第28話

「禁呪・蛇ノ目衿華ジャノメエリカ

 鹿芝がそれを唱えた刹那、即座に背中から両翼が姿を現し、さながら翻ったマントの如く全身を包み込み、全身の輪郭が赤黒い色彩で塗り潰され、迸る殺気に身を任せて肉体を変貌させる。

 頭部に鳥類さながらの輪郭を纏い、背に生え揃った青と緑の入り乱れた色彩の骨格が目を引く姿。鎌のように曲がった、細く鋭い四本爪を携えて、その紅い眼光に殺意を宿している。テルボーらを腐食で殺した際と同様の形態である。

「さあ、おいで」

 ペインの手招きを皮切りに、地面を蹴り進む音が辺りに響いて、宙をも振動で揺らす。砂ぼこりが眼前を散って、鹿芝の背後を漂う。互いの距離が狭まっていく。

「引き裂いて、殺し尽くす」

 心の奥底から湧いた言葉。目の前の人間を殺したいという純粋な心情のまま、振り上げた右手に伸びる爪を、ペインの頭頂部へと直線を描いて下ろす。

 しかし、ペインはフッと笑みを溢して、身を反らした。その動作は、認識するのもやっとの速さだった。並みの人間の身体能力ではないと瞬時に理解させられる、身のこなし。

(何も考えなくていい。闇雲に殺意をぶつけるだけでいい。余計な思考を挟むな)

 自分の肉体に、全身を巡る血管の中をひしめく脈動に、それを命じる。目の前の石畳から薄い青一色の空へと視線を投げた直後、上空を向いて全身で空を切る。

「凄い。見えなくなった」

 そう言葉を溢すペインの視界から、鹿芝の姿は無くなっていた。あるのは、空を駆け抜ける不明瞭な残像のみ。どこから仕掛けてくるのか、それを悟らせる気配のない、宙を駆ける俊足。空中を地面のようにして走り抜ける様はさながら、水面の上を足で踏む忍のようだった。

「けど、そこにいるんでしょ?」

 狙い目は、首筋。字面で言い表すことのできない驚異的直観が、ペインの背後から首筋を狙う鹿芝の居場所を捉えた。

 鹿芝の振るった爪の軌道を、またしても身を反らして躱すペイン。

「もっと」

 ペインがそう声を漏らすのにも気を留めず、鹿芝は脚に力を込め、石畳に亀裂を刻んだ。真正面から相手へと、殺意の向く対象物へと接近する。

「もっと、見せて」

 紅潮するペインの頬が緩み、その全身から人としての枠組みを外れた異物の気配が沸き上がった。

(なんだ...?)

 だが、それは些細な違和感でしかない。足を止める理由にはならない。

(いや、相手が何をしてこようが、それより早く殺せば何であれ問題はない)

 右から斜めに斬り上げた四本爪の先端が、ペインの頬を掠めて鋭利に空を切る。飛散した血の粒が、ペインの顎先を滴って鹿芝の靴の先端に落ちた。

 しかし、即座にペインは背後に跳び退き、五、六メートルほどの距離を取った。

(隙を与えず、息を吐く余裕を与えず――)

 翼が空気を震わせ、その全てを推進力へと変換し突き進む。重心を傾け、肩を唸らせ爪を振るう。返り血の熱を指の付け根まで深く浴びて、赤く纏いながら繰り返し、両腕で目の前を薙ぎ払い続け、やがて呟く。

「腐食呪印・爪痕」

 ペインの全身に刻まれた乱雑な爪痕から一斉に、四方八方に噴き出した鮮紅色が空中で弧を描いて、一面中の石畳を濡らす。撒き散らされた、血の臭い。赤く液体の熱で染まった表情は、笑っているのか痛みに悶えているのか、もはや判別は出来ない。

 だが、ペインの身体の輪郭は未だ、人の形を保っている。

 皮膚すら完全に失うことなく残っている。

 まだ、息の根がある。

(――そして、可能な限り苦しませ、可能な限りの痛みを与えて)

 仰け反って、背中から倒れ込もうとする人の形をした標的に、ありったけの殺意を込めて。

「殺す」

 鹿芝の脳内で、ギルの姿が浮かぶ。

 初めての実践的な稽古の際に彼が放った、腹部の骨を衝撃で圧し折った、蹴り。右と左の手の指先、足の爪先から踵にまで、身体中に走る、一瞬で湧いたイメージを己の全てで体現する感覚。

 空想上のギルの動作と、鹿芝の肉体の動作が、今この瞬間に重なる。

「砕け散れ」

 ペインの腹部の奥底で、鈍い音が重なって鳴る。臓器を血に浸して歪ませ、肋骨あばらぼねの砕かれるその衝撃に身を任せ、四肢を投げ出しながら放物線上に体躯が舞う。

 そのまま重力に逆らうことなく、落ちた。重苦しい吐息と、宙から飛沫となって零れ落ちる噴水のような鮮血を喉の奥から漏らしながら。

「すごいね、将鐘。あの頃よりずっと、成長している」

 仰向けになって傾けた口の端から赤黒い濁流が溢れ出る。鹿芝は仰向けに寝転ぶペインの、瀕死に等しいその形相を上空から見下ろした。

(これで、もうすぐ死ぬ。けどなんだ...?さっきの違和感が、まだ...)

 鹿芝のその視線と、ペインの声と共に放った視線が重なった。ペインの瞳の表面に浮かぶ、鈍い鮮紅色に呑まれた歪な色彩の中に、全身の感覚が吸い込まれていく。

「でも、足りないよ」

 脳天に響くような、身体中から一瞬にしてその体温を抜き取られたような、眩暈めまい。それを認識した頃には、目の前はただ真っ白く塗り潰され、自分が今生きているのか死んでいるのかさえも良く分からなくなっている。

「君を、もっと知りたい」

 ペインのその声で、目覚めた。

(あれ?)

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