟いてギルは、黒一色の厚みある革製の手袋に覆われた自分の手のひらに視線を落として。

「集落では、俺は何度も殺されかけました。その度に、俺はその死を受け入れようとした。人を殺した罪を背負っているのだから、これは与えられて当然の罰なのだと。だけど、俺の身体は俺の意思など意に介することなく、俺を殺そうとした人間を残さず、殺し尽くした。俺がかつての古巣に引き取られたのは、確か七、八歳の頃だったように思います。そんな暮らしが、俺が今思い出せる幼少期の記憶です」

「そんなことが...」

 一見すれば冗談に聞こえるような話だ。こんな話を日本にいた頃に聞かされたなら、信じることなど有り得なかっただろう。それどころか、むしろ作り話にしては傑作だなんて思うかもしれない。

 しかし、ギルの俯いた眼差しを、今目の前で広がる異質なこの光景を前にして、たった今聞かされたギルの生い立ちを疑う余地など無かった。信じる他に無かった。

 そのとき、鹿芝はふと―—

「ていうかさ、ギルはいつから気づいてたの?ここに植えられていたラベンダーは最初から偽物だったって」

「ラベンダー?」

 ギルは俯いていた顔を上げ、こちらに視線を向けた。怪訝そうな表情だった。

「あなたは、何を言っているんですか?」

「...は?」

 鹿芝の額に、汗が浮かぶ。

「ラベンダー...と言いますと、ペイン・ロイリアが観賞用に自室のバルコニーで育てていたもの、のことでしょうか?」

 理由が分からないまま、悪寒が背筋を音もなくなぞって、骨の奥まで通り抜けていく。

「いや、ここの地面に...あっただろ?」

「いえ、そんなものは...」

 ふと、思う。自分は、全く見当違いの事を口走っていたんじゃないか、と。

「でもフィアだって、それにティークさんも...」

「ティーク...?」

 その瞬間、ギルは大きく瞳を見開いていた。初めてギルの驚愕という感情をはっきりと、垣間見た瞬間だった。

「ティーク・ロイリアと、マサカネ様は遭遇したのですか...?」

「そうだけど。ペインの妹だって...」

 ギルは俯いた。顔を手で覆いながら。

「なぜ...」

「え?なんか、まずかったの?」

「それは俺には、判断できない話です。ただ、彼女はあなたが思い出すべき人間じゃ...いえ、俺が口を出すべき話ではないのかもしれません」

 ギルは静かに、顔を覆っていた手を離した。普段通りの表情を浮かべながら。

「いや...誤魔化すなよ。ティークさんは、何か...俺に関係がある人って、ことなのか?」

「ところで」

 ギルが真顔のまま、視線を向けてくる。

「マサカネ様、至極石を使いましたね?それも、力の全てを」

「え?あ、うん...そう、かも...」

 バツが悪そうに目を反らすと、ギルは小さく溜息を吐いて。

「どうやら本当に、正しかったらしい」

 酷く安心したような表情で、鹿芝へと向き直った。

「え?」

「異界人は、至極石の使用に伴って通常の人間なら生じるはずの精神の汚染及び身体しんたいの浸食を免れるという話を先生から聞かされて、俄かには信じ難かった。俺の仲間だった人たちも、俺自身でさえも、至極石の力を利用した代償を背負いながら生きてきたのですから。ですが、やはりあなたは特別なのでしょう。なのでどうか、そのときはあなたに頼みたい」

 鹿芝は、咄嗟に聞き返そうとした。しかし、その瞬間。

「そのとき、って?」

「それは—―」

 ギルの返答を遮ったのは、人間とは異なる生物の、奇声。

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