第46話

―—どれほどの時間が経ったのだろう。

 おそらくはまだ、十七年前の世界に飛ばされてから一時間も経過していない。けれど、とてもそうは思えなかった。

 辺りには樹木の黒く厚い幹が縦に幾重にも視界を遮り、緑葉の成す木陰に満ちた天井が陽光の眩しさを遮断して、妙な静けさを醸し出している。そんな木々のうち一本の幹に背中を預けて、樹木の根の這う地面に腰を下ろしたまま、視線を緑葉の隙間から覗く雲の混ざった空色の断片へと向ける。

「俺は、何をしているんだ...」

 未だ、須床の表情が、飛び散る血肉が、断末魔が脳裏に響き渡っていくのが感じられる。静かな森の空間の中、余計にそんなことばかりを思案の度、意識してしまう。

「生き延びたじゃないか。俺は」

 掻き消そうとしても剥がれ落ちない、微動だにしない視界で悍ましいほどに静寂を保ったままうごめく情景の奥深くに焼き付いた薄暗い感触。

「何を後悔している?何を呻いている?俺に、その選択を自らの意思で選んだ俺に、今更この現状を悔やむ資格なんて無いんだぞ...」

 そこまで言い終えて、鹿芝は不意に視線を右腕へと下ろした。皮膚の上を伝っていた血液の流れは徐々に収まっている。未だに痛みを発してはいるが、須床と会話していた時に比べれば幾分か程度は軽減されているように思えた。

「もう俺は...もう俺は、決めたはずだ。自分のために生きるんだ。そのためには、選ばなきゃいけない。取捨選択を躊躇った結果、何もかもを助けて救い出すなんて妄想に浸って、最終的に全てが無駄になる。常に、そんな最悪の状況を想定して行動しなきゃいけない。それを避けて行動しなければならない。合理的っていうのは、そういうことだ。そうあるべきなんだ」

 罪悪感や後悔とはまた違っていて、もっと愚かしくて、欲求に溺れて腐り切った罪深い感情ばかり。

「選ぶ覚悟も...見捨てる覚悟も...人を犠牲にする覚悟すらも中途半端な癖に、なんで俺は、自分だけは生きたいなんてほざいたんだ...」

 それに名を与えることすら躊躇うほどにも身勝手な、そんな生存本能に頼って、その末路がこの静寂に満ちた苦悶。

「俺は、最初からずっとこんな生き物だったか?俺は、産まれたその瞬間から自分のことしか考えられない人間になるって、最初から、俺は最初から、こうならなくちゃいけないって決められてたのか?なあ...誰か、誰でもいいから、どこの誰だっていいから...答えてくれよ...誰が...誰が...誰がっ!」

 肺が、はち切れそうになるまで息を吸った。

「誰が、俺をこんな生き物に変えやがったんだよぉおお!」

―—胸に詰まった感触を。誰に向ければいいのか分からない感情を。この人生の意義と思えるものの全てを。

 空に向かって、長く、長く、吐き出した。

―—途端。涙が筋を描いて頬をなぞって、その熱が冷めた途端。

 背後から鋭利な刃物で刺し貫かれるが如く不意に脱力感が襲った。けれど、それは不快な感覚では無かった。

―—それどころかむしろ、心地よい。

 ずっと纏わりついていた枷を、重りを捨てて、この世界というものの本当の姿を知った瞬間のように思えた。

「そうだ。最初から、どうでも良かったんだ」

 表情は、感情は、ずっと消失したまま。

 笑顔も、悲しみに暮れた顔も出来ないまま、何の感情も浮かぶことのない凝り固まった表情のまま。鹿芝は立ち上がり、森の中を再び彷徨うように歩き始めた。

「もう、全てがどうでもいい。どうでもいいんだ」

 そして。

―—ようやく、また会えた。

 視線の先にあるのは、獲物を捕らえた喜びに満ちた赤黒い黒獣の双峰。右腕に走ったままの、剝き出しの裂傷から脈打つ血が零れる感覚はもうすっかり慣れてしまっている。もはや何とも思えない。

 鹿芝にとってこの状況は、死と対峙しているのと同義であるはずなのに、不思議と恐怖は感じない。

―—これでようやく、心身を穿って深く沈み込むようなこの重い感覚から、解放される。

「...殺してやる」

 その声が、黒獣の猛禽類じみた翼の、黒獣の右翼の奥から鳴り響いた。

「...殺してやる」

 翼の表面は、水面のように赤黒い色彩が張り巡らされている。途端、その中心部から度重なって波紋が翼の表面を響き渡り、その内側から人間の頭が突き破って現れた。

「須床さん」

 その顔立ち、声、頭の輪郭。全てが、須床という人間を表していた。しかし、その肌の色は色素を全て抜かれたような、無機質で白い灰のような色をしていて、眼球が埋め込まれてあるはずの目元は真っ黒い闇に満ちた空洞で、川の流れる様の如くとめどなく血涙が滴っている。

「...殺してやる...殺してやる...殺してやる」

 音声ファイル化された声を延々とリピート再生しているかのように、何度も何度も冷淡に声を紡いでは、歯軋りでもしているかのように表情を歪めて鹿芝を見据える。まるで、痛みに藻掻いているかのようだった。

「...痛い」

 直後、須床の頭部が顔を出す右翼とは対称にある、左翼から声が聞こえた。

「...痛い...痛い...痛い...痛い...痛い」

 呪文を唱えるが如く、飽きもせず苦痛に満ちた表情で呻く、土鯉の声音。左翼の表面に浮かぶ赤黒い色彩を突き破って、彼はその頭部を露わにした。

 その表情は正しく、黒獣の口腔の中へと全身が引きずり込まれた刹那の際に見せた表情そのものだった。

「土鯉さん」

 そして、そこでは終わらなかった。

「殺さないで」「助けて」「誰か」「嫌だ」「こんな世界なんて」「滅んでしまえ」「死ね死ね死ね」「全てぶっ壊したい」「全てぶっ殺したい」「もう耐えられない」「生きていたくない」「早く死なせて」「死にたい」「死なせてよ」

 誰のものかも分からない無数の少年少女の声が、翼の奥から。

「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」

 無数の表情が、絶望に満ちた表情が、翼の表面に張り巡らされた水面のような色彩の奥深くから突き破って、その姿を露わにしていく。

「そうか」

 鹿芝は、その光景を視界に収め、頷く。

 数十、数百という声が、呻き声が、何に誰に向けてのものかも分からない悲しみと憎悪の群れが、どうしようもなく冷酷で、無感情に満ちて、それでいて噓偽りのない意思の込められた純粋な声音を四方八方に響き渡らせている。

「みんな、同じだったんだ」

―—その一瞬で理解できた。

「俺も、みんなと同じだ」

―—皆、日本からこの世界に呼び出された、人間たちだ。同じ苦痛に、同じ死に対する絶望と恐怖に嘆く、自分と同じ境遇だったのであろう同年代の少年少女。

「なら、俺も...一緒に―—」

 鹿芝は一歩ずつ、一歩ずつ、黒獣へと歩み寄っていく。灯りに吸い寄せられる虫のように、妄信的に自らの血に塗れた結末を求めながら。

―—死を渇望する少年少女の声音の在り処へと目掛けて、手を伸ばして。

「ねえ、将鐘」

 その声が、脳裏を斬り裂くように響き渡った。咄嗟に、視線をその方向に向けた。無数の人間の頭部が除く両翼に埋もれた視界の中、一人の少女が、はっきりと声を発していた。

「どれだけ辛くても、私は君とこの世界を、生きてみたい」

―—蓑藤アンナが、そこにはいた。

 柔らかく、色鮮やかな肌色に満ちた、ワンピースを身に纏う彼女の姿が、空の色のように青い瞳がはっきりと、鹿芝の瞳孔に焼き付いていた。目の前に彼女が立っていて、両腕を広げて、鹿芝の全身の重みを受け止めようとする態勢のまま、幸せそうに笑みを膨らませている。

「アンナ...どうしてここに...」

―—瞬き一つを挟んで、手を伸ばして掴み取った場所は、アンナの姿があったはずの場所は、無色透明の空っぽだった。

 それ以外に、そこには何も存在してはいなかった。

 夢なのか、幻なのか、それは分からない。ただ一つ理解できるのは、これ以上、自分の生きる道を捨ててはいけないということ。道を選んだからには、そこで立ち止まってはならないのだということ。


死が訪れるまであと―—

 

「分かったよ」

 殺意に満ちた黒獣の両眼を真っ直ぐ見据えて、鹿芝はその瞳の奥深くに決意を灯す。視界を犇めく、血涙を流しながら繰り返し喚く無機質な表情の群れに向けて、鹿芝は声を発する。

――嘘偽りの無い生存本能が、その全身に滾って。

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