第36話 1/23
「今の...」
鹿芝は顔を抑え、呻きながらうずくまる。自分の身に何が起きたのか、あまりに一瞬で流れ込んできた記憶に、それが現実で起きたことなのかも分からぬまま、ひたすらに困惑する。
「アンナ?どうして...」
自分が何度もその名を呼び、同じ屋敷で暮らしてきたこと。そして、アンナと同じ容姿を持つ少女を、自分がこの手で殺めたということ。
「俺は、殺したのか?」
直後、後頭部から針で頭蓋を貫き通されたかのように、幻覚が視界へと降り注ぐ。
「アンナ...」
カーテン越しに浮かぶ月が、窓枠の内側から漏れ出て微細な照明となって宙に溶ける、静かで暗闇に満ちた夜の空間。
密閉された部屋の中で響くのは、互いの吐息と、鹿芝の左手の甲にアンナの唇が触れ、離れる瞬間の音。
――現実には存在しえないそれを知覚した、刹那。
「あ...」
視界が切り替わり、黒色一色で染まった奇怪な世界が鹿芝の全身を呑み込む。何も見えないはずの真っ黒い空間の中で、何かの生き物の鳴き声が響く。
同時に、不意に気付く。丸い、水晶玉のような瞳が二つ、赤く爛々と視界の中に浮かんでいる。
「黒猫?」
それは、黒猫だった。闇の中であるにも関わらず、なぜかはっきりとその輪郭が見える。その尻尾、肉球、爪の先まで。
しばらくその風貌に魅入られていると、黒猫は闇の中で歩を進め、鹿芝の目と鼻の先にまで歩み寄ってくる。
(なんだ?)
途端、黒猫が鼓膜を引き裂くほどの鳴き声を発して唸る。そして、そのあまりの声量に驚愕し、耳を塞ごうとした鹿芝の身体に向けて。
「捕食呪印・接吻」
掠れたようなアンナの声音がそう言葉を紡いだ。
そして、黒猫は大きく口を開き、牙を剥きだしにして――
「え?」
――左手へと喰らいつき、血肉を吸い上げる。キスをするように。
「将鐘、大好きだよ。君が遠く離れたとしても。君が私の事を忘れたのだとしても」
耳元で囁く、アンナの声。慰めるような、労わるような声が、腕に迸る痛みと共鳴して脳の奥を揺さぶる。
それと同時に、意識が現実に引き戻される。骨に塗れた地面の上で、鹿芝は立ち尽くしていた。
「今の...」
咄嗟に、黒猫に噛まれた左手を見る。熱い、熱の宿った鮮血が揺らめいて、皮膚の上を伝って滴り落ちている。傷口には深く、噛み痕が刻み込まれている。
それを視認すると同時に、傷の刻まれた左手から再度、骨が軋み砕けるほどの破裂の感覚と共に激痛と血の粒が舞い上がる。
「あああっ!」
それが繰り返し繰り返し、およそ一秒ごとの間隔で訪れてくる。
(やめろ)
その度に視界に映るのは、同じベッドの上で左手の甲の皮膚を唇で吸い上げるアンナの姿。
(やめろ。やめろ)
一秒ごとに切り替わる、現実で象られた視界と幻覚で彩られた世界。幻覚の中で唇が触れて離れる度に、左手から血流が吹いて筋肉と白骨の破片が混ざって、現実の中で地面の上で散って転がる。
(やめろやめろやめろやめろやめろ)
右手で左手を抑え込み、圧迫する。それでも左手は視えない牙に喰われ、覆った右手の五指の隙間から血肉が漏れ出る。
(やめろ――)
そして、飛散する。左手の五本指の付け根が噛み痕を刻みながら破裂して、目に追えない速度で空中を駆けて、地面を埋め尽くす白骨の群れの中に着地して。
「左が...左手が...」
手首から剥き出しになった断面から、滝のように血液が縦一直線に伝って、地上で円を描くように、赤い水だまりを広げる。
(早く修復を...)
けれど、それだけでは終わってくれなかった。
「将鐘。いなくならないで」
――耳元で囁く、アンナの声音。
そして、胸板に押し当てられる、アンナの唇の弾力を仰向けに寝転んだベッドの上で、幻覚の中で感じ取る。
胸部に刻まれた噛み痕から血が伝って、ワイシャツの布地越しから鉄のような香りが舞い上がる。そして、また繰り返し、一秒ごとに刻み込まれる痛みと出血の感覚。
(これ以上は駄目だ...)
それと同じ事象が、右腕で、うなじで、頬で、左腕の付け根で、噛み痕を刻み残しながら血液を噴いて、激痛が全身の中で行き場を失くしてひしめいた。
(間に合わないと...死ぬ)
背中から生え伸びる翼に、『修復』の二文字を叩きつけるようにして命じる。
直後、翼を満たす青白い光が血脈のように張り巡らされ――
「行かないで」
――そして、それら全てが中断された。
ペインの声だった。跡形も無く肉体を崩落させたはずのペインの発した声が聞こえると同時になぜか、修復は中断された。
視線を向けて、鹿芝は驚愕するしかなかった。
「嘘だろ...」
ペインは、人間としての肉体を粉砕されたはずのペインが、這いつくばった態勢で右手の平を骨に塗れた地面に押し当てて、その視線は確かに鹿芝を捉えている。
「殺した...殺したのに...」
絶句していた。ペインの驚異的な生存能力と、その悍ましき執念に。
そしてそのとき、今になってようやく気付いた。足元に、違和感を感じていた。
(なんだ...?)
視線をそこへと向けると、地面から白骨の腕が地面を突き破って、足首を掴み、凄まじい握力で握り締めていた。
あまりの力に、骨が軋むほどに。
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