第33話 1/20
少女は、使用人を引き連れ、玄関先で彼が訪れるのを待っていた。
ロイリア邸の玄関扉が、重苦しい音と共に開け放たれた。真っ白く神々しい逆光が、目の前に立つ少年の影を、彼女の足元にまで伸ばしている。
「あの、初めまして...」
面と向かって発した第一声が、それだった。あまりに声が小さくて、「なんて?」と聞き返されたことを良く覚えている。
「どうして、私に優しくしてくれるんですか」
少女が食卓でそう尋ねると、彼は慎重に言葉を選ぼうと頭を悩ませていたからか、少し間をおいて口を開いた。
「そりゃあまあ、誰にだって優しくしようとはしてるつもり、だからかな」
当たり障りのない返答ばかりが返ってくる。
「私なんかが...ごめんなさい」
「いやいや、別に...え?俺、なんか怒ってるっぽかった?」
数日経って、偶然にも庭先で出くわして気まずい雰囲気になったときに、少女は耐えかねてそう言った。だけど案の定、彼は当たり障りのない方向に解釈したフリをして、受け流してくる。
「あなたは、私のことをどう思っているんですか」
「え?急にそんなこと...えー?どうだろ。なんか唐突に聞かれると、どう答えたらいいのか...」
はっきりと、言って欲しかった。
「日本の学生だった時は、友達、何人いましたか?」
邪魔だと。いるだけで空気を悪くする、邪魔なだけの人間だと。
「え?まあ、そんないないけど...五、いや四人くらい?部活の先輩入れたらもうちょいいるけど。少ないかな?まあ、みんな大体そんなもんでしょ」
「そう、ですか」
ぎこちない言葉を、たどたどしい声音で披露する。イメージ通りに言葉を紡ぐことすら、少女にとっては容易ではなかった。
きっと、誰にも理解されない。本当は人と何気ない雑談をして笑い合ったりだとか、普通の人にとっては当たり前のことをいつか叶えたい人生における目標に掲げているような、そんな、情けない人種。
私は誰とも分かり合えない。そういう星の下に生まれてきたんだと受け入れるしかない。私が自分の気持ちをありのままに表現できない、不器用な人間だから、そのせいで私は疎まれる。
だけど、大多数の人間は私のことを面と向かって責めたりはしない。他人の目があるから。
休み時間に自分から話し掛けるような真似はしないくせに、授業や交流の場で俯いたり黙りこくっていると声を掛けて、上辺だけの優しさを振り舞いてくるような人もいる。気を使って、励ましたりはしてくれるくせに、友達になろうとは誰も言ってはくれない。勝手に人を救った気になって、それで勝手に満足する。本気でその人を支えようだとか、本気でその人の性質を理解しようとは思わない。
中途半端に手を差し伸べて、中途半端なところで見捨てる。暴言を吐いたり暴力を振るったりすることもない。独りぼっちの私を全力で助けようとすることもない。そういう人間が世間からすれば大多数で、そういう人間が私を、私たちを孤独に追いやっている。
そういう、世間一般に溶け込もうとする半端人間、社会や世間から向けられる敵意や悪意の矛先が自分に向くのが怖いだけの保護色野郎が、私の一番嫌いな人種、鹿芝将鐘という人間だった。
「そういや、名前なんていうの」
そのはずなのに。
「蓑藤アンナ、です」
「みのふじ...どういう字書くの?っていうか、それ名字?」
「変わってるって、まあ、良く言われます」
鹿芝は、思っていた人物像とは少し異なる人間のような気がした。
「でも、変わってるのは名字じゃなくて名前の方かも...しれないです。アンナって漢字、安全のアンに和むって書いてアンナだから」
「へえ。なんかいいなそれ」
少女の思い描いていた平々凡々とした人物像とは、何かが違う。
「あなたは、なんでいつも...なんというか少し、挙動不審なんです?」
「えっ」
出会った瞬間からそうだった。鹿芝は、面と向かって会話をするときも、やたらと目が合わないようにしているように見えた。そして、視線のやり場に困った時は決まって視線を天井の方に向ける。
「俺、そんなに挙動不審に見える?」
「いや、気にならなくもないというか...」
アンナの発言に、鹿芝は困惑していた。どうやら思い当たる節はあるようで、少し罰の悪い苦笑いを浮かべながら、彼は顔を背けていた。
「私と話すの、面倒くさいでしょ?時間を無駄にしてるって思うでしょ?」
「え?」
重苦しい沈黙を破ったのは、アンナの震えた吐息と、それに重なって放たれた台詞だった。
「中途半端に優しくするくらいなら、もうずっと無視しててよ。私のことを人間じゃない機械か何かとでも思っててよ。人の言葉の裏とか空気を読んだりとか、察するとか、そんな常識とか当たり前を理解できない私みたいな人種を、陰で嗤ってたって別にいいから...本心から人を助ける気なんてはなから無い癖に、中途半端に手を貸して、中途半端に見捨てて!使い捨ての善意で世間一般の常識人を演じてばっかの茶番の繰り返しで、私みたいな人間を勝手に助けた気になるくらいなら、もう私に何もしないで!おねがい。おねがいだから...」
それがあまりに唐突で、鹿芝は完全に面食らった表情だった。
必死だった。必死に叫んでいた。叫ぶのに夢中になって、自分が何を口走っていたのか、今になってようやく気づいた。まともな主義主張ではなかった。何の根拠も論拠もないふざけた暴論、聞くに及ばない、聞く価値のない下らない本音。
「もう、いいよ」
何の感情の含みもない鹿芝の声音が、俯いたアンナの耳の奥に、窓の隙間から室内へと冷たい風が吹き込むように滑り込む。
不意に、呼吸が浅くなる。緊張が胸の内側を激しく殴り、背中辺りからわずかに滲んだ嫌な汗が肌を湿らせる。
「もう、何も考えないでいいんだよ」
けれど、その声音は、人を責めるような冷たい響きではなかった。
「周りがどうしようがどうなろうが何も考えなくていい。変わろうとしなくていい。人は誰しもが、自分以外の何かにはなれないんだから。周りの人間と同じ環境の中に混ざろうとなんてしなくても、君の考え方とか意見が誰からも理解されなくても、それでいいんだよ」
暖かな、包み込むような、どこか、自分の過去を懐かしむような。
「誰からも理解されないから、理解されようと努力をする。その努力が空回るから、自分を孤立させている環境全てが敵に見えて、目に見える人全員が自分のことを見下しているんだって、被害妄想ばかりが膨らむ」
気がついたら、アンナは顔を上げていた。顎先を、熱い雫が伝っていた。
「アンナも、そうなんでしょ?」
目に見えるもの全てがぼやけて、暖かな熱を帯びる。鹿芝の表情でさえも、半透明に霞んでいて、まるで分からなかった。
どれだけ集まってたかろうと、人間は人間だから。孤独でいようが集団の中に紛れていようが、傷つくし、悩む。人のことを愛したり、理解しようと努力することもある。そう本で読んだ。教科書で教わった。けれど、そう信じることができなかった。
人間という生き物は、どこまでも自分のことしか考えない。他人のことなんて簡単に見捨てる。自業自得だとか、無慈悲に無責任な言葉を吐き捨てて。
居場所を持つことが、友達を作ることが、夢だった。憧れだった。それと同時に、無謀だと自覚していた。クラス替えや席替え、そういった機会に淡い希望を抱いては、それが叶うことは決してないのだという絶望に心が折れて。
ひたすらにその繰り返しだった。
いつかそんな毎日も変わるんじゃないか。自分と相性の合う人間といつか出会って、言葉を交わすこともいつかできるんじゃないか。そう妄想を続ける毎日に嫌気が差すたび、自分の周りで友人と会話する赤の他人に嫉妬して。休み時間も座席に座ったままでいる自分のみすぼらしさに、やり場のない虚しさばかりを感じて。何もせずに、何もできずにただただ無意味に時間を過ごして。
家に帰って、部屋の隅で、誰にも聞こえないように、止まることのない冷たい溜息を零して、学習机に突っ伏す日々。何の感情も抱くことの無い、凍りついたような毎日だった。
涙がずっと、止まらなかった。
(この人の言っている言葉は、無責任だと思う。人の輪の中に溶け込もうとしない人種に中途半端に希望を抱かせるような、無責任で押しつけがましくて、一回きりの、使い捨ての善意で満たされた言葉。本質は、全くそれと変わらないと思う。この男の台詞はそういう類いのもの。でも、何かが少し違う。同情とか、憐れみかもしれない。薄っぺらい正義感かもしれない。でも、理由はわからないけど、それでもいい)
だけど今は、瞼の奥が暖かくて。
(なんでなのか、自分でも説明がつかないけど、信じてみたい)
そのせいで、涙がずっと、止まらなかった。
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