第27話
相手の頭数は計十八体。視界からその情報を抽出して、少し呼吸を挟み、鹿芝は怪物の接近を待った。
(どうして)
踏み込んで、怪物の振るう爪の軌道から弾かれるように身を反らす。
藻掻くように口元から殺気立った熱い湿り気を漏らす、周囲を舞う怪物の群れ。全方位から鹿芝を包囲する彼らは一心不乱に爪の斬撃を宙に描き、絡まり合う糸のように交錯させる。
(どうして、フィアが死ななければいけないんだ?)
だが、その全ては摩擦を度外視するかの如き滑り抜けるような鹿芝の足取りによって―—農村の廃墟で鹿芝と対峙した襲撃者の動きを無意識下において再現して―—皮膚と血肉を裂く寸前で躱されていた。
(フィアは俺という人間を、初めて認めてくれた)
靴底を摩擦で抉るように石畳を蹴り抜いて跳躍し、放物線上に舞い上がった全身の重心を爪先一点に向けて、怪物の側頭部を蹴りで穿ち、粉砕する。その一秒にも満たない瞬時の動作を踏み台に、空中に佇む周囲の怪物の胴体目がけて弧を描いた踵の先端で巻き込み、その腹部を炸裂させる。
(初めてだった。身体中が熱くなる感覚も、恋をしたのも)
翼で宙を舞う怪物の身体を足場に付近の怪物の肉体を蹴り砕きながら、その背に飛び乗る。その繰り返しが絶え間なく続いて、終わった。
鹿芝は、血流で塗り潰された地上に降り立ち、大きく息を吐いた。
(フィアといれば、幸せになれるんじゃないかって、思っていた。でも全てが、妄想で終わった。俺が求めていたのは、空想上の幸せだった。最初から、何もかもが偽物だった)
その瞳には、人間の情緒と思える全てが掻き消えて。
(最初から、そこに、花なんて咲いていなかった)
色のない真っ新な眼差しだけが滲み、映し出されていた。
「教えてください、ペインさん。フィアは、フィアはどうして死んだんですか」
「弱いからだよ」
ペインの反応は、淡々としていた。感情の揺らぐ気配が無かった。
「フィアは弱い。弱いから死ぬ。それだけの話だよ。そもそも人の死なんて、誰にだっていつだって起こり得る。みんな平等にいつか死ぬ。限りなく公正公平に、みんな死ぬ。だから人の死なんて早くても遅くても何も可哀想なことでもないし、人の死を侮辱しようが
ペインは無機質で冷徹な笑みを浮かべて、音を立てず呼吸する。普段と何ら変わらない仕草には違いなかったが、どこか、この状況を楽しんでいるかのような、不敵に映るような微笑みだった。
「フィアのことを考えたところで、思い出したところで、泣いたところで、フィアを穢した私を殴って蹴って斬り刻んだところで、何もできないのだから」
鹿芝は、拳を堅く握りしめていた。
無意識にそうしていたことにも、気付く余裕はなかった。
「ただそれはあくまで、普通の人間ならの話だけどね。でも、君は違う。君だけは違う」
そのまま真っ直ぐ踏み込んで、迷いなく、ペインを殺すつもりだった。
「だって君は、強くていい人だから」
思考が止まった。
「何事も君が決めていい。我慢しないでいい。迷わないでいい」
今、ペインが口にした台詞は、真っ白く染まっていた夢の中でフィアの発した言葉とそっくりそのままだった。
少なくとも、最初の一文だけは。
「君は強くていい人だから、君と同じいい人が決めた規則や約束を守ることのできない悪い人を、好きなだけ、好きなやり方で殺し尽くしていい」
ペインの口調は、まるで幼子を諭すようだった。
「強さとは、何が正しいのか、何が間違っているのか、その価値基準を思うがままに捻じ曲げるための権利なんだよ。自由でいい。身勝手でいい。この世界に、君の暮らしていた地球上のどこでもないこの世界にルールなんてない。もう、人の目なんて気にしなくていい。周囲と同じ行動を真似なくていい。だからね、将鐘。あなたのありのままを、私に見せて」
はっきりと、感じる。感じられる。
「あなたは、何を言っているんですか?」
欲求と理性が、拮抗しているという事象を。明確な理由や大義名分が無ければ人間の行動は成り立つべきでは無い。そんな倫理と呼べるものなのかも分からない思想が、欲求に歯止めを掛けているのが分かる。
「違うよ、将鐘」
けれど、ペインは変わらず笑みを浮かべたまま、迫ってくる。
「何を言っているか、なんて聞き方は間違っている。私には分かるよ。君が、私にどんな言葉を言って欲しいのか。君が、私にどんな台詞を望んでいるのか。君が、私にどういう役を演じて欲しいと渇望しているのか。私には、とても良く分かる。とても良く理解できる。だから、君は今から私の言うことだけを頭の中で考えていればいい。今から私の言うこと以外の、邪魔な理屈や意志も全て捨てていい」
ペインの吐息が、鹿芝の耳元に当たって。
「私が、フィアを殺した」
一瞬にして、鹿芝は思考も躊躇をも失くした。
―—相手を、人間だと思うな。
その言葉が脳の奥で、果てしなく響いた。
ペインが自分と同じ人であることによる、躊躇。倫理観などという曖昧で不明瞭な代物ではなく、同族を殺めることに対する明白な抵抗感、本能によるものだった。けれど、そんなものはたった今、この激情に比べれば遥かに下らない代物に過ぎない。
「自分と同じ人間だと思うな。相手を殺すことに大義名分を求めるな。相手が死ぬことに理由を求めるな」
鹿芝は、声に出して呟いた。
「相手を死なせるためだけに今この瞬間の全てを掛けて、自我を、自分の良識を、自分自身を殺すだけだ」
全身を滾る激情に、強く念じた。
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