第18話
四足の
「命って、なんだろう」
見上げた天井は、装飾の無い木製の焦げ茶色。返す言葉も無いような一律のその色彩が、薄く広がっていくぼやけた視界を迎えていた。
「命を奪うことって、なんだろう」
鹿芝は、学生服の姿のまま馬車の座席の上に寝かされていた。
「君が私を助けるためにしてくれたことだよ」
その言葉を返した声の主は、フィアだった。座席に背を預けている彼女の身に纏う茜色の裾が、向かいの座席から鹿芝の目の端に届いた。ここは密室で、彼女以外に人の気配はなかった。
「なんで、罪悪感を感じないんだろう。死ぬ、ってどういう感覚なのか想像もつかないけど、いざ実際に目の前に来たら、何も考えられなくなって...人間としていられなくなって、一匹の動物になったような気分になるんだ」
あのときの、襲撃者に襲われたあのときの、記憶。
「人が死の直前に追いやられた時って、脳味噌が生きる手段を模索するためだけに動くせいで、理性を保つこととか、思考を保つことすら出来なくなるせいで、頭が機能しなくなる。そのせいで身体が自我を失って、恐怖のまま、本能のまま息をすることしか出来なくなる。俺は、何度かそれを味わったはずだった。身体を死を予感する度に、死が訪れるって自覚した度に、思ったはずだ。こんなのおかしい。こんなの間違ってる。こんな苦しい思いも痛みも全部、最悪だって...俺は、知っているはずだった」
襲撃者に首を斬られる直前に、みっともなく素手で抗おうとしたことを覚えている。あの時の自分に冷静さなんてものは、無かった。
「なのに今度は俺が、それを味わわせる側に立っている。間違えている。俺は、間違えている。俺はどうして...俺は、どうして...」
「マサカネは何も間違えていない。正しい生き方をしていると思うよ」
窓ガラスの向こうで流れる雲の様を目で追いながら、その風景が帯びる眩しさのせいで徐々に視界が冴えていく。
「違う。こんなのは...正しい生き方じゃない。こんなものが、こんな感情が...正しいはずがない。正しい行いをしたと思える心地じゃないんだ。こんな...胸が、潰れそうなほど苦しいのに...」
「それは、マサカネが優しいからだよ」
「違う。性格がどうとかじゃないよ、こんなもの。人間だから、生き物を殺して不快感を覚えるのは当たり前だ。でもさ、例えば誰かを痛みつけて何も感じないのも、その行為に慣れているだけで何もおかしいことでもないんだ。でも、あれだけは違う...」
鹿芝は呻き声を漏らしながら、頭を抱えた。
「あれだけは...あれだけは、おかしいだろ...なんで俺は...俺はあの時間を、楽しんだんだ...?何が最高の気分だよ、無自覚とはいえ割ときっしょいこと言ってたな俺...何が、あれの何が楽しいんだ...?生き物を殺して、生き物の血を浴びて、生きていたはずのものを肉と骨の塊に変えて、俺は何が楽しかったんだよ。なあ...なんでだよなんなんだよ俺は!」
自分が自分で無くなっていくようなそんな感覚が、その余韻がまだ、脳裏から剥がれ落ちずにこびりついている。
「一体何をどうしたら、生き物を殺して、あんな楽しそうに嗤えるんだ...」
記憶をなぞる度、脳裏に滲み浮かぶ、血を噴いて倒れる怪物の姿。
「間違いは、正すべきなんだ」
コンパスを握り締めて、それをこちらの顔面目掛け投げつけた一宮の姿が浮かんだ。
「間違った人間は、社会の影に埋もれて生きるしかないんだ。それが正しい人間を、間違った人間から守るために必要なこの世界の基本構造のはずなんだ。この世界の摂理のはずなんだ」
高校一年生のクラス、二十六名いたクラスから一人、白井の退学を知った時のことを思い出した。何も理不尽ではない。当然のことだ。社会で生き抜くための努力を怠ったのだから。自分の保身より欲求を満たすことを優先しただけなのだから。
「人と話す時には人の目を見て、面白味のない意見とか感想にも笑いながら頷いて、正しく振舞ってきた。正しい人生を歩んできた。正しい人間として、生きてきたんだ。でも違った。俺は...俺は...」
息が、呼気が、自分への怒りで震えた。
「もう俺は...何がしたくてこんなこと...」
自分自身に対する耐え難い憎悪が煮えて、奥底から熱を帯びた身体。
「マサカネは私に未来をくれた」
そこから音も無く熱を奪う、冷たい体温。鹿芝の頬を、フィアの手のひらが包んで肌をなぞりながら、彼女の口角が笑みを象る。
「だから私が君に、失ったものを返したい」
彼女の言葉の意味は、その時はよくわからなかった。
「その石、君のでしょ?」
フィアの人差し指の先を見ると、鹿芝の横たわる座席に置かれていたそれは、鹿芝の失くした死極石に他ならなかった。
「どうして...」
「結構頑張って探したんだ。まあ、そんなことはいいからさ。まだ疲れてるだろうし、もう少し横になってた方がいいよ」
か細い声でそう尋ねる鹿芝の言葉を遮って、フィアがそう提案する。その言葉に従って、鹿芝はもう一度、横になった。フィアが渡してくれた至極石を両手で包んで、祈るように胸の上で抱えながら。
「おやすみ」
鹿芝の耳元で一言、フィアがそう呟く。少しずつ、意識が眠りへと落ちていく。脳内に靄がかかったような感触と、頭部の内側に湧き上がるような重みの感覚。音と光が、意識の向こうへと遠ざかっていく。
「ねえ、マサカネ...これは、もしもの話、だけどね」
睡眠へと落ちていく直前、微かに、フィアの声が聞こえて。
「もしも、私が死んだらさ―—」
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