第47話

 視界が色を帯びて真っ黒い意識の裏側を砕くように、急激に湧き上がる未曽有の力が身体中を呑み込んで支配していく。


―—至極石から放たれていた光の筋が螺旋状に鹿芝の全身を呑んで、薄れて、やがて消えて。


 体積の大半を失っていた、鹿芝の背から生え伸びる赤黒い両翼は修復され、完全にその姿を蘇らせていた。致命傷を受けては修復による回復を繰り返し、搔き乱されていた自意識や思考回路も、今や穏やかさを感じるまでに整っているように思える。

「俺は一体、何が怖かったんだろう。何に怯えていたんだろう。顔も知らない誰かから向けられる悪意か?その矛先が自分に向かうのが怖いのか?」

 鹿芝はそのまま、大きく息を吸い込んだ。肺から得た酸素が脳に直接響くような、活力が漲っているような、そんな感覚が全身を走っている。

「違う」


―—脳裏に焼き付いた、馬車の中でフィアの浮かべた精一杯の笑顔。


「大切な人が、俺にとって大切な人が、俺の知らない場所で死んだこと」


―—瞼の裏に蘇る、鹿芝に対する怨念に満ちた須床の、code talkerの断末魔。


「俺にとって大切な人が、俺が生きるためだけに命を落としたということ」

 直後、空間を張り裂くようなノイズの音が、地下を反響する。


―—あのとき、協同学習屋の空間を震わせた、ノートpcのスピーカーから放たれた音と同質のもの。


「そんな現実を、俺一人じゃどうしようもないこの現実を、弱肉強食の言いなりになる現実を、自分のために生きることしかできない現実を、諦めたかった。諦めたかったんだ。諦める理由が欲しかったんだ。だけどそれを見出せなくて、ずっと、ずっとずっとずっと中途半端に生きてきた。選択を誤った自分自身を許せなくて、そんな風に悩んで苦しんだところで自分を慰めてくれる訳でもない身の回りが、興味関心すらも向けてくれない世間や社会が憎くて、そんな世界が受け入れられなくて。でもまだ、よく考えたらまだ俺にはやり残したことがあるって、思い出したんだ」

 それと同時に、鹿芝の全身へと機械音声染みた異質な音と、正常な色覚が保てなくなるほどに無数の色彩が、混沌と入り乱れた瘴気が辺りの空間情報全てを塗り潰さんと纏わりつく。

 その肢体から放たれる存在感は、触れたもの全てを無情なる最期へと至らしめる腐食の権化であることを示していた。

「そうだ。俺はお前を―—」

 視線の先に映るのは、ペイン・ロイリア。


―—フィアを殺した人間。


「殺す」

 その刹那、頭の中を無数の記憶が、誰のものかも分からない何十人もの誰かの記憶が走馬灯みたく駆け巡った。


―—カーテンの隙間から朝日の差した、自室のベッドの上。

―—夜に満たされた暗い密室の中、液晶画面から漏れ出るブルーライト。

―—ホームドアの向こう側へと誘われるがまま乗り込んだ通勤電車。

―—電子レンジの内側で薄暗い橙色に包まれて熱を帯びていく冷凍食品。


 全てがあまりに一瞬で、その記憶の所有者たちの性別も年齢も生い立ちも鹿芝には良く分からなかった。どれも、劇的に感情の動くような代物ではないが、はっきりと伝わってくることがあった。

(皆...俺と同じ人たちだ。俺と同じように、何も変わらない社会の中で、いつもと全く同じ日常の中で突然、この世界に転移させられて、そして死んだ人たちだ)

 この無数の記憶の持ち主は皆、日本で生まれ、そしてこの異世界を訪れて、その果てに凄惨な死を迎えた人々なのだと。

(俺たちは皆、同じ運命を背負っていた)

 それを、理解した刹那。

(ようやく...思い出すことができた)

 両翼は、姿を変えた。

(俺たちがこの世界で、何をするべきか)

 黒を基調とした影に沈んだような色を纏う、ノイズの音を放ちながら蠢くそれは、腕だ。何百、何千本もの、腕。

(全ては、この世界を―—)


―—具現化されし終焉・code of the end

実行します。


 赤黒い血の塊のようだった両翼は、ほつれた糸束が一瞬で解かれたように枝分かれして―—まるで獰猛な毒蛇の群れが小さな巣穴から即座に一瞬にして姿を現すが如く―—数千もの腐食を引き起こす瘴気と可視化されたポリゴンの密集する様を体現したかの如きノイズでその輪郭を満たした腕へと変貌を遂げたのだ。鹿芝が雉の怪物へと形態変化を起こした際に爪に宿る腐食呪印とは一線を画し、その濃度は遥かに強烈に凝縮されている。

 触れたもの全てを一瞬にも満たない速度によって腐食の気配で満たすその腕は、十数メートル先に佇むペイン・ロイリア目掛け伸ばされていく。

 しかし同時に、ペインの肢体と繋がる数百の黄金色の骨で象られた腕が、指先を突き立てながら直線状の軌道を突き進んで迎撃を図り、うねるような軌道をなぞるノイズを纏う黒色の腕と衝突する。

―—一瞬、黄金色の光沢を纏う骨粉が四方八方を散って、緩やかに地面へと落ちていく。

 血の塊が蠢くような腐食作用を放つ黒いノイズの成す腕に触れた、黄金色の骨で象られた腕は一瞬にして崩壊し、即座に粉塵と化したのだ。

「駄目だよ」

 ペインの口から言葉が漏れて。

「将鐘との時間、将鐘といるこの空間は、終わらせることなく続けるの」

 直後、地下空間に地鳴りのような低い音が呻き、辺りを反響する。すると眼下に、無数の亀裂がペインの足元を起点に放射状に迸り、岩盤が衝撃に砕ける音色が縦横無尽に鳴る。地面に現れた無数の亀裂から出現したその姿は―—

「失くした記憶のぶんだけ、私たちだけの思い出を、これから一緒に作るために」

―—包丁を構えた、無数の白骨の腕。

 骨の白色に、視覚が埋め尽くされる。手に包丁を構えながら、黒いノイズを纏う腕を突き刺さんと頭身を勢いよく次々と現していく。何百、何千と。ノイズのもたらす腐食により骨粉状で飛散してもなお、絶え間なく地面を突き破って白骨の腕が現れ、視界を蹂躙していく。

 だが、それすらも覆いつくしていく、ノイズの音色と撒き散らされていくおびただしき腐食の気配。その手に握り締める包丁ごと白骨を呑み、粉微塵となった骨粉を噴き出すように吐いて、次々と奥へと流れ込んでいく。

「お前だけは殺す。なんとしてでも絶対に」

 瞳孔の奥から、隠しきれないほどの殺意を宿した眼光が、黒く汚濁した血涙の深くから除くその眼差しがペインを捉え、ノイズが暴発的に加速する。

 千にも至る本数の骨から成る腕の数々は全て、腐食作用により原形を留める余裕も与えず塵と化し、空中を舞っていた。

「そうだよ、将鐘。もっと激しく、私を求めて」

―—しかし

「さあ、求め合おう。私たちだけの、血だらけで永遠の愛を」

―—満面の笑みを、浮かべながら。

「黒ノかいな

 ペインの声がそう発されると同時、彼女の腹部左右を突き破り、黒髑髏を発現する際と同様の形と色彩を有する煙の群れが輪郭を織り成し、数メートルにも及ぶ長さまで生え伸びる。

 それは、指先を鎌のように湾曲させた黒い骨で成された、ペインの肢体左右を突き破って姿を現した、二本の大樹の如き腕と化した。

 刹那、それが横薙ぎを一つ放った視界は至るところまでその残像で埋め尽くされ、黒いノイズを纏う数千の腕は輪郭を失って、墨汁のような熱い液体をひたすらに散らしながら飛散し、壁や床や天井に飛沫を打ち付けて。

「まだ足りない。まだ足りない」

 触れたもの全てを消し飛ばし、ノイズの放つ腐食作用ごと血だまりとして吹き飛ばす、破滅の権化の成す所業。

「君の温もりも、君が私に与える痛みも、この程度じゃまだ、満たされないよ」

―—それが今、鹿芝の眼前に数ミリにまで迫っている。

 ただただそれを認識させられる。数百、数千と伸ばしたノイズを発する指先は、ペイン・ロイリアの輪郭に達することなく全て、黒く熱い液体を散らしながら、激痛を走らせながら消えて。何度繰り返そうと、何度痛みと殺意の応酬を繰り返そうと、終わらせることの叶わない。互いの殺意。互いの命。互いの時間。

 体温の熱も、視界がもたらすこの世界の色と形も、全てがただそこにあるとしか思えなくなるほどの虚無に満ちた感覚に沈む、刹那。

(死ねない。死ぬわけには、いかない)

 ノイズが脳髄を満たして、殺意が蠢いて、そして―—

「伸縮刀・しゅつ

―—聞き覚えのある声が聞こえて、鹿芝は殺意に溺れていた自意識を取り戻した。

(誰...だ...?)

 視線の奥、こちらへ恍惚とした眼差しを一心不乱に向けるペイン・ロイリアの背後に浮かぶ、少年の影。

(ギル...?)

 小刀であった形態の刃先がまるでマジックのように一瞬にして突出し、刃渡りが数倍に達したそれの柄を両手に携え、ペイン・ロイリアの首筋とそこから散る血の噴いた筋と交錯して、斜めに糸のような残像を鋭利に描いた、その瞬間。

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