第25話

 時刻は、午後八時過ぎ。この日の戦闘訓練は前日のように脳天に穴を空けられるなどといったことは無く、無事終了した。

 夕食を終え、暇を持て余していた頃、ギルは夜の散歩に誘ってくれていた。涼しい風と情景が安らぎを与えてくれる心地の良い空間を、ギルの隣で並び歩きながら堪能していた。

「なんか、夜の草原って思った以上に暗いな。星は綺麗だけど」

「ええ。俺は、この夜空の風景が気に入ってます。俺はもう、明日の明け方にはこの屋敷から出ていかなくてはなりませんので、最後にマサカネ様にも是非、楽しんでいただけたらなと思いまして」

 面と向かって言われるとこそばゆくなりそうな台詞を、ギルは真顔のまま堂々と告げていた。照れ隠しでも何でもなく、その横顔からは緊張している様子すらも見えなかった。

 純粋に、この夜空を楽しんでいるように見えた。

「あー、なんか意外だな。ギルにしては粋な計らいっていうかさ。でもどうせなら女子に誘って欲しいよなあ、こういうの。まあ、夜の散歩って気分上がるし全然楽しめるけど」

 毎日のように、模擬戦闘訓練のために訪れていた野原。普段は明るく眩しい、陽光に飾られた鮮やかな色彩は、夜闇一色に染まっていた。昼なら白い雲も、部屋の隅に溜まった埃のような黒ずんだ色をしているし、物の輪郭が不鮮明な分、見える景色の印象も同じ場所のはずなのに様変わりしていた。

「なんで、俺の身体から翼なんて生えたんだろう」

 自分でもよく分からないまま、なぜかそんな問いを溢していた。

「おそらく、マサカネ様の背中に宿る翼は、他者から受け継いだものだと思われます」

 ギルが歩幅を合わせながら、そう言う。

「あー、やっぱりそうなのか」

「やっぱり?」

「俺さ、たまに変な夢見るんだよ。最近は割と収まってきてるんだけど」

「夢、ですか」

 鹿芝は押し黙って、記憶を脳内に巡らせて、やがて呟いた。

「なんていうか辺り一面血だらけで、どこまでも、その場所は永遠に血に染まっていて、そのまま言葉を失っていると、その血が勝手に動き出して、俺に近付いてきて、言ってくるんだ、お前を殺すって」

「それはまた、奇妙な夢ですね」

 ギルが物静かで落ち着いた声音で、相槌を打ってくれる。

「そうだよな。でもさ、そいつが俺に翼を与えたんだと思う。それに、あの声、聞いたことがあるような気がするんだ。一度だけ、夢の中でその正体を思い出した気がしたのに、目が覚めたらもう記憶に無くて」

 拳を握り締めて思い出そうと試みても、その記憶が蘇る気配すらしない。

 思い出すのは、血で染まった死闘の情景。鼻を突き刺した、赤色と体温の熱を宿した液体の激臭すら、もはや何の違和感ももたらさない、そこにあって当たり前のものとして捉えている自分がいる。

 自分が死にそうになったときは、どうしようもないほどに狼狽えていた癖に、目の前で、自分の手によって何十体もの死体が出来上がっていく様に、自分は何も感じなかった。

 翼の力を使えば使うほどに、自分が自分で無くなっていくように感じていた。

「俺、自分の身体を、自分の意志で動かすことすら、もうできなくなったのかな。そんな簡単なこと、当たり前のことすらできなくなってるのかな」

 声が、無意識のうちに震えていた。

「自分の心でさえも、自分のものじゃない何かに置き換わって、もう...俺、人として何もかも間違っていたんじゃないかな。最初からずっと、俺...」

 自分は散々、他人の間違いを肯定せずに、社会不適合者だとか銘打って見下しておいて。人として当たり前の常識や普遍的な価値観だとか、そんな言葉で着飾った、歪み切った妄想に浸っておいて。

「俺は、ずっと間違っていた」

 その結果として出来上がった自分をいまさら否定して、一体何がしたかったのだろう。そう強く心情を込めて、胸の奥に詰まったものを取り除くように、溜息を吐いた。

「マサカネ様。立ち止まってください、涙が出ていますから。あの、拭きましょう。夜ですし、寒いかもしれなかったら上着とか...」

「あっ...ああっ、ごめん!いやほんと、気遣わせちゃってほんとごめん!何言ってんだろうねほんと!いや俺やばいな!中二病かよ!こじらせ系キャラかよ!」

「いえ、大丈夫です。万が一、何か俺の言動に気が障ったのかもしれないので、一応、自分に出来ることをやろうと思っただけですし」

 鹿芝は立ち止まって、空を見上げた。

 何の絵にもならないような真っ黒い空の中に、じっと見つめなければ気付けないほどの小さな光が散らばって、埋め尽くしている。白と黒の二色だけで彩られた、表現のしようのない美しさ。

「星がなぜ美しいのか、マサカネ様は考えたことはありますか?」

「え、なに?突然。まあ、あれじゃない?綺麗なもんは綺麗だから、かな。いやなんか単純思考丸出しで申し訳ないけど」

「それはなんというか、申し訳ないですけど最悪な答えですね」

「最悪って...」

 鹿芝は不意に、笑ってしまった。泣いていたことすら、その余韻をも忘れていた。

「太陽が、そこにいないから」

「太陽...」

 予想もしなかったその答えに、鹿芝は咄嗟に言葉を失った。

「夜だけじゃなく、昼でも、星は空の中に潜んでいる。直視することもできないほどに強い太陽の光に目が眩んで、俺たちが星の姿を見失っているだけですから。でも、太陽は俺たちにとって必要な存在で、生きていくうえで不可欠な存在です」

 空を見つめるその眼差しが、煌めきを帯びているように見えた。

「この真っ黒い空に浮かぶいくつもの小さな星は、その一生を費やしたところで、命を燃やし尽くしたところで、何かの役に立つことはない。太陽のようにこの空を光で青く塗り替えることも、太陽のように大地や生き物に熱を与えることも、太陽のように何かを照らすことも誰かを生かすこともできない」

 無数の小さな星明りが、この世界のどこかで一人一人が生きた証明のように見えた。

「だからこそ、星は美しい」


――そして、同時刻のこと。


 壁に張り付いた松明の灯りが、石の硬い質感の表面に規則的に刻み込まれた紋様の上に、塗り伸ばされたように丸く広がっている。

「こんばんは」

 ペインの声が、地下牢の空間を反響する。その両手には、シチューの乗った皿とスプーンの置かれたトレイが握られていた。ペインは鉄格子で仕切られた独房が左右に連なった湿り気のある通路を進み、その最奥の壁面に縛り付けられた少女の人影、フィアの元へと歩み寄る。

 そして、トレイを足元に置いた。

「身体の調子は大丈夫?」

「はや...く...」

 幾重にも鎖の擦れる音を立てながら、フィアは口を大きく開けながら身をよじった。

「何か、思い出したことはある?」

「そんなの...早く...何か...」

 手首、足首に一本ずつ、胴体に五本もの鎖を巻きつけられ、半身を捻じって身動きを取ることすらままならない態勢だった。

「私の知りたいことを教えてくれないと、何も食べさせられないよ」

「お願い...なにか...なんでもいいから...動物の血とかでも...いいから...」

 地下牢の床に座り込むペインの黒いスカートの裾に、フィアの下唇を伝って溢れ、縦に途切れ途切れの直線を描きながら注がれた唾液が点々と染み込むことも意に介さず、ペインは尋ねる。

「動物の血、ねえ。でも、人にとって血は飲み物じゃないよ。それでも、いいの?」

「いや...やっぱり...そのシチュー...飲ませて...」

「そうか。結局シチューがいいのか」

 ペインは少しトーンを落とした声音でそう残して、足元のトレイからシチューの乗った皿と一本のスプーンを取って、握り締めて、フィアの眼前へと運んだ。

「でも、飲ませてあげるのは私の質問に答えた後、だよ」

 ペインは、純白のシチューを掬ったスプーンを自分の口元へと運ぶと上下の唇で圧迫するように挟み込み、鉄にその跡を刻むほど吸い上げて、粘り気のある口づけの音色を放ち、その残響をなびきながら引き剥がした。口腔へと深く流れ込んだシチューを舌で揺すり動かすように咀嚼し、音を立てて喉の奥に落とす。

 その口元をフィアの顔へと近づけると、鶏肉と根菜と牛乳の入り混じった香りを鼻の穴に向けて、吐息の熱と共に吹き込んだ。

「欲しい?」

「...欲しい」

「なら、将鐘の弱点を教えて」

「...分からない」

「将鐘の翼は、どれくらいで動けなくなった?どれくらいの距離までなら飛ぶことができた?」

「...分からない」

「何をしたら、将鐘は死ぬと思う?」

「...死なない...マサカネは...何をしても...死なない...だから...意味...ないよ...こんなこと...」

「あるよ」

 ペインの赤く、血塗られたような色合いの瞳が赤く、刺し抜くような眼差しでフィアを見据えた。

「将鐘の、君のことを見ている眼の色が、かつての頃とは随分と違って見えた。君が、彼に何かしらの変化を起こした。だから、彼は君に何かしらの弱さを見せている。根源的な、精神の根幹にあるものを君に曝しているはずだ。それを教えてくれるだけでいい。何が好きで何が嫌いだとか、そんなことでもいい。私の知らない将鐘にまつわることなら、何でもいい。たったそれだけ」

 フィアの瞳が、音もなく揺れる。

「簡単なこと、だよね?」

 ペインの声が、耳元でそう囁く。

「...分からない...分からないよ...マサカネ自身もきっと...そんなの分からない...」

「そう。なら、いいか。そろそろ君も限界に達しそうだし、仕方ないからもう—―」

 ペインはシチューの乗った皿を持ち上げ、その口元へと傾けながら具材ごと吸い上げる。そして、大きく熱のこもった吐息を漏らして。

「—―君の食事を始めよう」

 シチューの乗っていた皿が、ペインの手で床に放り投げられたそれが、鋭い音を一瞬放って、滑らかで鋭利な光沢を纏う無数の破片を撒き散らしながら、砕け散る。

 甲高く響き渡るその残響が、耳の奥に焼き付く。 

「このシチューは、住み込みで働いてくれた近くの村出身の料理人が作ってくれていたもので、あまりに美味しかったから、作り方を直接教わったんだ。そのついでに細かなレシピを書いてもらったけど、一言一句覚えてしまったからもう必要なくなってしまってね」

「なんの...話...?」

「ただ、いくらシチューを作ることに慣れても、他の料理を作る腕は一向に上達しなさそうなんだ。毎日のように彼の真似をしてみるんだけど、毎回、食感が少しドロッとしてしまうんだ。味もあまり良くない。やはり彼は、失うべきじゃなかった」

「だから...なに...?」

「喰い殺したんだ、私の下僕が」

「え...?」

 ペインの手拍子が二つ、鳴り響く。同時に、大きな足音がいくつにも重なって空間を震わせた。

 聞き覚えのある、足音だった。廃村で聞いた、怪物の足音。鹿芝が何体も短剣で斬り刻み、何体も斧で臓物を砕いた怪物。それと同じ姿をした集団が地下牢の通路を埋め尽くし、その全てがフィアの身体を隅々まで、食欲を滾らせた視線で見詰めながら立っていた。

「どうして...ここに...」

「私の下僕は食欲旺盛な者が多くて、目を離したうちに使用人を喰ってしまうことも多々あってね。そのせいで家事は毎日のように、私の子供に頼んでしまう。いつも申し訳ないよ」

「まさか...あなたが...」

「うん」

 ペインは薄く笑みを浮かべ、フィアの耳元で告げる。

「私がフィアの逃げ込んだ廃村に、竜の眷属を送り込んだ」

「じゃあ...私の村...故郷に出た...白い猫の化け物...」

「そうだよ。私が君の村に、白猫を放った」

「なんで...どうして...なんのために!」

「フィア」

 鎖に全身を縛り付けられた少女の名前を呼ぶその声に、無数の重厚な足音が重なる。怪物たちが牙を剥き出しにして、地下牢の床を粘着質な透明色で塗り潰すほどに唾液を滴らせる。

「私はね、もう君自身に対する興味が全く湧かないんだ。だから—―」

 その時、少女の甲高い絶叫が喉の奥を穿つように放たれ、壁を、床を、天井を揺らす。皮膚の表面から次々と捕食された四肢から散る鮮血の粒が宙を駆けて、飛沫しぶきを上げて狭苦しい地下牢の空間を、人体の輪郭を象る肉と骨の塊の藻掻き泣き叫びながら指先まで満たされていく激痛に精神が狂い崩れ落ちていく全てを体現するように迸った。

「—―君の食事を始めよう」

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