第45話
「ここは...?」
――炎のヴェールがはだけて、やけに薄暗く映る視界を満たしたのは未曾有の光景だった。
鹿芝の隣には、須床の姿がある。互いに無事のようで、そのまま呆然とした表情を浮かべて見つめ合っている。今この瞬間、何が起きているのか。それを認識するのに意識が追い付いていなかった。
周囲の様子は、一変していた。視界にはいつの間にか、見たことのない茶褐色の枯れてひび割れた地面が広がっている。
「大丈夫?身体...」
「いえ...なんともなってないです」
「なら、良かった。一体、何が起きたんだろう」
「俺にもさっぱりです。そういえば、土鯉先輩はどこに...」
そこまで発していた鹿芝の声は、途端に止まった。目の前の光景を目にして、まともな挙動すら取れなくなった。身体を、恐怖でがんじがらめに縛り付けられた身体を、動かすことができなかった。
「痛い」
土鯉の声が、背後から響いた。
――それを現実だと、受け入れられなかった。
後ろを振り向いたとき、視界が薄暗かった理由が分かった。背後に立ちはだかる黒獣の巨躯が生み落とした影に、視界が埋め尽くされていたからだった。
その身体には体毛が無く、真っ黒い全身に張り巡らされているのは、波打つような流動性のある柔肌。首は大蛇のように異常に長く、まるで人間の頭蓋骨に似た頭部の形状に相反して、胴体から生え伸びる四肢の放つ威容は獰猛な四足獣のそれだ。何より目を引くのは、背中にある、赤黒く淀んだ色彩に塗り固められた猛禽類のような両翼。
「え...?あ...あれ...」
須床は言い掛けた言葉を何度も途切れさせながら、視線の奥に映る土鯉の表情を、じっと見ていた。
「これ...どうなってるんだ...」
――土鯉の身体の下半分は、黒獣の口腔へと呑まれて姿を消していた。
「土鯉...?あれ、土鯉...?あれは、土鯉なのか...?」
骨が軋んで、砕け散る音が、土鯉の腹部の奥深くから鳴り響いて黒獣の口の端から血液が滴り、滝のように太く赤く線をなびいて地面の上で飛沫を上げる。
「痛い。痛いよ。痛い痛い痛い痛いいいいいい――」
――それが聞こえた時が、その残響が静寂に混ざって掻き消えたのが、最期だった。
微動だにしないその眼差しがはっきりと須床を捉えたまま、土鯉の特徴的な眼鏡面のスキンヘッドは口腔の奥へと引きずり込まれ、黒獣の体内へと沈んでいった。
鹿芝と須床は肩を並べて、同じ光景を、同じ瞬間を、同じ場所で味わっていた。目を離すことはできず、目を離すことは許されず、ただ目の前で起こる死を受け入れることを強制させられる。
血の粒が零れて、真っ赤な雫が茶褐色の地面に衝突し、濡れて。風が吹いて砂が舞って覆い被さり、土鯉が生きた痕跡すらも、この一分一秒ごとに掻き消されていく。目の前で起こるそれが体現していたものとは正しく、死の儚さに違いなかった。
鹿芝はただそれを味わったまま、気づけずにいた。視界を突っ切って流れ込む、黒獣の剛腕が空を薙ぐ様を、爪の斬撃を。
「鹿芝くん!」
皮膚の向こうに感じる、少し冷たい体温と硬い骨の感触。鹿芝は真っ向から須床の体当たりを受けてその刹那の間、その身体の感触を、彼の細身な体躯を一身に感じた。
「須床さん...」
鹿芝は須床の突進によって、残像が視界を斜めに裂いて過る爪の軌道から身を反らすことに成功していたのだ。もしも須床が身を挺してくれなかったなら、鹿芝は確実に胴体ごと抉られ、致命傷を認識することのできない速度で即座に受け、死んでいた。
そのとき、気付く。
「あああっ!!」
鹿芝は暴れ出した痛覚に、反射的に悲鳴を上げた。右腕が、血に濡れて熱く、痛みに溺れる。引き裂かれた傷から覗く流血の荒々しき様が、その飛沫が放物線上に空中を舞う情景が、他全ての音を掻き消さんとばかりに心臓を打ち鳴らして止まない。
その中で唯一、聞き取れたのは。
「逃げるんだ!立ち上がって!早く!森まで逃げるんだ!身を隠せる場所はそこしかない!」
こちらに向けて手を伸ばす須床の、生き延びるべく必死そうで、そうでありながらも鹿芝を救い出そうとしている慈愛の滲んだ表情。そして、差し伸べる手とは異なる方の手の指先が二、三キロメートル弱先に広がる森のある方角を示している。涙と激痛で色すらもまともに認識できないほどに濁った視界の中で、不鮮明ながらもはっきりと、解った。
鹿芝はその手を握り締めて、立ち上がって。
―—その先の記憶は、ただひたすらに恐怖の感情に塗り潰されていたせいで、不明瞭で。
「鹿芝くん」
その名前を呼ぶ須床の声は、横殴りに吹き荒ぶ乾いた風の音に掻き消されそうなほどに掠れていて。
「助けて」
鼓膜にはっきりと届いていたのは、真上から硬い岩が崩れ落ちた音。その瓦礫が須床の右手と左足に衝突し、圧し潰し、彼の筋力のみでは再起することのできない状況にあるという、現実。
――そして、後ろを振り向いた視界の奥には、黒い巨獣の影。
二人は、肩を並べながら黒獣から逃げ延びていたはずだった。十分に距離を離していた。地形は、左右から縦数十メートルの岩肌を覗かせて視界を阻む崖に挟まれた、一本道。
鹿芝が後ろを振り返り、黒獣との五十メートルほどの距離を確認し、このままなら逃げ切れると安堵していた頃だった。黒獣の大地を踏み鳴らす衝撃によって崖の上に転がっていた丸岩が崩れ落ち、左右の崖に広がる岩肌に衝突して砕け散り、瓦礫と化して落下した。
丸岩は一本道に丁度収まるくらいの大きさで、瓦礫となって砕け散ってもなお、体積の割に重量を伴っている。時間は掛かるが、黒獣に追い付かれることを厭わなければ、須床に圧し掛かる瓦礫を取り除くことは可能かもしれない。
「鹿芝くん。大丈夫、落ち着いて」
「...はい」
鹿芝は瓦礫の下から、呻くように声を漏らしながらも、はっきりと言葉を紡いでいる。その声に従って、鹿芝は須床の掌を掴んで引っ張り上げようと試みるが、びくともしない。
「あの黒い化け物は、身体が大きな割に移動速度は遅い。だから何も心配しなくていい。ひとまず、直接引っ張り上げる前に、身体の上に乗っかってる瓦礫を取り除くんだ」
「...はい」
須床も鹿芝と同じく痛みを感じているのは間違いないが、致命的な程ではない。一度救出すれば、同じようにまた走り出すことはできる。
鹿芝は須床の言う通りにして、彼の身体の上に圧し掛かる大量の瓦礫を、負傷していない左手を用いて一つずつ取り除く。しかし、まるで変わらない。
「鹿芝くん。もう少し早く出来ない?」
鹿芝は、走りながらもずっと、痛みに悶えていた。今もそうだ。痛みを堪えながら後ろを振り向いて、瓦礫の下敷きになっている須床を見下ろしているこの瞬間も、右腕には激痛が走っている。
(このままでは、確実に追い付かれる。そうなれば、確実にどちらかは喰われる。しかし、解決策なんてない。あるはずがない)
抉られた血肉の断面は塞がることなく、今もなおずっと、赤い雫が皮膚の上を伝って粒となって落ちる、垂れ流しの状態のままだ。
(なら何のために、須床さんを助けようとしているんだ?助けるより先に追い付かれることは分かっているのに、俺は何がしたいんだ?ここで俺たちが無駄死にする意味って、一体何なんだ?どうして俺は須床さんを助けようとしているんだ?助けられないって、見れば分かり切ってることの癖に、俺は自己満足で人を、中途半端な善意で人を助けた気になりたいだけなのか?)
脳内を満たしていた葛藤が、少しずつ、やがて収まって。
「鹿芝くん。どうして...」
鹿芝は、その大きさの割に固く質量の重い大岩の瓦礫を取り除く作業の手を、不意に止めた。
「どうして...手を止めるの?」
「鹿芝くん!俺は君を命懸けで助けた!今度は君の番だ!速く瓦礫を退かすんだ!じゃないと追い付かれるぞ!」
「須床先輩」
痛みは治まることなく、断続的に悲鳴を上げたい衝動を堪えたまま、生きるために、ただそれだけのために走ってきた。
鹿芝は、痛みで叫びだしたい衝動を吞み込んで、声を抑えながら。
「俺、生きていたいです」
「え?」
唐突な、宣言をした。
ただそれだけを告げて、鹿芝は須床の瞳を見据える。その真意をはっきりと刻みつけるように。
「俺は、自分のために生きるって、誓ったんです。自分は自分のまま変わらず生きる。人は、自分以外の何かにはなれない。それを教えてくれたのはあなただった」
「なんで...」
自分の身体から刻一刻と血液が溢れ出ているという、激痛が止むことなく発されているという、鹿芝の心身へと唐突に降り注いだこの世界における生き地獄の片鱗を、悲痛な表情と共に滲ませながら。
「最初から、俺はそうだった。人と関わって、クラスに溶け込んで、文芸同好会という居場所を得て、変わったつもりでいた。そう思い込んでた」
―—脳裏に蘇るのは、応接室で一宮の父の発する、鹿芝にその真意を問う視線。
「俺は、何度も自分の行動を悔やんだ。それなのに、また同じような境遇に直面してもなお、俺はまた同じような行動を取っては、また同じような結末に至ってしまう」
―—瞼の裏側に浮かぶのは、鹿芝によって暴力行為の一部始終が録画された、白井のスマートフォン。
「例え自分が悪くなくても、責任を負う必要がなかったとしても、何のためか、誰のためかなんて考えることすらしないまま、ただ謝ってきた。自分のどこに問題があるのかとか、そもそもこんなことになったのは何が原因だったのかとか、そんなこと何も考えずに、同じようなことにならないために行動を取るだとか、その場任せの言葉で無責任にも誓いを立てて」
―—固く握りしめた拳に残るのは、一宮の頬を殴った刹那の感触。
「そしてまた、同じ間違いをした」
―—今になって、ようやく分かった。なぜ、一宮のことを殴ったのか。
「結局、俺は何がしたかったんだって、いつも自分に問いかけてきた」
鹿芝は言葉を途切れさせて、そして、その両膝が地面へと音を立てながら下りて、何も言わず頭を項垂れた。前髪で鹿芝の視線は遮断されて、乾いた風の音だけが耳の穴に潜り込んでくる。
やがて、鹿芝は口を開いて。
「俺は最初から、自分のことだけを考えて生きてきた。それ以外のことを何も、何もかも考えずに生きてきた。他人なんてどうでもいいって、心の奥底でずっと思ってた。だから人を助けることにも、人に暴力を振るうことにも興味が湧かなかった」
言葉が溢れ出ていく。何も考えずに言葉を発しているつもりなのに、なぜか意識しないまま言葉を紡いでしまう。
―—これが、本当に自分の真意なのかどうかも分からないまま。
「今になっても俺は、あなたが苦しんでる様子を見ても、助けてあげたいという衝動が湧かない。助けなければいけないという義務感や、誰のものかも良く分からない同調圧力とは違う純粋な善意を、俺は最初から持ち合わせてなかった。今はただ、右腕に走る痛みと、溢れ出る血の熱しか感じられない。自分が死ぬかもしれないという恐怖しか感じない。自分が生きるためのことしか、自分の頭に思い浮かばない」
前髪で視線を隠しながら、そう言葉を残して鹿芝は立ち上がった。
「ただ、それだけなんです」
鹿芝は、走り出した。
左右交互に地面を蹴り進んでいく度に、右腕を伝って落ちる血の雫の残す跡が、鹿芝の走り抜けていく痕跡を残していく。
「ふざけるな...ふざるなよ...君は...君は人として最低限のことすらできないのか...なんなんだよ...君は...いや...」
背後から、震えながら発された須床の声が聞こえる。初めて聞いた、須床の怒りに満ちた声音だった。
「殺す」
はっきりと、聞き間違えじゃなくはっきりと、そう告げて。
「許さない。お前には必ず俺の手で...」
瓦礫が、太く屈強な黒獣の前脚にまさぐられ、そして須床の細身な体躯へと上下に生え揃った歯が嚙みついて、引っ張りあげられて。
「一生物が感じられる限界まで痛みを与え続けて、最期の...最期のその瞬間まで凄惨な死を味わわせて殺してやる!」
須床という人間だったその肢体から血が噴いて、人の形をした肉と骨の塊が、牙に砕かれ、口腔へと誘われた。
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