第32話 1/19 第四章・使い捨ての善意

「さて、どうしよう」

 鹿芝は、真上をただ茫然と見上げた。

「俺、本当に人を殺したのか?」

 その身からは、赤黒い色彩に覆われた翼も、鎌のように捻じ曲がった鋭い両指の爪も姿を消していた。血に汚れたワイシャツとズボンを身に纏った姿で、鹿芝は立ち尽くしていた。

「なんか、実感湧かないなあ」

 人を殺めるという、人類史に刻まれたどの時代においても何かしらの禁忌に触れるであろう行為を、たった今、犯したというのに。

(自分でも気持ち悪いと思うほど、なぜか今は落ち着いている)

 胸の上に掌を押さえつけて、その奥で脈打つ鼓動に触れる。その音や感触と共に、今、自分の身体には血液が巡っていて、この身体の生命を存続させている。

 何度も、今度こそ死に至ったと確信したときでさえも、この身体には当たり前のように血が巡っていて、この命を生かしている。

「もう、何もしたくないな」

 そう正直に本音を告げて、雲の浮かぶ空に向けて吐きつけたところで、何かが起こる訳でもない。ただ、流れる風が全身の輪郭をなぞるように、鹿芝の身体を撫でるだけ。


―—...お...ね


 その時、微かに何かの声音が鹿芝の耳に入って聞こえた。


―—...が...い


 それは、風が吹けば掻き消されるほどの、一匹の羽虫が鳴くような微細な声量だった。


—―おねがいだから。


 不意にはっきりと、脳に重く声が響いた。

 この場にいるペインの声じゃない。不透明な記憶、忘れ去ったはずのその声に、脳の奥深くに眠る思い出に、鹿芝は耳を傾けた。

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