第34話 1/21

「鹿芝くん」

「何?」

「実は、前から気にしてたんだけど...」

 アンナが胸の内を打ち明け、鹿芝とのコミュニケーションから余所余所しさが薄れてきた頃でも、未だに鹿芝にはアンナの顔から下に視線が重ならないようにする癖は消えることはなかった。

 そこで、アンナは正直にはっきりと尋ねることにした。

「どうして、その...鹿芝くんは私から目を反らそうとするの?」

「え?あ、えーと...その」

 鹿芝は途端に口ごもり、気まずそうに視線を左右に泳がせる。

「女子と話した経験が、今まで全く無くて...」

「全く?今までで一度も?」

「いや、全くっていうのは...なんかこう、あれだよ」

 誤魔化している様子ではなかった。人見知りなアンナを軽蔑していたり、などという被害妄想を払拭するには十分なほど、正直な反応を目の前に佇む年頃の少年は見せていた。

「俺、中学も高校も男子校で。恋愛とかを意識するような年齢になった頃から、同年代の女子とは一度も面識を持ってなくて」

 しかし心成しか段々と、鹿芝の表情は深刻化していた。余程コンプレックスのようだ。

「あ...あー、なるほどなるほど!確かにあるよね!男子校出身だとそういうのもあるよ!」

 アンナは、それを吹き飛ばすつもりで反射的に声の調子を上げて。

「それで前から思っていたことなんだけど俺アンナのこと好きだから付き合って欲しい...です!」

「うんうんあるある。男子校出身だとそういう...え?」

 アンナがいくら空気が読めない人間とはいえ、鹿芝の言葉の指す意味は理解できた。理解できないはずが無かった。アンナは唐突に放たれたその言葉に、呆気に取られていた。

「え、ごめん...空耳、じゃないよね?今の...告白?」

 不意に、アンナは自分の頬に左の掌を添えた。弾力のある皮膚の感触の奥に、焼け落ちそうになるほどの熱が宿っている。照れくさくて、それでいて気まずい空気が流れていた。

「いやごめん本当にすみません調子乗りました勢いに身を任せればどうにかなるなんて現実舐めんなって話ですよねほんとすんませんなんか恋愛っぽい話題振られたから告白する流れ来たかもとか内心で思ってた俺キモ過ぎましたねほんとああ死にたい今すぐ土下座して詫びます」

「違う!違うよ!」

 鹿芝のせいで気まずくなったのは、確かだ。

「その...どういえばいいのか分からなくて...」

 ただ、アンナにとって鹿芝将鐘という存在は何なのか。その答えを反射的に出すことが出きずに、ただひたすらにもどかしいだけで。

「何か本音を隠したりとか、裏を掻こうとか思ってないから、言葉通りの意味で受け取って欲しいんだけど...」

 そう長々と前置きをしながら、アンナは鼻をすするように息を吸って、肺で空気を飲み込んで。

「嬉しいよ」

 言葉を紡ぐことすらやっとで、鹿芝がどういう反応を見せたのかはおぼろげで。

「あとその、嫌なら嫌って言っていいんだけど、これからは、私の目を見て話して欲しい...かも。それと、何かその...私と一緒にやりたいことがあったら、はっきり言っていいから」

 記憶しているのは、ただ、その瞬間が人生で一番幸せに感じられる時間だったということだけだった。


―—そして、またいつもの夜が訪れる。


「将鐘。その...いい?」

「う、うん」

 背中から全身を包むような、深く沈み込むような触感のベッドに仰向けにもたれながら。アンナは薄い吐息を吹き付けるように、鹿芝の耳元で囁いた。

「じゃあ、いくよ」

 布地の擦れる、静かな音だけが静寂の中に溶け込んでいく。ベッドの上に転がるアンナと鹿芝、肌の色で満たされた互いの全身の輪郭が発する些細な挙動が、夜の寒さの充満した密閉空間を互いの体温で焼き焦がしていく。

 アンナの顔面が、鹿芝の胸元に吸い込まれるように埋もれて、アンナの唇がその皮膚に触れた。

「ん...」

 アンナの喉元から、噤んだ唇の隙間から声が溢れる。桃色に染まったその姿形を横一本の線で遮る唇の溝から、その輪郭から、体温で満たされた透明色の唾液が落ちて、点々と、ベッドシーツを半透明に湿らせる。数秒の時を満たした胸の内に湧く高揚が、鹿芝の胸元から唇を離したその余韻をより色濃く、濃密に彩る。

 視界が映しているのは、ただただ暗い部屋の内装と、たった一つの人影。その手足を、頬を、額を、全身を、隈なく映すアンナの視界。

「もう一回、いい?」

 アンナに問われて、鹿芝は枕に沈み込んだ後頭部を首で持ち上げて、一つ頷こうとした。そのつもりだった。ただ、その返答を返すより先に、アンナの唇の形や感触、血液を絞り取るように皮膚を吸い上げられる音と質感が、鹿芝の首筋に降り注いでいた。

 アンナは目を閉じて、唇が触れる瞬間と、離れる瞬間に訪れる音と感触のみに意識を凝らす。何度も何度も、唇と触れた皮膚の奥に宿る血液の巡る鼓動に身を任せながら。

「将鐘」

 アンナが、鹿芝の名前をそうはっきりと呼ぶ。

「息が苦しかったら別に、好きな時に止めていいんだけど...」

 鹿芝の肩には、アンナの手が置かれていた。五本の指が肩の形に沿って折り曲げられて、少し強い力で握られていた。逃がさないと言わんばかりに、強く。

 鹿芝の視界の中には、昼間の空のように青いアンナの瞳の色彩が二つ、浮かんでいた。目を反らすことを許さない、揺るぎのない瞳だった。夜闇に満たされた空間の中で、アンナの頬はそれでも鮮明に分かるほどに、赤く紅潮していた。

「目、閉じて?」

 言われるがまま、従う。身体から力を抜いて、全身の重心を、自分の後頭部を包み込む枕元に乗せた。

 そして、アンナの唇越しに圧し掛かる湿り気と弾力を、鹿芝自身の唇で受け止める。アンナの、一人の少女の身体が持つ重みが、鹿芝の後頭部の重みと重なって、枕の布地を歪ませる。

 鹿芝の口の中に、唇の細い横一筋の隙間と、顎に沿って上下に生え並ぶ歯と歯の隙間を縫うように流れ込み、溢れる、透明色で粘り気のある質感。アンナの温もりで満ちた、体温の味。口の中で太く、滑らかに、アンナの舌がうねり、唾液腺を吸い上げるように口腔を舐め取られる。

 瞬間、接触した互いの体温と汗と唾液が、粘着質な音をなびきながら引き剥がされて、キスが終わる。

 そうして、繰り返し繰り返し、夜を過ごす日々だった。

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