第24.52話

 鹿芝は、柔らかな毛布の感触を背に感じながら瞼を上げた。

「マサカネ様、身体に違和感はありますか」

 目を覚ますなり、近くの椅子に腰を下ろしていたギルが立ち上がり、鹿芝の顔を覗き込んでそう尋ねてくる。

「いや、特に変な感じもなんもないけど」

「それは良かったです」

 見回すと、そこは鹿芝が寝室として使用しているロイリア邸の一室だった。

「俺って、お前にナイフで刺されて死んだよね?」

「いえ、死んでませんよ。気絶しただけです」

 椅子に座り直したギルが淡々と誤解を解こうとするも、鹿芝はお構いなしに真顔で問い詰める。

「ねえなんで俺のこと殺したんすか?俺になんか恨みあるんすか?」

「恨みどころかある意味温情ですよ。マサカネ様に適した鍛錬を俺なりに練って考案し、実践しただけです」

「あれ鍛錬っていうの!?普通に戦って殺されただけじゃん!」

「ですから殺してませんよ。今もこうして生きている訳ですし」

 不満そうにぼやきながら、鹿芝はそっぽを向くように寝返りを打った。ガラス窓の向こうに広がる空には白い雲の塊が無数に浮いていて、秒を刻むごとに微かに流れ、窓枠の外へとはみ出て姿を消していく。

「じゃあ俺なんで死んでないの?普通死ぬよね、脳やられたら」

「それはマサカネ様の背中に宿っている、翼の有する修復能力によるものです。修復能力は手足や胴体だけでなく心臓、脳の負傷にも作用し、後遺症も残さない。しかし、些細なものですが代償があるのです」

「代償...?」

 不安感をそそるような用語に、鹿芝の視線がギルへと引き寄せられる。

「マサカネ様は、戦闘時は翼を広げて飛び回りながら鎖や斧を駆使して攻撃を繰り出すそうですが、翼による飛行速度が何を起点に変化しているかどうかはお気づきでしょうか」

「え?起点?なにそれ」

「これは他人の受け売りでしかありませんので正確性があるとは言い切れませんが、マサカネ様の翼は肉体の欠損部位を修復すればするほど、徐々に小さく縮んでいくそうです。時間の経過によって元の形状に戻るそうですが、最低でも半日は必要になります。それにより推測できることは二つ。一つは、修復可能な回数には限度がある。もう一つは、翼の面積が削減されれば翼は風を捉えにくくなり、推進力もそれに伴い減少するということ。俺はそう聞きました」

「じゃあ、修復は使い放題じゃないし、俺が自分の身体を修復すればするほど、翼の動きは遅くなるってわけか。戦ってるときはあんま自覚なかったけどなあ」

 ギルの語った内容を脳内で纏め、ふと納得したように鹿芝が頷く。

「おそらく、無自覚のうちに翼に込める力を調整し、一定の速度を出し続けられるよう修正なさっているのでしょう。しかし、翼の修復能力ありきで戦っていては、持てる全ての力を発揮すべき時に、マサカネ様は十分に力を振るうことができずにいずれ敗れてしまう」

「確かにそうだな」

「なので、マサカネ様が修復力に頼らないようにするために、あのような鍛錬を行ったわけです」

 あまりに自然な口調でそう告げられ、反射的に頷きそうになったところで鹿芝はギルを睨むように見据えて反発する。

「なるほど...じゃない!いや説明になってないでしょ!結局俺を半殺しにして何になるの!?鍛錬って言い張ってるけど俺が一方的に攻撃喰らいまくるだけで全く成長してないと思うんだけど!」

「それは俺の動きを捉え切れていないからです。慣れれば痛覚だっていなすことができる。必要なのは、意識を失う寸前で身体を瞬時に修復する、適切なタイミングを読む技術です。先ほどの訓練でも、ナイフがマサカネ様の脳天に接触する直前に修復を発動させておけば、意識を失わずにいられたのですから。これは、基礎体力を磨くことなどよりも、遥かに重要な課題です」

 落ち着いた口調で、静かな声音で話すギルの様子は一見いつも通りに思える。だが、鹿芝はその言葉から普段とは違う何か特別な心情を感じていた。

「本当は、マサカネ様の鍛錬の相手をより長くしていたいと思っているのですが、俺は元々ここの人間ではありませんから、明日の明け方には、俺はこの屋敷から元居た勤め先に戻るためにここを出なくてはなりません。俺は限られた期間で、マサカネ様を鍛え上げなければならない」

 鹿芝がこの屋敷に滞在する期間はおよそ五日間。現在は三日目、あと二日で鹿芝はここを離れなければならない。フィアの居場所も分からないまま、ここを去ることになる可能性すらある。

 夢に見た異世界ライフなどと、うつつを抜かしている場合ではないのかもしれない。

「肉を割かれ、骨を折られても、通常なら死に至るほどの出血でも極限まで堪え、修復は回数を最小限に抑えかつ迅速に行う。生き延びるためのすべを磨き上げなければ、この世界は生きていけない。マサカネ様に過酷なことを強いている自覚はありますが、あなたには何よりも時間が足りない」

「そっか。その...ギルが本気で俺の心配してくれて、ああいうことやったってことは、もう伝わったよ。でもさ、どうしてそんなに俺を鍛えようとするの?別に鍛錬が嫌ってわけじゃないけど...あ、でも痛いのは嫌だな、じゃなくて」

 ギルは別に鹿芝に対して敵意を向けている訳ではないことは、もう理解できた。

「なんで、俺をそんなに強くしようとするんだ...?」

 だが、やはりどうにも引っ掛かるところがある。

「このままでは、あなたは死ぬ」

 唐突に告げられた端的な台詞には、大袈裟でも何でもない明白な切迫感が籠っていた。

「いや、死ぬって...」

「不安にならなくても問題ありません。通常の人間が用いる刃物などによる攻撃で、マサカネ様に本当の意味での致命傷を与えることは不可能ですから。それに、今焦っても仕方がありません」

「致命傷にするのは不可能なのにこのままだと死ぬって、矛盾してんだろ...俺が死ぬって、それっていつだよ?どこで死ぬんだよ?」

 ギルは鹿芝の背中、翼の宿る場所に手を当てて、語り掛ける。

「身体の筋肉と神経に反射的な動作を覚え込ませるのとは違って、戦術の基軸となる思考回路を根本的に変化させるのに、単純な反復作業ではどうにもならない。急げば急ぐほど効果は裏目に出てしまう。ですので今日はもう休んで下さい。半日ほど時間が経てば、修復で疲労した翼も自然と完治します」

「そうは言ったって...死ぬって...」

「可能な限り、俺はマサカネ様の死を阻止します。だから安心してください」

 そう残して、ギルは席を立った。

「夕食が出来たら呼びに戻りますので、安静にしていてください」

 ドアの閉まる音が、鹿芝の鼓膜に焼き付けるように部屋の中に響き渡った。


―—死まで、あと二日。


 カーテンの向こう側から滲む朝日の色を、気の抜けた眼差しで見つめながら。

「ギルがこの屋敷にいるの、今日で最後、なんだよな...」

 薄く開いた瞼の奥に広がる、部屋の奥行き。鼻から息を吸って、口から吐き出して、ベッドから身を起こした。昨夜は意外なほど、ぐっすりと眠れた。ギルによって唐突に死の宣告を下されて、けれど存外、寝る頃には余り気にはならなくなっていた。

 あるいはどこか、そんなのは些か現実味の無い話だと思っている自分がいるのかもしれないが。

「まっ、今日も昨日とやることは同じだ。ひとまず着替えるか...」

 そのとき、扉から二つ、ノックの音。

「ギル...?今日はだいぶ早いな...まだ朝食の時間じゃないと思うけど」

 部屋の扉を開けると、その向こうには意外な来客が廊下で佇んでいた。

「ペイン、さん...?」

「おはよう、将鐘。もし暇だったら、話そうかと思っていたんだけど」

「え?ああ、いいですよ」

 別にこれと言ってやることはない。なので鹿芝にとってペインと雑談をすること自体には何も問題はないが、朝一番にいきなり対話に誘われるのは些か突拍子のないことであり、正直なところ戸惑いはあった。そんな態度を見せながらも、鹿芝は誘いに頷く。

 すると、ペインは部屋の中を指さして。

「部屋、入っていい?」

「あ、はい。どうぞ」

 廊下で話すつもりだったが、わざわざ部屋に入ってまで一体何を話すつもりなのだろうと思考を回しながら、鹿芝はペインを部屋の中へと案内する。

「綺麗に使ってくれているんだね。嬉しいよ」

「ああ...まあ、この世界に来て初めてのマイルームですから。これから俺がこの世界で、また別の土地で生活を続けていく中でも時折ここでの暮らしを思い出すことにもなると思いますし、大切な思い出としてこの空間を留めておきたいとも、思うんです」

 装飾を施された天井、壁、床。寝具や照明もきっと、思い出すときが訪れるのだろう。今見ている光景をいつか、懐かしむ時が。

 そう思いながら部屋の内装を眺めていると、ペインは将鐘が先ほどまで寝そべっていたベッドの端に腰を掛けて、その左隣にある人一人分のスペースに手を添えながら。

「それじゃあ、将鐘。ここ、座って」

 鹿芝にそこへ座るよう、指示した。

「分かりました」

 黙ってその言葉に従って、静かに腰を下ろす。

 鼻から音を立てず息を吸って、緩やかに吐いてから視線を下に向けると、自分の右足とペインの左足との距離は数センチ程度で、少し挙動を取れば容易に接触する距離感なのが見て取れる。こめかみから頬に一粒の汗が伝っているような気がして、自分の肌に触れて拭き取りたい衝動が疼くが、抑えた。

 もう一度、呼吸を挟んでから右隣に佇むペインの顔を見据えて、鹿芝は言葉を切り出そうと口を開いて。

「変に緊張しないでいいよ。私も緊張していないから」

「あ。いえ...」

 ペインが普段と変わらない笑みを浮かべながら、鹿芝より先にそう告げた。顔が即座に熱を帯びて、鏡で見なくても自分が赤面しているのを理解させられる明瞭な感覚だった。

「将鐘に聞きたいことがある」

 鹿芝の反応を意に介さず、ペインはそう前置きした。

「あなたにとって愛は、愛することとは、何?」

「え?いや、まあ...」

 唐突な問いに、鹿芝は返答に戸惑った。

「なんていうか、そんな質問されたの初めてで...俺に何か的確な助言ができるとは思えないんですけど、俺でいいのなら...そうですね...」

 顎に手を当てて熟考する素振りを見せながら、鹿芝は内心、困惑していた。なぜそんなことをいきなり、まだ人生初めて間もない十六歳の少年に聞くのだろうと。

「人に褒められたり、人に必要とされるときに、自分は愛されているんだって思えるんじゃないかなって...どうだろう。ごめんなさい。俺、あんまそういうの詳しくなくて」

 愛とは何か、だなんて思春期の少年少女に聞くような話じゃないだろなどと心の中でぼやきながら、鹿芝は曖昧に濁しながら返答を告げ終えた。

「君にとって、それが愛?」

 ペインは表情を変えることなく、それをただ終始聞き込んでから、再び尋ねた。

「私が君を褒めたら、必要としたなら、君は私に愛されていると思えるの?」

 微かに首を傾げながら、ペインは声音に混ざった吐息を鹿芝の肌にぶつけてくる。微弱な温もりが、皮膚の向こうから伝わってくるのを感じる。

「えっ...と...すみません。もしも俺が前提を履き違えていたら申し訳ないんですけど...これは恋愛相談、ということで?」

 体温の籠った心音が、胸の内側から身体中に伝播していくのをただ、感じていた。

「君がそう思うのならそうだと思うよ」

 変わらず、笑みを浮かべながら。

「けど...私にとっては、少し違う。私は、人を好きになることと愛することは、全く以て無関係に思える。人の愛は、理不尽そのものだから。人を愛するということは、その人以外の人間が持つ意思や考えを蔑ろにすることと同じように思える。何かを愛している間は、愛することに心の全てを委ねている間は、人の抱いた心の痛みが理解できなくなる。誰かを傷つけたことなんて気にならなくなってしまう」

 心の内側を悟らせないペインの笑みは、崩れることなく。

「だから人は、自分を無条件に承認してくれる愛さえあれば何もかも上手くいくという夢や妄想に浸って、他人の心情や思想を理解できなくなっていくんだ。奥に沈めば沈むほど、歪んでいく。けれど私は、その先を知りたいと思った。思ってしまったんだ」

 ただ最後にほんの僅か、苦悩に満ちた溜息を漏らすように長く息を吐き出していた。そのまま、静寂が密室の中を占有する。

 やがて、ペインは鹿芝の方へと向き直って。

「君には、今までに理不尽だと思うようなことを経験した覚えはある?」

「まあ、たぶんそれなりには」

 再度、鹿芝へと尋ねた。

「例えば?」

「俺の知り合いに、一宮っていう男がいて。そいつ、俺と同い年の奴らからは疎まれてて。空気読めない奴だって。可哀想だなって、何度か思いました。でもそんな感情も、その日寝て、次起きたらもう忘れてる程度でしたけど。ただ、ある日を境に一宮は、学校に来なくなりました。俺の友人が、あいつに暴力を振るったせいで」

「暴力、か...」

 頷いて、ペインが言葉の続きを促すのを見て、鹿芝は再び口を開く。

「でも、一宮のことを、数か月ぶりに再開したあいつのことを俺は殴ったんです。殴る直前、俺の手には一宮が投げつけてきたコンパスが握られてて、掴むのが遅かったらその針が下手したら俺の顔面や首とかに突き刺さっていてもおかしくはなかった」

 少しだけ、視界が薄く滲んで、濁っているような気がして。けれど目の前を拭う気力すら、なぜか今の自分には無くて。

「正当防衛だとか、白々しいことをするつもりはなかった。でも、耐えられなかった。自分でも良く分からなかった。本当は、本当なら...俺はあいつを、あいつを...」

 目頭が熱くなっていることに気づいたとき、いつの間にか、声が震えていた。

「助けてあげられたんじゃないかって、思ってたのに...」

 鹿芝はそのまま、感情に身を任せて嗚咽を漏らした。

 感情のほとぼりが冷めるまで、そうしているつもりだった。

「助ける、って?」

 けれど、ペインの淡々とした声音を聞いた途端、不意に嗚咽が途絶えた。

「え?」

 感傷に浸っていた余韻さえも、その余りに淡泊な眼差しに射止められたかと思えば意外なほど容易に抹消されていた。

「誰を?どうやって?」

「もしも一宮がまた、白井みたいなやつに暴力を振るわれていたら、助ける、とか...」

「助けられるの?暴力を武器にしている人間は少なくとも、人よりもその暴力を振るうという点には長けているはずだよ。それを、君の力で食い止めることができるの?歯向かえば暴力を受けることは分かっていて、なおかつ歯向かったことで自分が得られるものは何もないという状況で、悪戯いたずらに自分の身を傷つける行動に出て、たったそれだけで君は何かが変わると思っているの?」

「でも俺が自分の手で暴力を阻止すれば、最悪の事態を阻止すれば、助けられる人は必ずいる。だから...」

 そのとき、ペインのその表情から、笑みが消えた。

「それは、助けるとは言わないんだよ。そんなのは、親切心ですらない。ただ加害者を痛めつけて満足しようとしているだけ。突発的に湧いた欲求を、悪いことをした人間を責め立てたり暴力を振るったりすることによって満たそうとしているだけ」

 ペインの両手が鹿芝の左右の頬を緩やかに、柔らかな皮膚の感触で包み込む。冷たい体温が、ペインの指先から流れ込んでくるのを感じる。

「それは違う、って言いたそうな顔をしているね。それなら本当に君は、赤の他人を自分の意思で救おうと思っているの?本心から、君は人を助けたいと思っているの?その人が空気を読めなくても?言葉の裏を察することができなくても?そのせいで自分の親切心を蔑ろにされたとしても?社会にとっても世間にとっても明白なまでにその人が邪魔な存在であったとしても?その人を助けたところで自分は何も報われないと理解していても?」

 少しずつ、互いの顔が近づいて、互いの瞳に互いの表情が映り込みそうになるほどに距離が狭まって、息遣いすらもはっきりと感じられる。

「違うよね、将鐘。君は、誰かから敵意を向けられるのが怖いから、自分は誰にとっても敵じゃないってことを態度で示そうと必死なだけ。でも、その考え方自体は何もおかしいことじゃない。何一つ不自然じゃない、人間としてごく普通の考え方だよ。だから君は何も悪くない。責任を負う必要なんてはなから無いんだ。けれど―—」

 吐いたペインの息の熱をも、鹿芝の吸った空気に混ざり込んでいる。


―—脳裏に、あの光景が浮かんだ。


 学校の応接室。ガラステーブル越しに対話した、一宮の父が鹿芝へと投げ掛けた言葉の数々。

 ペインの纏う雰囲気とそれは、どこか似通っているように思えて。

「君は本当に、それでいいと思っているの?」

 ペインは、はっきりとそう尋ねた。

「今の君は、自分の目の前の物事しか、自分の経験した知識や物の考え方しか見えていない。今の君は、人の心の痛みを理解しようとしているようには見えない。今の君は本当に、心の底から人を救いたいと思えるの?」

 飛礫つぶてが投げつけられるように、ペインの言葉が吐息と混ざってぶつかってくるのを皮膚の向こうから感じる。

「心の...痛み...」

 鹿芝はそうペインの告げた言葉を断片的に声に出して、そのまま口ごもった。何も言えず、俯いた。脳の内側に広がる思考が、何の感情でも表現することのできない、脈打つような真っ白い一色の色彩に染まっていくのを感じた。

「それじゃあ、この話はこれで終わりにしよう」

 ペインはそう残して、立ち上がった。途端、焦燥が鹿芝の全身を飲み込んで。

「あ...あの...」

 自信なさげに、鹿芝は切り出した。はっきりとした滑舌ではないが、明確な声量を保ちながら言葉を続ける。

「俺は人を理解したつもりになっていただけで、人を理解しようとするための努力が根本的に足りていなかった。自分以外の人間を、加害者と被害者のどちらかに分類しただけだ。その程度のことじゃ何も解決しないのに、その程度のことで全て分かったつもりでいた。本当に俺、何様のつもりだったんだろう。誰かに殴られる痛みなんて、殴られた人にしか分からないはずなのに...」

 少しだけ、今なら少しだけ、一宮の気持ちを理解できるような気がした。

「きっと俺は、目に見えるものが全てだって、無意識のうちにそう思い込んでいたんです。人が人に暴力を振るっているという、目に見えて分かる問題点しか、俺には見えていなかった。身体の痛みしか見えていなかった。でも全然違う。逆だ。痛みを発するのは身体でも、人がその痛みを受け止めるのは、心だ。どれだけ傷つけられようと身体が治れば、見た目が何ともなければそれでいいだなんて、そんなんじゃ自分のことしか考えられていない、人畜無害の第三者のフリした心の加害者だ」

 あの日、起きたことが一体、一宮にどれほどの恐怖心を植え付けただろうか。

「俺は、俺はずっと、誰かが悪いことをしているから間違いが起こるんだって思ってた。だけど、その考え方自体がきっと、間違いなんだ。良いか悪いかの問題じゃない。間違いは何が何でも正さなければいけないって、赤の他人の分際で勝手にそう思い込んでいたことが、他の何よりも大きな間違いだった。だから...だから俺は、俺にできることを...」

「もういいよ」

 ペインの声が、鹿芝の声を遮る。見上げると、ペインの姿はもう部屋から廊下へと出る一歩手前にあった。こちらへと振り返る素振りも見せずに、ペインはそのまま去るように思えた。だが―—

「君という人間の本質をもっと深く知ることができたように思えるから、もういい。明日、同じ時間にまた、話そう」

 口元に普段と変わらない笑みを添えながら、ペインは振り向きざまにそう告げて。

「じゃあね、将鐘」

 部屋の扉は、閉ざされた。

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