第29話

 身体の節々から、火種が炎熱を帯びて灯りを放ったように痛みが走る。同心円状に蹴られ、殴られた時のような打撃の感覚が広がり、筋肉と骨が軋む感覚までもが鮮明に、鼓動と重なって循環する。

 それと同時に、全身の皮膚の表面から浅く血液が滲み、四肢を伝って流れ出る。

(何が起きた?)

 目の前に、ペインは立っていた。爪で刻まれた傷跡は全て消えていて、嘘のように息をしている。自らの血で身体中を塗り潰されたはずの肌は白く、ワンピースに血の色は付着しているが、少し乾いている。彼女に鹿芝の身体を殴ったり、蹴ったりしたような動作の余韻よいんは見られなかった。

(確か、そうだ。目が合った瞬間、気絶したんだ。その間に、やられた?)

 ペインは無表情ながらも頬を紅潮させたまま、徐々じょじょに息を荒げている。だが、まだその興奮と鹿芝に対する歪な欲求が枯渇する気配はない。冷静なまま思考に浸っている余裕は、鹿芝にはなかった。

「足りないよ、将鐘。もっと、この時間をもっと長く続けていたいよ」

 視界の中央からペインの姿が消失した刹那、石畳を蹴り進む靴音が鹿芝の周囲をめまぐるしく蹂躙じゅうりんする。

「もっと、感じて」

 鹿芝の身体が、上空で幾重にも円を描いて回転していた。

「同じ痛みを」

 上半身に一つ大きく穴を開けられたかのように感じていた。内側から血肉と皮膚を引き裂いて溢れ出るほどの痛覚が、たった一呼吸を挟むことすら重苦しく塗り替えていく。

「同じ時間で、同じ場所にいることを全身で味わって」

 ペインの爪先が鳩尾みぞおちに刺さっていたという感覚が、その実感が、遅れて脳の深くに到達する。

「二度と、あなたの記憶が再び消えたとしても忘れないように」

 石畳を砕き、跳躍する音が鹿芝の真下、地上から響いた。それを理解した瞬間には、もう、ペインの放つ蹴りを待ち受ける余裕すらなかった。

(痛い。声が出ない)

 鹿芝の背中に、布地が熱くれて散り散りになっていく、摩擦の感覚が走る。そこは今朝まで、他ならない自身の視覚と嗅覚がラベンダー畑の姿を映し出していた場所、偽りによって彩られたお花畑。

 バラバラになった手足や胴体と頭、人もそれ以外のものも雑多に撒かれた、白骨で塗り上げられた地面。そのど真ん中に鹿芝は背中から着地し、そのまま受け身すら取れずに滑り込んでいく。

 あまりに一瞬で、今、自分がどうなっているのかも良く分からない。

「そろそろ、終わりにしようか」

 白骨の群れに降り立ったペインに、視線を向ける。物とピントを重ねることすら、思うようにならない。

「第一地獄門・黒髑髏くろどくろ

 真っ直ぐ、鹿芝へと伸ばされたペインの右手の平から、華奢な身体にちなんで少し小さく映る五指の付け根辺りから、焼け焦げた灰の塊のような煙の筋が無数に噴き出す。

 黒くもうもうと空中を塗り上げていくそれは、風穴に巻き取られる台風の目のようにうねり出し、ペインの視線の向く中央、一点に凝縮される。やがて、ロイリア邸の丈の半分を超すほど膨大な、漆黒に塗り染められた人骨の頭部を象った。

 無意識のうちに、鹿芝は喉元で音を鳴らして唾を飲み込んでいた。

「将鐘、いくよ」

 黒く一色で彩られた髑髏どくろが、下顎で大地を抉るかのごとく大きく口を開く。一瞬にして鹿芝の視界の半分以上を占有した、黒髑髏くろどくろの口腔。そこから覗く先には確かな奥行きがあるが、視えない。上空に日の昇っている現在であろうと、その空間の内部に潜む物の輪郭すら一辺たりとも認識不能の闇。

 直後、黒髑髏くろどくろの口の中から、張られた漆黒の膜を突き破るように闇の奥深くから、無数の何かが頭身を覗かせる。

(包丁?)

 影で埋め尽くされた口腔から無数の包丁がその先端を覗かせ、鋼が陽光を弾いて光らせていた。

 その光景を視界に収めて瞬きを一つ、挟んだ刹那。

(あれ?)

 鹿芝の左右の腕と足に張り巡る皮膚の奥から、断裂した筋繊維が弾け飛ぶ音色と同時に血飛沫が舞い上がった。

「ああぁっ!!」

 声帯がちぎれそうなくらい、叫びが喉を焼く。振りかざされた刃が四肢に、そこの芯として通る骨の周りに敷き詰められた血肉の内側を入念になぞって斬撃を織り成し、付着した液体を雫にして刃先から垂らしていた。

(なんだ、今の...)

 黒髑髏くろどくろの口腔内部から十や二十もの数を引き連れて現れたのは、幹の細い針葉樹のように生え伸びた白骨の腕だった。血も肉もなく、骨の白さが陽を照り返す巨大な人の腕。

 その先端にある掌と五指で刃の太い包丁が堅く握られ、腕で振るったというよりはハエか何かが目と鼻の先を駆け抜けたかのような速度で、重い斬撃が音もなく襲い掛かってきていた。

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