第24.51話

「ではこれより、実戦形式での戦闘訓練を始めます」

 ロイリア邸の麓に位置する平野で、鹿芝とギルは数メートル程の距離を取って向かい合っていた。

「一応聞くけどその戦闘って、どういう感じ?格闘技の攻めとか受けとかを交代交代でやるの?」

「いえ。これといったことなく単純に、俺とあなたで戦います。マサカネ様が己の潜在能力を自覚するためには、拳を交えることであなたの根本にある無意識に組み込まれた思考回路を正しく刺激する必要がありますから」

「思考回路を正しく刺激って、それって意図的にできるようなもんなの?」

「十分に可能です」

 ギルは落ち着いた様子で、両手の黒の布手袋をより深くはめた。

「ここ数日間で励んできた身体作りで、マサカネ様も自身の身体能力の限界点を知ることができたかと思います。どれくらい動けば体力が切れるのか、どれくらいの力までなら発揮することが出来るのか。そういった情報一つ一つを集約して、自分の前にある壁がどこにあって、どれぐらいの高さなのかを知ると共にその壁を乗り越えた自分をイメージする。人間とは、そうやって経験を糧とすることで強さを得る生き物です」

「ふむ、なるほどわからん。いやまあ、言ってることは分かるんだけど、なんか上手く飲み込めないんだよなあ」

「問題ありませんよ。身体でやることを言葉で言い表しても理解できないのは当たり前のことですから、今は分からなくても構いません。ただ一つ...覚えておいてほしいことがあります」

 ギルは、そこまで言うと真っすぐこちらを見据えて。

「相手を、人間だと思うな」

 その眼差しは、襲撃者や竜の眷属、そしてテルボーが向けてきたものと同質の、殺意の滾った熾烈な視線に違いなかった。

「俺の先生の言葉です。相手を殺すのなら、対象物は人間と捉えてはならない。殺すという作業における妨げにならないよう、その認識を頭の奥深くにまで刷り込む必要がある。相手が自分の価値観においては善人であろうとも、自分を殺そうとしてきたのなら、殺さなければならないと判断したのならそれは自分の殺す相手であり、それを自分と同じ人間と思ってはならない。誰であろうとも」

 言葉を、さっきと同じように話している間も、ギルの放つ殺意は途切れることなく放たれている。鹿芝の生存本能に、死の予感を呼び掛けている。

「今回の訓練におけるマサカネ様の課題は、その認識を持つことです。俺を、人ではなく殺す相手として認識してください」

 そう言い終えると共に、ギルは大きく開けた口から喉の奥へと緩やかに空気を落とし込み、噛み締めるように息を吐く。

「参ります」

「よし...来い!」

 熾烈な戦意を込めて、ギルへと視線を向けて対峙する。

「気合い十分ですね。では」

 靴底が土砂を擦る音に遅れて、風を全身に纏って振り下ろされたギルの踵が斜めに鹿芝の頬を掠める。一瞬にして数十センチまで圧縮された間合いが、ギルの冷ややかな呼気と攻撃的な気配を濃密に放っていた。

 直後、鹿芝は背後へと飛び退いて数メートルの距離を取った。

「えっ。いや、速くね!?」

「いえ、まだ身体を温めている段階ですよ。先程は当たらないことを想定して蹴りましたので、次は当てるつもりで蹴ります」

 ギルの言葉が途切れて一秒、鹿芝の視界が瞬きを終えると共に下腹部の奥底に歪むような衝撃が走る。

 激痛で凍結した視線の奥に蹴りを放ち終えた態勢のギルが、時間が経つほどに遠く離れて映る。腹が脈を打つように唸り、無数の骨の砕ける感覚が鼓膜にまで重く迸る。宙に溢した唾液が雫を散らして落下する様が、暗く崩れ落ちる意識に刻まれる。

「気絶するには早すぎます。あなたの限界点はそこじゃない」

 少し遠くから聞こえたギルのその声に、薄く濁った意識が緩やかに目覚めた。空に浮かぶ太陽が視界の真ん中にあることに気付き、眩しく煌めいた白い閃光を目の前から遮断するように身を起こし、立ち上がる。

「あれ?俺、蹴られて...」

「十秒、待ちます。今のうちに態勢を立て直してください」

 鹿芝の受け答えなど意に介さず、ギルは言葉を続ける。

「次はあなたに向けてナイフを投げます。最初の四発は敢えて躱せる速度で投げます。最後の一発があなたの脳天を直撃しますので、次は気絶しないよう意識を保ってください」

「は?いや、え...」

 そして、十秒が経過する。混乱に呑まれたまま、上手く直立不動の態勢すら保てないまま。

「それでは」

 鉄の刃先が目の端を過ぎて、耳元で直線を描いた風圧が唸る。四肢であれ内臓であれ、この威力の直撃を受ければ骨ごと砕け散ることが、咄嗟とっさにその光景を想像すると共に悟った。

(こいつ...本気だ。本気で俺を殺す気だ。ていうかいや...なんで!?なんで殺す!?気絶でいいじゃん気絶で!訓練なんでしょ!?俺を強くするんでしょ!?殺してどうするんだ!?馬鹿なのかあいつは!?脳筋なのか!?脳味噌の構成成分筋肉百パーセントなのかギル先生は!?)

 前方を見据えると、ギルは十メートル相当の間合いから、右手首の捻りを投擲とうてきに乗せてこちらへとナイフを放っていた。左手には、これから放たれるであろう残り四本のナイフが、五指の隙間からその刃先を煌めかせている。

(いや、でも今の速度なら避け切れる。鎖での攻撃を主体にして戦ってきた俺の目は、速度に慣れている。さっきの一発目はおそらく俺の放つ鎖の速度の半分にも満たない。問題は五発目。宣言通りに俺の避け切れない速度で投げてくるなら、五発目を受ける直前、四発目を避け終えると同時に踏み込んで、強引に射線を切って躱すしかない)

 続く二発目、三発目の描く残像を視線で捉えて、呼吸の律動を保ちながらギルの一挙一動を注視する。

(さあ来い)

 四発目のナイフの先端が視界の中央から真っ向に空を切る。刺突の到達より一歩早く左に踏み込んで躱し、即座に五発目をどう動いて対処するかに意識を集中する。爪先に全身の重心を掛けて加速寸前の態勢のまま、鹿芝はギルの細かな動作へと視線を巡らせ、絶えず警戒心を研ぎ澄ました。

(今だ)

 張った糸が千切られたように、身体中を満たす緊張と思案を振りほどく。全身に掛かる重力で地中を踏み抜いた反動に乗せて跳び、ナイフの軌道から逃れるべく風を割って宙を泳ぐように加速する。

「あれ?」

 視線で追っていたはずのギルの姿が、視界の中から消えた。それと同時に額に衝撃を受け、鹿芝は草むらの上に寝転ぶように押し倒される。上空に浮かぶギルの影が視界の中央に浮かんだ。

 ギルの跳躍は、鹿芝の視覚では捉えられなかった。

(嘘だろ...)

 顔や頭に手を当てて、熱のある液体の感触があることに気付いた。同時に自覚する、頭蓋にのめり込む冷たい鉄の感触と、額を伝う血に混じった脳漿。

 ナイフは、鹿芝の脳天に突き刺さっている。

「マサカネ様、意識はありますか。意識があるなら手を挙げてください」

 瞼に遮られた黒い視界の中、混乱が鹿芝の心身を占有したまま、鹿芝の意識は再び途絶えた。

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