第44話

 異世界での生活、初日の朝が終わり、夜が訪れ、一日が幕を閉じる。

 穏やかに始まった日常に安堵して、鹿芝は日々を過ごしていた。運び込まれる豪勢な料理を始めとしたもてなしの数々、城での贅沢な生活。自分がなぜ、何のためにこの世界に招かれたのか知ることなく、疑問すら抱くことなく、日々が過ぎていった。

「皆さんは、力というものについて考えたことはありますか?」

 ミリシアにそう尋ねられたのは、異世界での生活が始まってから三日目の朝だった。朝食がてら、彼女は朗らかな笑みを浮かべて鹿芝たちに問いかけた。

「力、ですか...弱きを助け、強きを挫く、的な?」

 鹿芝は首を傾げながら、あまりに唐突だったために少し戸惑いながらもそう答えた。ミリシアは小さく頷いて、口を開く。

「ええ。確かに、自らの有する能力で成せる事の範疇で救うことのできる人を救うことは、力の存在する本当の意味に近しいものと思います。ですが、そのような義理人情のみが力の存在する理由の全てとは、言い切れない」

 ミリシアは時折、両手で掴んでいた簡素なパンを一口サイズに千切って、口に入れて、咀嚼して飲み込みながら。

「大切な物や人を守るために、敵を排除する。その行為は、見かけにおいては防衛であり、実質的には単なる暴力でもある。力とは、善と悪などの物差しによって二分化できるものではない。だからこそ、明確な意義が求められる」

 やがて、ミリシアはパンを丸ごと頬張って、十数回咀嚼したあと飲み込んだ。

「なんか久々に教室で授業受けてる感覚になるなあ」

「あー、わかる」

 小声で発した鹿芝の言葉に、土鯉が反応する。

「でも、力って一概に言うにも色々種類がありますよね。権力とか財力とか、肉体的な、身体能力の強弱以外にもたくさんあるし」

 そうミリシアの言葉に反応を見せたのは、須床。

「須床さんの考えは良く分かります。ですがそれらにおいても、力という面では決定的な共通点がある」

 須床は熟考するような仕草を、少し視線を下げて滲ませて。

「強い側と、弱い側がいる、ってことですか?なんていうか、」

 ミリシアは瞳を少し広げたかのように、微かにその笑みが深みを増したかのように見えた。

「なんだか、須床さんとは気が合うのかもしれませんね。私の意見もそれに近しいものでしたから」

 それを聞いて、須床は心成しか嬉しそうだった。頬が僅かに熱を帯びているのも、本人は気付いていないだろう。

「ところで、城での生活は楽しめていますか?」

 ミリシアがそう聞くと。

「そりゃあもちろん!こんな生活できるなんて夢に思ってなかったすよ」

 パンを頬張ったまま、土鯉は勢いよくそう言葉を口にした。思慮深さとかとは無縁の土鯉が言うと謎の信頼感があるな、と鹿芝も須床も似たような表情を浮かべる。

「それは良かった」

 ミリシアは深く頷くと。

「今から四十七分後、皆さんに見せたいものがあります。まだ時間はありますから、ゆっくり良く噛んで食べてください」


――四十七時間後。

 肌にぶつかってくる風の耳障りな音が全方位から鳴り響くような空気に、そこに混じった砂粒が目に入って、瞼の上を重ねた右手の指で擦った。

「皆さんには、あれが何に見えますか?」

 ミリシアの指が指したのは、南北に立つ格子状の門で遮断された向こう側、城壁の奥にある城下町、その空間に広がる青空だ。空の中には、見たことのない姿形の輪郭を映し出した、太陽を背にして翼で宙を舞う生物の影があった。

「あれは、ドラゴン?」

 その頭数は、数百に達する。

 居城からは二、三キロメートル離れた位置に集団となって飛び交うその姿はさしずめ、ファンタジーに出てくるドラゴンで想像するものと同じものだ。威容に満ちているが、ここまで密集しているとなるともはや感じられるのは、ただただその巨躯から発せられる威圧感から成る恐怖心だった。そしてその大群の下には、活気に満ちた人々の声が響く王都があった。

「ドラゴンっていうか...あんだけ群がってるともはや若干虫っぽいよな。蜂の巣の周りにいる蜂みたいな感覚でうじゃうじゃおるんだが...」

 鹿芝の漏らした言葉に、土鯉が反応して。

「いや、あれ...」

 須床も呆然としたまま、ただ大群を成す竜に目を奪われていた。

「街に降りそうじゃね...」

 そのとき、竜の大群は奇声を発しながら眼下に広がる王都へと、滑空した。百に至る数の巨躯が、その影を落とした石畳へと亀裂を走らせながら降り立つ。すぐさま、活気に満ちた人々の笑い声は一瞬にして、悲鳴へと置き換えられた。

「いやこれ...人が、死んでる...」

「血、だよな...あれ...」

「本物...?」

 牙が衣服ごと血肉を刺して、強靭な顎の筋肉で人体を嚙み砕く音を鳴らして、その口の端から噴き出した鮮血が零れ落ちる。そんな光景を遠目から、鹿芝たちはただ傍観することしかできなかった。

「あれは竜と言って、この世界で人族に次いで二番目の個体数を誇る種族です。私たち人間を喰らおうとしますが、王の裁きによって通常は捕食行為に至るより先に竜は死ぬ。ですが人の王のいない今、それは無力化されている」

 そのとき、落雷のような咆哮が遠くから上空を伝播して鳴り響いた。その方向から、何も無いと思っていた透明な空間にふと、その姿形が出現した。

 その身体には体毛が無く、真っ黒い全身に張り巡らされているのは、波打つような流動性のある柔肌。首は大蛇のように異常に長く、まるで人間の頭蓋骨に似た頭部の形状に相反して、胴体から生え伸びる四肢の放つ威容は獰猛な四足獣のそれだ。何より目を引くのは、背中にある、赤黒く淀んだ色彩に塗り固められた猛禽類のような両翼。

「そして、あれは黒竜。世界の外からこちらへと侵入した招かれざる来訪者である、異形の生物。竜族の中でも上位種に位置づけされる個体なので、この世界に来て間もないあなた方には少し、荷が重いかもしれませんね」

 須床の隣に立って、ミリシアがそう声を発する。

「皆さんがこれからこの世界で生きていくうえで強いられるのは、あのような怪物との死闘です。ですから、そのためにもあなたたちにおいて力とは武器であり、身を守る道具であり、命の価値そのものでもある」

 三人は振り返った。

 背後に立つミリシアの身体に、鈍い光が纏う。火の粉が彼女の全身を起点に渦を巻いて散りながら、炎熱を宿した風の唸る衝動に鹿芝たちは肌が焼けそうになるのを感じた。

「それを、今からあなたたちにお見せします」

 瞬間、空高く業火の神々しい真紅の色が迸り、ミリシアの足元からその脳天まで巻き込んでうねりながら業火が噴き上がり、鹿芝たちの視界を縦断する。それが消失したとき、ミリシアは業火が達した先端部分辺りの上空で浮遊していた。

 あの炎は、ミリシアが飛翔したことによる残像だったのだろうか。

「黒曜」

 ミリシアが声を発したそのとき、空の色が変わった。

「あれ...太陽...?」

 焼け焦げた灰の塊のように黒ずんだ斑点が表面に散らばった、赤紫の球体。それは、月が地上へと隕石となって降り注いでいる光景を写真にして切り取ったような、異物感に満ちた現象だった。

「おい...見ろよ...」

 土鯉の発した声は、震えていた。眼下で生じた事象を理解して、鹿芝と須床にも緊張感と恐怖が確かに伝播した。

 地上に落ちた竜の大群は、真っ白な骨のみを置き去りにして、肉体であったはずの赤い飛沫を描く水溜まりが鼻を刺す異臭を散らしながら、その付近で蒸気を噴き上げていた。

 やがて、その骨さえも崩れ落ち、塵となって消滅して。

「理解、できましたか?」

 背後から、ミリシアの声が響いて、瞬時に背筋を緊張が走った。振り向いて、気付く。天空に浮かんでいたはずの黒ずんだ球体も、赤く染まった空も、そして竜の大群も影も形もなく。

「これ...本当に、現実なのか?」

 ただ、城下町から次々と湧き上がる、竜の全身が突如熱に焼かれ溶け消えたあまりに一瞬の事象に発狂する声、泣き叫ぶ声、困惑しただただ周囲に助けを求める声。

 今起きたことが全て、事実であるということを証明するかのように、多種多様な人々の叫び声が、虚しく須床たちの鼓膜を遠くから微かに震わせる。

「これは、あなたたちの使命であると共に、異界から来訪した転移者の肩書きにふさわしいかどうかを見極めるための試練でもあります。もしもあなたたちが死んだら、それはこの世界の終焉を意味する」

 ミリシアは語気を弱めることも強めることもせずに、変わらず言葉を口にする。

「意味が分かりません!俺たちは、ただの人間です!ただの学生です!そんな試練だとか、意味の分からないことのために命を懸けろだなんて...もしも、死んだら...死ぬようなことになったとしたら...」

「須床さん。あなたは最初から勘違いをしている」

 須床の方へと向き直り、真っ向から視線を向けて。

「私がこの世界におけるあなたの肉体を生成し、この世界に適応した形へとあなたの脳の言語的機能を拡張し、生きていくうえで必要な衣食住を、あなたの生活環境を作っている。あなたは私に生かされている。生きる権利を与えられているから、生きていられる。生まれながらにして与えられた、生きるための手段を行使しているから、あなたは生きていられる」

 ミリシアは、淡々と語った。

「この星には、今この瞬間にも無数の生物が生息している。ですがそれよりも遥かに多くの数の、かつて生きていたはずの命が存在している。死とは、生物の命にとっては自然の姿です。なぜなら死は永久に続く、終わりのない、言わば生物としてのありのままの姿なのだから」

 有無を言わさず、言葉を紡いだ。

「権利とは、人間が自ら編み出した生きるための手段の一つであり、それを持つあなたはそれを利用しなければならない。財産だろうが地位だろうが欲求だろうが、持てる全ての手段を用いてこの世界に、抗うということ。その身に死が訪れることが未来で確定していようとも、それを変化させるための可能性を捨てないということ。それが、生きるということ」

「どうして...俺たちに、こんなことを...?」

 鹿芝は、言葉を綴った。

「あなたたちには力が眠っている。それを目覚めさせるためにも、必要な過程です」

「何、意味わかんないことを...俺たちが、あんな化け物に太刀打ちできるなんて思ってるんですか?もしそうなら、とても正気とは思えない」

 拳を強く握り締めて、睨みつけるような視線をミリシアに送るが。

「いいえ。鹿芝将鐘さん。あなたの呪印は竜の再生能力を阻害し、人間の作る刃物などの武器では成し得ない完全な死へと至らしめることができる。あなたは、竜を殺せる」

「呪印...?」

 ミリシアは、変わらず残酷なまでに朗らかな笑みを浮かべながら、告げた。

「はい。それがあなたの力です。あなたの血液に触れた、あるいは血液を摂取した者を肉体の内側から腐食させる呪いの印。須床ユウヤさん。あなたの呪印は、血液の流動的形質を自在に操り、その中に武器などを収納し体内で複製し、体外に放つことができる。土鯉カズヒトさん。あなたの呪印は、自身の血液を一滴でも含ませた土砂などの物質に対し思念を念じることで特定の生物を複製し、身体能力を始めとする因子を自在に遠隔操作できる」

 一人一人に視線を向けて、順々に告げてから、ミリシアはこの世界の歴史を語り出した。

「この世界の外には竜を始めとする、異形の生物がいる。人族は王の力によって彼らから身を守っていましたが、二十年前、それは効力を失いました。異界人、蓑藤アンナが二十年前に、先ほどの黒竜に喰われたことで結界が機能しなくなったためです。その結果として、竜族は人を喰らう自由を取り戻してしまった」

 王の力。人間の王によって、大陸に存在する全ての竜族は人に逆らえなくなるという、服従と支配の権能。

「このまま竜族を野放しにしていれば、先程のように人間の住む村や街に奇襲を仕掛け、多くの犠牲者が生まれる。仮に私がこの王都に不在だとすれば、あのような規模の襲撃となれば、ここに住まう人々全てが喰い殺されるのに三日も掛からない。更に恐ろしいことに竜は狡猾で、襲い掛かるその直前までは幻術で自らの姿と気配を隠蔽するため、大陸内に侵入した竜全てを殲滅するのは、不可能に等しい」

 そこまで告げて、ミリシアは鹿芝たちへと視線を向けて。

「過去を書き換えて、この世界の歴史を改竄すること。それが、二つ目の約束です」

「それって...俺たち三人でってことですか?」

 須床が尋ねると。

「はい。ですので、これよりあなたたちを二十年前へと送ります」

「...送る?」

 こちらの態度や意思にはお構いなしに、ミリシアは鹿芝たちへと手をかざした。

「では、ご健闘を祈ります」

 その刹那、全てが灼熱と閃光に塗り潰されて空間が捻じ曲がり、三人の姿は焼失した。

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