第30話

百岐大蛇ヒャクマタノオロチ

 背中から翼を出現させその内側から、百に及ぶ本数の鎖がその先端に短剣を携えて、飛翔する。黒髑髏くろどくろを真正面から覆い尽くさんと、鉄のなびくジャラジャラとした音。鎖の残像が視界を、金属質な灰色のクレヨンで一心不乱に塗り潰したかのように駆け巡る。

「へえ」

 ペインは感嘆の声を漏らし、僅かに頬を緩めた。

(刃を、弾く)

 鹿芝の放った思念に呼応して、鎖は真っ直ぐ空を切り、時に旋回を経て屈折を繰り返す。数十に及ぶ白骨の腕、それが握り締める重く太い刃と鎖が交錯し、火花を打ちながら弾き落とされた包丁が七、八本ほど宙を舞った。

 しかし、数十もの白骨の腕から武器を数本奪ったくらいでは、攻撃の手は緩む気配すらない。白骨の腕の振るう斬撃は辺りを舞い踊る鎖を一斉に斬り裂き、鹿芝の攻撃手段は呆気なく相殺された。

 故に、白骨の腕の放つ斬撃の脅威は衰えず、無数の軌道に沿って描かれたそれは一秒のうちに三度ほどは皮膚を薄く裂いていた。刃が空気を薙いだだけで皮膚越しに伝わる震動が、軌道に沿って過ぎる屈強な輪郭の描く残像が、その威力を物語っている。

「そろそろ、だね」

 ペインが声を発した。

 鹿芝の左の肩を包丁の刃先が捉える寸前、咄嗟に翼の内側から放った鎖で白骨の腕を巻き取って、糸で結ぶようにして空中に拘束する。左肩に振りかざされていた刃が静止し、鎖に締め付けられてギチギチと音を立てて揺れる。

 あと寸でのタイミングだった。あと少し、反応が遅れていたら間違いなく直撃を喰らっていた。そう確信させられた、刹那。

「もう、限界かな?」

 鹿芝の頭上から五本の白骨の腕が、手元に包丁を携えて真下へと急降下してくる。

(躱せない)

 それは、黒髑髏の口腔内に広がる闇から突発的に姿を現したか思えば、目と鼻の先まで接近していた。鹿芝の視覚で認識する余裕もなく。先程までよりも、更に一段階上乗せされた速度で。

「さようなら、将鐘」

 上空を見上げた鹿芝の視界の中に、土砂を突き破って生え伸びた草花のように吹き上げられた血液の筋。それが粒となってばらけ、額に落ちて、瞼の上に滴って、顎下まで滑り抜ける感覚。

 左右の腕と上半身の奥深くに、身体中の水分が一瞬で蒸発するぐらいの灼熱が広がって、指先の感覚が、皮膚越しに空気に触れている感覚の全てが跡形もなく消えて、失っていく。

 そう曖昧な錯覚と共に意識が遠退とおのくような、激痛。

 けれど、それこそが最大の好機。

「修復」

 そう呟いたのは、意識を手放す寸前だった。

 翼の内側に帯びている赤黒い色彩一面中に、その生命力を誇示するように碧く発光する筋が網目状に張り巡る。数秒遅れて、碧い光は鹿芝の全身を循環し始め、やがてその強さを強め、身体中を覆っていく。鹿芝の全身を象る輪郭全てを光が飲み込んだ刹那、それは目まぐるしく明滅し、音もなく消失した。

 身体中に浴びていた傷は、消えていた。地面に散らばった血液や臓物すらも皮膚の内側に健在なその姿を蘇らせ、皮膚の上には痕の一つもなく、荒かった動悸をも完全に修復した。

 仰向けのまま、気絶しかけていた鹿芝の瞳が、それまでの痛みを忘れて真っ直ぐ青空を見据えた。

「治っ、た...?」

 ペインの声音から、表情から初めて、驚愕の色が滲んだ。明白なまでのものではなく、ただ、その目が普段より大きく見開かれたというだけのもの。

 けれど、確かに不意を突いていた。

(あれ...?)

 そう心の中で呟くペインの視線の先に、鹿芝の姿はない。真正面に掲げる掌の先にある、黒髑髏の奥に、鹿芝はいない。

「腐食呪印・爪痕」

 ペインの背から飛び散る鮮血の吹き荒ぶ様が、足元を埋め尽くす白骨の群れに打ち付けられる粘着質な音が、響き渡る。背中から散り散りに裂かれて、ペインのワンピースは赤く血に染まっていた。

(背後に回った...なるほど、凄いよ。やっぱり、将鐘は凄い人なんだね)

 だが、他ならないペイン自身の肉体が自覚させる。この程度の傷では、致命傷には至らない。

(でも惜しかったね、将鐘。あなたの与える傷では、私を殺せない)

 そう理解した頃には、正体不明の気配がペインの脳の奥から目覚める。記憶という鮮明な代物などではなく、ただ名残惜しく、魂の根幹部分に誰かの手で刻み残された純粋な感情。人を好きだという想いと、誰に向ければいいのか知りようのないほど、救いようのないほどに深い、憎悪。

(私の心に残された痛みが、私を死なせてはくれないから)

 ペインの背中から、感じていたはずの痛覚が抹消される。限りなく白に近い肌色の張り巡る、滑らかな背の輪郭。

 傷を受けたはずの背中は、その瞬間に元の状態に戻っていた。

「今のあなたでは、私を殺すことはできない」

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