第20話
「私も、花は好きだよ」
その時、鹿芝の耳元で、聞き覚えの無い少女の声音が囁く。
「だ、だれ?」
咄嗟に振り向くと、ラベンダー畑を見詰めながら膝を丸めるその少女と目があった。潤沢な銀色の色彩がその瞳に浮かんで、鹿芝の視線の奥で光っていた。
「ようこそ、私の屋敷へ。私はここでの人と竜の調律を任されている、ペイン・ロイリア」
見たところ、ペインは十代後半の容姿をしていて、鹿芝より一回り背丈の小さいフィアと比べても顕著に背が低かった。彼女はスカートの裾や首回りにファーをあしらった、深い色合いと感触のある黒地のワンピースで身を包んでいる。波打つ亜麻色の毛流れの先端は背に届くか届かないかぐらいまで伸びた、少し短い髪だった。
「あなたが、異界からやってきた人間?」
その声にも、吐息にも、どこか起伏がない。薄く微笑んで、鹿芝の瞳を見上げるだけだ。
「そう、です」
「じゃあ、君のことは、なんて呼べばいいのかな?」
「苗字が鹿芝、名前が将鐘なので、そのどちらかで」
「そう。なら将鐘、君は今までの出来事を覚えてる?」
「あ、ええと。俺、学校の教室にいたはずなんだけど、気付いたら見たこともない原っぱに飛ばされてて、そのあと廃墟になってた村に辿り着いて、そこで...」
「良かった。記憶はちゃんとしてるんだ」
ペインは表情を全く動かさないまま、立ち上がった。
「ギルくん。将鐘を客室までお連れして」
「了解致しました」
背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには使用人らしき服装をしている、黒い布手袋を両手にはめた少年が馬車の御者台から降りて、立っていた。眼鏡の似合いそうな、理知的な印象だった。背丈は、鹿芝より数センチほど低いが、律儀なその態度からか幼さは不思議と感じない。
「マサカネ様。部屋までお連れします」
「あ、ありがと」
ギルの背中を追って敷地を歩いていると、後ろからペインとフィアが会話する声が聞こえる。
「あなたの名前はなんていうの?」
「フィアです!初めまして!」
少し声が上擦っていて、緊張しているのが声だけでも分かるような物腰だった。ペインが貴族だからなのだろうか。いざこうして目にしたペインの容姿は、平民に対して絶対的な権力を握る貴族さながらのイメージとはだいぶギャップがあるので、あまり自覚はできなかったが。
「うん、面白い反応を見せる子だね。あなたは私が部屋に連れていくよ」
「はい!よろしくお願いします!」
「あっ、そうだ。将鐘にも言っておくけど」
そう前置きをして、ペインは口を開く。
「屋敷の庭に生えているそのラベンダーは、絶対に摘まないでね」
鹿芝はギルの背中を追って、石畳の上を歩く。
「俺、これからどうなるんだろ」
「マサカネ様には、この屋敷で数日間滞在していただきます。マサカネ様の所在を王政に報告したのち、おそらくは帝国行きの馬車に迎えに来ていただくことになるかと」
二人は両脇に並べられた緑葉の佇む鉢植えに視線を度々送りながら、屋敷を取り囲むように生え伸びる屋外の通路で歩みを進めていた。
「時にマサカネ様は、どうしてそのような格好をなさっているのですか」
「え?まあ、うん。学生服ってわかる?」
「ええ。マルフィお嬢様が良く口にしておられました。自分もいつか着てみたい、と」
ギルはそう感慨深そうに呟きながら、装飾の施された白樺のフェンス越しに中庭に視線を送った。
「お嬢様?それって、さっきのペイン・ロイリアって人のこと?」
「いえ、あの方はこの屋敷の主人であり、キタオス・ドラでも指折り数えるほどしかいない第一階調律師です」
「その、調律師ってのはなんなの?」
やがて突き当たりの角を曲がって屋内へと続く道を進む。
「人と竜の比率が狂わないよう調整する。それが調律師の役割です。時に増えすぎた竜の眷属を狩り、かつその反動による種の絶滅を防ぐためにその頭数を管理する。人と竜が共存する上で、調律者の存在は不可欠です」
「へえ、あの人ってそんな凄い人だったんだ」
「ええ。ちなみに、調律師は代々転移者が受け継いでおりますので、いずれマサカネ様も調律師としてペイン様の後を継ぐことになると思われますが」
「え?そうなの?」
「はい。ですが、ご心配なさらないでください。調律師としての役割が求められる時は常に、人と竜の比率が大きく偏っている状態です。二十年前と比べたら情勢が不安定になっているのは確かですが、それでも滅多には起こり得ません」
「なるほど。じゃあ、その調律師っていうのになったら、俺は一応貴族として一生ニート生活出来るってこと!?」
「そうですね...まあ、おそらくご想像の通りかと。冒険者のように地下迷宮の探索に駆り出されては命がけで日銭を稼いで生計を立てるよりも、基本的には遥かに毎日が穏やかで済みます」
「なるほど、確かに。というかさ、それだったらあのペイン・ロイリアって人も元は俺と同じ転移者だったってこと?」
「おそらくは、そうだと思います。俺には、詳しいことは分かりません」
「そっか。まあ、ぼちぼち聞く機会もあるだろうし、今はいっか。今は、食うことと寝ること、あと風呂のことだけ考えるとするか」
「ええ。是非ともそうなさってください」
ギルは速やかな手つきで部屋の扉を解錠し、鹿芝にその鍵を手渡した。
「では、俺はこれで失礼します。夕食が出来ましたらまた伺いますので」
「それじゃ」
部屋の扉が閉まり、扉越しに互いの姿が隔たれる。
少し、数秒だけ、ギルはその場に留まり、呟いた。
「あなたには、強くなって、生き延びてもらわなくては困る」
その言葉は、鹿芝の耳には届くことはなく。
「—―俺の標的を、始末するために」
ただ、その場で静寂の中に溶け消えるのみである。
「異世界生活を始めて二日目、初マイルーム...なんか感激だわ」
安心感。
ただその感覚に身を委ねながら、鹿芝は肺の中一杯に鼻から空気を吸い込んで、今、この時間に浸っていた。
部屋は一人用の部屋にしてはかなり広く思える。流石、貴族のお屋敷だと思う。入り口の扉から正面を向いた側の壁にある窓からは、ガラスの輪郭をなぞるように淡く夕陽の茜色が漏れている。窓は少しだけ開いていて、隙間から通った風が黄緑色のカーテンの裾を、音も無くゆらゆらと細かに揺すっている。
「寝るか。眠いし」
カーテンがシャーっと、柔らかく手に馴染むような感触のある布地を思いっきり引っ張ると、部屋の中に注ぐ淡い夕陽を遮断する。
部屋の中は、その一瞬で黒く闇に呑まれて、物の輪郭のみが視界へと浮かび上がる。焦がすような夕焼けの美しさとはまた違う良さが、その空間にはあるように思えた。
ベッドの角に手を当てて、重心をそこへ傾けて。
「よいしょ」
勢いよく、ベッドシーツの奥深くにのめり込む。
うつ伏せた全身を寝返りで半回転させ、薄く開いた瞼の隙間が、部屋の天井を真っ直ぐ見据える。
そのまま、全身の感覚が自分の知らないどこかへと引きずり込まれ、落ちて――
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