第26話

—――死まで、あと一日。


「もしも、私が死んだらさ」

 太陽の光がただ真っ白くて、その奥で一面中に広がる青空をも塗り潰している。

「自分のことを、許してあげて。作り笑いでいいから、笑って」

 不可思議な光景だった。

「だって君は、強くていい人だから」

 自分が今、どこにいるのかが分からない。

「何事も君が決めていい。我慢しないでいい。迷わないでいい。誰かのために生きなくていい。君が幸せになるためだけに生きていい。誰かを助けないと人は幸せになれないだなんて、不憫過ぎるよ。幸せになることを諦められないから、人は生きてる。正しいことだけをし続ける人生なんて、君にとっての幸せにはならないと思うよ」

 視界は白色で満たされていてフィアの身体と衣服の輪郭以外まともに認識することも叶わない。

「人は誰だって間違える。どうしてあのとき自分は間違えたんだろうって悩むことは大事なことだし、必要なことだと思う。マサカネはたぶん、一度悩み始めたら自分が正しいと思える答えを出さないと気が済まないんだよね。間違いを間違いのまま放っておくことが、例えそれが自分に対してでも許せないんだよね」

 フィアの表情が、フィアの双峰が、薄く開いた瞼の隙間から覗いているのが分かる。

「確かに、間違いを正すことは大切だよ。だけど、間違いを許すことは、それよりもずっと大切なことだって、私は思う。だってこの世界で間違ったことをできるのは、人間だけだから。心があって、欲求があって、夢があるから、皆どこかで間違える」

 その笑顔も優しい眼差しも、普段と変わらなかった。

「君だって、同じなんだよ。人を大切に思う心がどこかにあって、幸せになりたいっていう欲求がどこかにあって、叶えたい夢が、なりたい自分がどこかにあるから、君は一人の人間として今、生きている。君は、生きてていいんだよ」

 なのに、それら全てがはっきりと映らない。 

「それと...聞こえていないかもしれないけど、言うね」

 全てが不鮮明なまま、真っ白い光に包まれている。

「君が失った大切な人の記憶のぶんだけ、いつか私が君を幸せにしてみせるから」

 その声も、姿も、笑顔も、その全てがやがて少しずつ、掻き消されて。


―—鹿芝は、目を覚ました。


 小鳥の鳴く声が、雑多な方角から煮え立つように点々と聞こえる。窓から覗く青い空を満たす朝日が瞼の奥へと薄っすらと熱を挿して、視界を焼くように照らしていた。

 そして、目を開けたそのとき、視線の奥にはフィアがいた。その表情も眼差しも、確かに本物だと瞬時に理解できた。

「フィア!」

 けれど一回の瞬きを挟んだ刹那、その姿は跡形も無く消えて。

「気の...せいか...」

 反射的にベッドから身を起こしていたことに気づき、溜息を吐きながら寝室を見回す。

 ロイリア邸を訪れたその日は、慣れない場所のせいで上手く寝つけなかったこともあった。だが、三日四日と夜を明かすうちに、部屋に充満する初めての香りや情景も今や安心感を覚えるまでになっている。

「もうギルは、屋敷から出ていったんだよな...」

 寝間着から相変わらず使い回している学生服に袖を通し終えて、鏡の前に立ったまま欠伸あくびをかいていると、扉の向こうからコンコンと鳴ったノックの音二つが寝室の中に響く。

「将鐘。今、いい?」

 ペインの声だ。

「ペインさん?ああ、はい。どうぞ」

 反射的に身構えた鹿芝は、一呼吸置いてドアノブを握って、扉を開ける。その向こうに立つペインは、普段と全く同様の無機質な笑みで鹿芝を見上げていた。

「一緒に庭を散歩しよう」

「え?散歩?」

「そう。君の知りたいことを教えてあげようと思って」

「知りたいこと、って?」

「フィアの居場所だよ」

 鹿芝は咄嗟に、ペインの肩を掴んで前のめりになっていた。

「フィアがどこにいるか、知ってるんですか!」

「うん」

 そう呟いて、ペインは淡々と続ける。

「知りたいなら、一緒に来て。着替えてからでいいから」

「分かりました」


―—それから、数分が経った。


 屋敷の正面扉の奥に踏み出すと、そこには等間隔で両脇に植えられた並木に挟まれた石畳の道が続いている。初めてこの屋敷に訪れたその瞬間に嗅いだ、どこか懐かしく思えるラベンダーの香りの充満する空間をペインの隣で歩いた。

「君と初めて会ったときに言ったこと、覚えてる?」

「えっ?」

 不意にそんなことを問われて少しばかり戸惑ったが、鹿芝はすぐに心当たりのある言葉を思い出した。

「ああ、覚えてます。確か、庭のラベンダーを摘んじゃいけないって話ですよね」

「うん。今、君が見ているラベンダーは、知られちゃいけないものを隠すために私が植え付けたものだから」

「知られちゃいけないものって、なんですか?」

 そう尋ねると、ペインは立ち止まり、その深い色合いと感触のある黒地のワンピースの懐から、縦長の紫の花弁を風の流れに身を任せるように沿って揺らす一本のラベンダーを取り出した。

「この花に触れて、よく匂いを嗅いで。その感覚を脳の奥深くまで焼き付けて」

「え?」

 何が始まるのだろう。

 そう疑問を浮かばせながら、鹿芝はペインからラベンダーを受け取り、目の前に近付ける。そのまま十数秒に渡って、花弁の色彩と香りを吟味する。

「この物の名前は分かる?」

「ラベンダー、ですよね?」

 滑らかな感触と、鼻の奥で膨らむような香りも、間違いなくラベンダーだと思った。

 けれど、僅かに感じる違和感が本能の中、脳の奥でくすぶっている。

「そうだよ。それが本物」

「本物、って?」

「もう一度、一面中に広がるお花畑のあった場所を見てごらん」

 その瞬間、目の前に広がる情景の正体が分かった。敷地には、ラベンダーなど咲き誇っていなかった。

「え?これ...」

 心音が焦燥を鳴り響かせ、息を荒げさせた。

 視界の中を埋め尽くしていた鮮やかな景色、どこにも存在しないラベンダーの形と色で作られた幻が、瞼に遮られた視線が色彩を灯して瞬くと同時に剥がれ落ち、そこにあった本来の姿を曝していた。

「骨?」

 そこには、手、足、胸、腹、頭などの部位を象り、バラバラに散らばった無数の生物の骨が、野ざらしのまま地面の土色を塗り潰すほどに撒かれていた。中には、節々が歪に隆起していて、明らかに人間のものではないものも混ざっている。

「私は、屋敷の敷地内にいる人間の視覚や嗅覚などといった五感を幻術を用いて操ることができる」

 何の生物なのか分からない骨の数々、何百、何千にも及ぶほどの腐りかけの白い残骸がラベンダー畑にあったはずの場所に敷き詰められ、立っていることすらままならなくなるほどの異臭を放ち、沈黙していた。

 鹿芝は膝から崩れ落ち、何もできずただ意思を喪失していた。口元を抑え込んで、何度も繰り返し咳き込みながら。嗅覚が捻じ曲げられそうな感覚を味わいながら、涙が眼球の奥深くから溢れ出して止めどなく、零れ落ちていく。

「フィアは、自分は花が好きだって君に教えていたよね。よく覚えているよ」

 その様子を気にすることなく、ペインは話を続ける。

「私の見せる幻にはこれといった発動条件が無い代わりに、一度見破られてしまうと二度と通じなくなるから、なるべく気付かれないように工夫をしているんだ。例えば、何もない場所に何かの幻を作ったり、何かが置かれている場所をあたかもそこには何もないように幻で演出しても、違和感が生じやすいためかすぐに気付かれてしまう」

 口元を抑えながら、絶えず涙を溢しながら、荒ぶった呼吸を加速させる鹿芝の隣に、ペインがしゃがみ込む。

「それと今実演したように、実際の物の感触や匂いを感じた直後は、それと同じ姿形の幻で作った偽物は簡単に見破られてしまう。あと、動きの激しい生き物も擬態させるのは難しいね」


――ラベンダーが生き物の骨に姿を変えた。


 紙の上で字面じづらに起こせば一行にも満たされないような簡単な事象に、身体中の全神経が引き千切られそうになるほど混乱が膨れ上がっている。

「色合いの強いものを幻で隠すなら、強い色合いのあるものに擬態させた方が隠しやすい。匂いが強いものを隠すには、強い匂いのあるものに擬態させた方が気付かれにくい。だから、色がはっきりしていて生物特有の臭いの残る遺体の骨を隠すなら、色も匂いもそれなりに強い花は、その隠れ蓑として非常に最適なんだ」

 焦燥感が、身体中の血管を張り裂くほどに脈を打ち、頭蓋の内側でいつまでも渦を巻いていた。

「花は汚いものを隠すのに都合がいい。だから、私も花が好き」

「なんで、こんなものを...俺に、見せたんですか?」

 鹿芝は腹の奥から這って昇りながら唸るような吐き気を堪えながら、か細く言葉を紡いだ。

「君の望んだ場所に、連れてきてあげただけだよ」

「は?」

 ペインはその人差し指を、骨に塗れた地面へと向けて、告げた。

「君の目の前に、フィアはいるよ」

 全てが、止まる。この世界が、時間が止まったかのように、思考が滞る。


―—意味が分からない。いや、分かりたくない。


 言葉の意味を理解しようとして、不意に、身体中が震えていたことに気付く。

「え?いやそんな...そんな、どうして...」

 悲哀なのか、憤怒なのか、困惑なのか、明白に分類することのできない感覚だけが、鹿芝の身体の中を満たしていた。

「知りたいかい?」

「いや...そんなん知って、どうなるんだよ」

「知ることは、とても大事だよ。君が見たもの、触れたもの、聞いたもの、食べたもの、嗅いだもの。君の感じるそれら全ての姿形は、他ならない君自身の脳味噌に蓄えられた主観や先入観によって歪められた、ありのままとは程遠い代物でしかない。人間という生き物がもっと純粋無垢で、何の思い込みも持たない生き物だったなら、物のありのままの姿を見通すことが出来たなら、そもそも私ごときの幻術に惑わされることなんて決して有り得ないんだ。何が普通で何が常識なのかを知ったごときで全てを理解したフリをしているせいで人は、心というものを永遠に理解できずにいる」

 何かを思考することもできないまま、この感情の正体すら自分でも分からないまま、鹿芝は咄嗟に立ち上がっていた。

「ねえお前...ねえお前馬鹿なの?そういうのどうでもいいよ。御託並べるくらいなら黙れよ。フィアはどこに行ったんだよ。なんでこの骨の中にフィアがいるって言えるんだよ!」

「その答えなら今、正にこの瞬間に幻覚を破った君になら分かるはずだよ。ここにいる私の下僕たちも、見えるようになったんじゃないかな」

「下僕?」

 背後を振り向いて、鹿芝は目を見開いた。石畳の道の両脇に並んでいたのは、樹木などではなかった。

「なんであの化け物が、ここに...」

 平べったい両翼を背負う瘦せこけた骨身と、突き出た爪と嘴。鹿芝が何十も屠った容貌を、彼らはその全身に纏っていた。

 ふと、視線の奥で対峙する一体の怪物と目が合って、気付く。その瞳の色が、鈍い鮮紅色に呑まれた歪な色彩で、ペインと同じ瞳の色で染まっている。

「彼らには幻術が上手く作用するよう、暗示を掛けてあってね。食事や排泄はいせつなどの生きる上で必要な行為をする時以外は、彼らはその場から動けない。そしてこの暗示は、肉体に強い衝撃を加えないと元に戻らない。それも通常の生物にとっては致命傷を負うほどの衝撃でなければ目覚められないから、その効力は半永久的に持続する」

 怪物たちの放つ異質な気配、無機質な殺気。

「そして彼らには、幻術で作ったラベンダーを摘み取ろうとしたことなどによって、それが偽物であることに気付いた敷地内にいる私以外の人間を、喰い殺すように命じてあるんだ」

 ペインがそう言い終えるや否や、怪物たちは翼を広げ、その肢体が鹿芝を視線の先に捉えて一斉に加速する。

「さあ、君の力を見せて」

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