第17話
――それは、現在の記憶から遡って一年前。中学三年生の夏の頃。
鹿芝将鐘は、自分の生きる理由というものがよく分からなかった。
常に否定され続けた。身の回りに佇む赤の他人が自分に向ける、無関心な眼差しに。
クラスメートの顔は、未だ記憶にも残っていない。自分の隣や、前後の席に座る彼らのフルネームどころか苗字すらも、碌に思い出せない。人の顔を見て、話したことがなかったから。
人から嫌われていた訳じゃない。それどころか、嫌われないよう徹してきた。
――ほんとうざいよね。
――それな。死んでほしい。
人が向ける目が、悪意が、敵意が怖かったから。
――くっそ寝みい。
――どした?
――いや昨日徹夜したのよ。宿題忘れたの昨日気付いたから。
――まじかよ。
余計な発言や身勝手な態度を見せないよう気配を殺しながら、教師がプロジェクター越しに描くフォントの色をなぞって、液晶タブレットの上でペンシル型端末を走らせる。
――ていうかさ。英文法とかもう運ゲーでよくね?だいたい選択問題だし。
――えー?あ、でもなんか分かるわ。
――でしょ?それに、そもそも勉強って存在自体もはやぶっちゃけ運だろ。頭の良さだって結局遺伝だろ?親ガチャだろ?
――いやそれ言ったら色々と終わりだろお前。
ただ一心不乱に、周囲で度々囁くクラスメートたちの会話の声音を、雑音を遮断しようと必死に。
――起立
授業が終わるたび、何もすることがなくなる。
――礼
日直の声に合わせて、真正面に頭を垂らして、少し目を瞑る。
――空気読めよ。
――察しろよ。
何度か、そう言われたことがある。だからその通りに動いているつもりだった。
――今日の日直お前?黒板消してくれる?
――掃除当番サボるなよ。マジで。
教室という限りなく狭い空間でのみ適応される、無慈悲で不明瞭で馬鹿らしいルールであろうとも文句を言わず従ってきた。場の流れや空気感が定めた規律に、嫌な顔一つ見せずに順応してきたつもりだった。誰の迷惑にもならないよう、余計な行動をせずに、ただただ生きてきた。
――人に迷惑掛けるなよ。
――まずやるべきことやってからやれよ。
人から、社会から、世間から、求められるよう尽くしてきたはずだった。
――あー、うん。
――あ、そう。
――だから何?
――で?
それなのに、周囲の誰も、自分に興味を抱かない。話しかけてこない。
――邪魔だからそこどいてくれる?
――ごめん。普通に興味ないわ。
きっと、自分はそういう人間なんだ。人から興味を抱かれない、詰まらない人間として生きる。この世界に産まれる前から、きっとそうなる運命だったのだろう。
「ふざけるな」
机の上に伏せて、誰の耳にも届かないよう必死に声を抑えて、鹿芝は息を震わせた。
「なんで...」
なんで、俺は生まれてきたのだろう、と。そうやって、そんな疑問を胸の奥に焼き付けたまま、気がつけば、帰りのホームルームが終わりを告げていた。
賑わう教室の外へと少しずつ、点々と散っていく上履きの靴音が、スピーカーの発するチャイムの残響に紛れて、掻き消されていく。
「文化祭...か」
鹿芝は、どこか陳腐でひたすらに色鮮やかな装飾を施された校門を見上げて、漕いでいた自転車のペダルを止める。
その日は、年に一度の文化祭だった。クラスごとに出し物や展示を行い、部活に所属している場合はそれに因んだものを披露する、毎度お馴染みの学校行事。
「なんかもう、さっさと家に帰りたい」
そう一言、溜息混じりに呟いた。再びペダルを動かした自転車に引っ張られるように全身が前へと突き進む。滑らかなコンクリートで固められた校内の敷地を、度々ハンドルを切って駆け抜けていく内に、駐輪場まで辿り着いた。
「よいしょ」
止めた自転車のサドルから降りて、慣れた手つきで指先サイズの小さな鍵を引き抜いて、後輪の上に固定されたカゴの中にある学生用リュックの前側にある小柄なチャックを開いてそこへ仕舞う。
スマートフォンの待ち受け画面で時刻を確認する。
「午前八時十五分。あと五分でホームルームか」
電源ボタンを押し込んでスリープ状態にした端末をポケットに滑り込ませて、中学生用の昇降口まで駆け足で向かい、下駄箱の前で運動靴から上履きへと履き替える。
「あ。めっちゃポスター貼ってある」
ふと顔を上げて気付く。昇降口の扉、通路、階段の踊り場などといったあらゆる箇所の窓ガラスに張り付けられた、広告の数々。四角形に縁どられた薄く滑らかな感触を纏う紙面の上で、眩しい色どりのゴシックフォントが出し物を宣伝している。
「なんだ、あれ...」
二階にある三年二組の教室までの道のりにあるポスターの数々に目を通していくうちに、不意に目に留まったものがあった。
それは、明朝体のフォントでポスターの右上隅に黒く刻まれた、文芸同好会の五文字。
「文芸同好会。うっわ...なんか地味そう」
地味そう、というかポスターのデザインからしてもろ地味だった。図書館の風景を切り取ったような、ぼかしの入った写真画像のフリー素材が、もの寂しく紙面の中に飾られている。
「四階、協同学習室って...どこだ?」
ポスターを睨みつけながら、鹿芝はしばらく立ち止まっていた。
地味だけど、どこか、惹き付けられるものがあった。
朝のホームルームが終わり、各自自由行動の時間へと移った。
今年度のクラス、鹿芝の三年二組の出し物は美術の授業で制作した工作を披露する展示がメインの出し物となっているため、シフトに割り当てられた時間以外は必然的に自由行動となる。そのうえ、文化祭は土曜と日曜の二日間開催なので、時間の余裕はかなりある。その気になれば全教室の出し物を制覇しようと思えば出来なくもない。無論やらないが。
「四階...ほんとに四階?」
鹿芝は階段を昇り、辿り着いた最上階を左に曲がり目の前に続く廊下の奥を見据える。一番奥にある扉の向こうに音楽室、通路沿いに奥から美術室、協同学習室、高校専用職員室。地図上では確かにそのはずだが、いささか不安だった。
この校舎に自転車通学で通い始めてから三年近く経つが、その年月の中で協同学習室を使用した経験は一度もない。中学生が利用する教室と高校生が利用する教室は、それぞれが渡り廊下に隔てられる形で違う棟に分かれているためだ。
普段は訪れない、慣れていない場所で、独り。加えて、今日は文化祭。周囲には生徒だけでなく、十人十色の私服を身に纏う大人や別の学校の生徒がたむろしている。
「やっぱ、一人で来るんじゃなかった」
――人を誘おうとしたところで、結局、失敗を恐れて何もできない癖に。
胸の内で、そう呟く自分がいた。けれど、今できることをするしかないのが現状で、孤独が辛くても時間は流れるし、集団を巻き添えにしないためにも足を止めることは許されない。自分の言動には責任を負わなくてはいけない。他人の迷惑となる行動は慎まなくてはならない。
それが、至極当然の常識というものなのだから。
「あの、文芸同好会って...ここで合ってます?」
協同学習室の扉の前に立っていた、上履きの淵の色が深い緑であることからして高校二年生であろう少年に声を掛ける。
「そうだけど、見てく?」
「あ、はい。見ていきます」
鹿芝は、彼のワイシャツの背中を追って、教室へと入っていく。文芸同好会らしき生徒の人数は、見たところ四人。
展示物を並べるためか机と椅子は四隅に寄せ集められていて、中央に大きくスペースを空けている。正面から奥にある窓の付近には観葉植物が並び立っていて、手前側の壁面には文化祭さながらのポスターが貼られている。
広さは、通常の教室の二倍ほどだろうか。
「良ければこれ、一冊どうぞー」
見慣れない光景に目を奪われていると、鹿芝を連れてきた少年は並べられた机の上に陳列されたやや厚みのあるB5サイズ冊子の数々の中から、一番上の一冊を手渡してきた。
紺色の表紙は通常の印刷用紙よりも少しだけ堅くて、しわのような細かな凹凸が張り巡らされていて、その中央には「青い筆で書いた青春時代の一ページ」という題名。
その冊子の感触は、市販のものではない。束ねた数十枚の印刷紙を縦に揃えて、紺色の色紙で挟み込んで冊子の形に仕立て上げ、上下の端をホッチキスで止めてある。そのうえで、ホッチキスの痕跡を縦に覆うように黒色のカラーテープを貼りつけられている。
「へえ...」
冊子を開くと、そこには横書きのフォーマットで羅列された明朝体が数十ページに渡って刻み込まれていた。
鹿芝は自分が教室の中で、学校の中で、一生徒として校内にいることすらも忘れて、自分が今、生きていることすら忘れたかのように、無心に紙面の上で視線を巡らせた。
それしかできなくなった。
「凄い...」
やがて、冊子を閉ざす。
真っ白い印刷紙の中で無数に佇む明朝体フォントで象られた世界から、一瞬にして協同学習室の内装へと視界が変化し、引き戻される。
「これ、もしかして全部手作りなんですか?」
「そうだよ。全部で百冊」
「ひゃ、百...」
「これ全部を土曜の配布で捌くわけだから、日曜のを含めるとだいたい二百冊になるね」
「二百!?え?でもこの冊子色々テープとか、印刷する紙の量もかなりあるし...それ予算とか...」
「うんまあ途中から自腹になる」
鹿芝は、本心から絶句した。これ全部手作業でやるとか(そのうえ自腹とか)どんだけヒマ人集団なんだこの部活は、と口から出そうになって踏み止まっていた。
「文芸同好会って、普段は何やるところなんですか?」
「基本的に雑談だよ。もちろん執筆もするけど。大学でいうところのヲタサーみたいなアレ。な?須床」
鹿芝の質問に答えたのは、さっきまでの先輩ではない。その隣からひょっこりと現れた、スキンヘッドで紺色のセーターを纏う男子生徒だ(まあ男子校だから男子なのは当たり前だが)。
「うん。まあ、そうだけど。ちゃんと小説書くし、文化祭直前の時期になったら各自作った原稿を今みたいに冊子にして発表したりもする。ぶっちゃけ活動内容面じゃあかなりヒマな部活ではあるけど、つまらない部活なんかじゃないってことは保証できる...かもしれないかな」
最後の方で少し言葉を濁しながら、須床と名を呼ばれた少年ははにかんだ。
「そう?俺は結構楽しんでるけど。ラノベ漁りする時とかさ、一人でやっても楽しめるけどさ。こういう場所、教室の中とかで集まって、自分が読んでてここ面白いなって思ったとことか共有したり、自分の知らないジャンルの小説の魅力を聞いたりするのも、まあ割かし満更でもないんよ。だから、自分の興味とか動機とか関係なく楽しめる場所だと思う」
須床の肩に腕を回しながら、スキンヘッドの少年はそう述べた。
「なるほど。いいな、文芸同好会...」
視線を落として、鹿芝は口を噤んだ。前髪で瞳を隠すようにして。
「あ、もしかして文芸同好会に興味あったりする?全然いいよ!歓迎するよ!」
「お前、年下にそんな風に迫るなよ。もうちょいデリカシー持てって」
須床が目を光らせながら迫るところを、スキンヘッドの少年が制すると。
「はあ!?デリカシーの無さの権化みてえな土鯉さんには言われたくないですぅ!」
それに対して逆ギレを起こす須床。一瞬にして、もはや収集の付かない勢いでのやり取りとなった。
「あの...」
そこへ鹿芝がおずおずと割って入ると、須床は申し訳なさそうに笑みを浮かべながら振り向く。
「あ、ごめん。もちろん入る部活はその人の自由だから。ただ、もしも仮に入ってくれたら俺は凄く嬉しいし、歓迎するっていうだけの話。そんなに気にしないで」
「いえ、そういうことじゃなくて...」
鹿芝は、表情を強張らせた。会って間もない人にこんな話をしたら、迷惑に思われるかもしれない。
ただ、ここでそれを躊躇ったら。
「なんでもありません」
そんな葛藤も、反射的に遮ってしまう。
どうせ失敗するだろうという、予感が。
土壇場で成功を収めた覚えなど一つもない、他ならない自分自身の経験則が。
「それじゃ、俺はこれで」
協同学習室の空間に広がるその全てに背を向けて、鹿芝は廊下へと足を踏み出した。
「色々と、ありがとうございました」
低く、感情の起伏を抑え込もうと必死に鎮めた声音が、ドアの閉まる音と重なって響く。
文化祭の出し物は、退屈を紛らわせるには丁度いい。
射的や輪投げのようなミニゲームものも一人で十分楽しめるし、おやじの会が運営する焼き鳥屋のテントで腹を満たすことだって、一人で事足りる。デジタル技術研究部の自作レースゲームや、生物部の昆虫標本に、他校と比べてクオリティが頭一つ抜けて高いと評されるらしい、鉄道研究部の機械仕掛けの小型模型や鉄道にまつわる資料も、各々が一生に一度のみ抱く青春という存在がそこに刻み込まれているように思えて。
ただずっと、今の自分に似合うものとは思えなかった。
クラスの雰囲気に馴染めない、どこか浮いた空気感も。
人が目を合わす意味や、人が会釈をしたり会話の最中に頷く意味、人が笑顔を見せて感情を表現する意味が分からない自分自身も。
どうしたら人から求められる人になれるのか。
どうしたら人を理解できる人になれるのか。
曖昧で、不透明で、絶対的なそれは、たぶんそれは、大人になれば多少は分かるようにはなるだろう。
大学に進学したら、今のように同じ学級のクラスメートとして数十名が一つの部屋に押し込まれることもなくなって、自分の話したい人、自分のやりたいことにのみ触れることが許される機会も、きっと訪れるのだろう。
――でも、どうしてそれまで我慢しなければならないのだろう。
青春時代という期間は、人生というもの全体からしたらほんの一瞬に過ぎない。その瞬間で与えられた環境に恵まれていなかっただけなのだから、我慢していれば実際、どうにかなるのかもしれない。
――それでも、どうして諦めなければいけないのだろう。
人と関わることを。人と笑うことを。
「もう空も真っ暗だし、そろそろ帰るか」
人を友達と呼ぶことを。
「あ。水筒の中身、空になってる」
帰路に就こうとしていた爪先を方向転換させて、コンクリートの道を踏みしめて来た道の途中にある自販機の手前まで戻って。
「さて...どれにしよう」
自販機の白く光る照明が、辺りが闇色に染まっていることと相まって眩しく感じる。財布の小銭入れを開いて、百円玉と五十円玉を一枚ずつ取り出す。小銭を摘まみ上げたまま、自販機のラインナップを吟味する。
ミルクティー。カフェオレ。十六茶。麦茶。ピーチサイダー。コーラ。
「お前どれにするー?」
「えー、どうしよ。飲むなら炭酸がいいなー」
すると、隣の自販機に数名の学生が喧噪を引き連れて寄ってきた。
「炭酸なら俺はコーラ一択だわ。やっぱ最強っしょコーラ」
「あー、なんか分かるわー。王道枠って感じあるよねー」
不意に、彼らの会話する様を凝視していた自分に気付く。
慌てて視線を反らして、摘まみ上げていた百円玉から順々と自販機の中へと入れていく。飲料を選ぶ楕円形のボタンが青く光って、そこに指先を添えて、ふと。
「あれ?」
ピッ、と刹那に電子音が鳴って、取り出し口へと150mlサイズのペットボトルが落ちる低い音が響いて、お釣りの二十円の落下する金属質な音が鳴った。
気付けば、ボトルを取り出した頃には、隣にいた学生四人組はどこかにいなくなっていた。
「なんで俺、コーラ選んだんだろ」
ひとまずその場で、コーラのキャップを強く捻り、炭酸が隙間から漏れて噴き出す音と共に開封した。取り外したキャップを落とさないよう左手で包み込んで、慎重に飲み口を自分の口元へと近づける。
柑橘系特有の香りが鼻孔を突いて、未知のものに対する期待と不安の入り混じった複雑な感情が、胸の内をくすぐって。
「やっぱ、水道水にしよう。炭酸飲料って、普通のジュースよりも身体に悪いって聞くし...たかが130円くらい、間違って押しただけだし」
そう自分に言い聞かせながらキャップを閉めて、リュックの中に仕舞い込もうとして。
「あ」
背後から、声が聞こえた。聞いた覚えのある声だった。
「朝ぶりだよね?もしかして、今から帰る感じ?」
振り向いて真っ先に目に入ったのは、白いワイシャツの色。
「はい。ええと、確か...名前...」
見覚えのある、一人の男子生徒。今朝、文芸同好会の冊子を手渡してくれた、穏やかそうな少年だった。
「須床だよ、須床ユウヤ。夕焼けのユウと、夜でヤって読む。ところで、君ってもしかして自転車帰り?」
「はい。ここから大体二十分くらいです」
「いいなー、自転車。俺なんて宇都宮線通って帰ってるし、一時間くらい余裕で掛かるんだよね」
「そうなんですか。なんというか、大変ですね。そういや、須床さんはこんな時間まで何をしてたんですか?文芸同好会の出し物って、たぶんもう終わってますよね」
「あー、それはね。明日に配布する冊子を作る手作業等の準備でサラッと過労死しそうになってただけだし平気なんだけど、まあでもせっかくの文化祭だからサッサと帰るのももったいないなって思って、ちょっとうろついてたんだよ」
自販機の白い照明が、真横から殴るように視界へと刺し込むなか、上手く目を合わすことのできないまま、言葉を交わしていく。
「楽しいですか?文化祭」
「そりゃもちろん。少なくとも、教室で授業受けてるよりはずっと楽しいじゃん。どうしたの、急に」
「いや、なんというか...すみません。なんか、自分でも良く分からない。良く分からないんです。何もかも...分からないことだらけで...」
無意識のうちに、視線が地面の方を向いていた。俯いたまま、上手く言葉を発することのできないまま。
「まあ俺たちは学生だから、それは自然なことなんじゃない?」
「自然...ですか?」
「だってそうでしょ。俺はもう次の誕生日で大人になるけど、それでも、分からないことなんてものはまだたくさん、数え切れないほどある」
遠くから聞こえる喧噪が、男か女かも分からない声の群れが、静寂を阻害する。
「大人になる、か。でも、大人になってからじゃ遅いんじゃないかって...いつも俺、思ってるんです」
「遅いって、何が?」
「友達を作って、自分たちの話したいことを好きなだけ話して、思い出を共有するとか...そういうやつです」
「なるほどね」
不意に、須床が鼻から深く息を吸いながら背伸びをして。
「あー、それすっごい分かるわー!」
「そう、なんですか?」
どうやら、非常に共感してくれているようだった。鹿芝が須床は人と馴染みやすい性格だと捉えていたこともあって、少し意外にも思えた。
やがて、須床は姿勢を戻して、同じように向き合って、諭すような声音で語った。
「青春って、確かに人生で一度しか来ないし、大人になってからじゃ味わいようがないかもしれない。でも、そもそも青春ってそんなに重く捉えるようなものじゃないと思うよ。人と馴染めないと将来が不安になるのは当たり前だし、学校生活をどう過ごしたかって、たぶん一生、記憶から消えることは無いだろうけど」
「そう、ですよね...」
須床の言っていることは無責任だと、正直なところ思う。青春は重く捉えるべきことだ。大人になって後悔してからでは遅い。
「なら、俺...俺は」
だけど、彼の言葉を聞いて、少しだけ、自分の内側に湧く希望があった。
「大人になった後、俺はなりたい自分に変われるのかな」
「生きてる限り、自分は自分のままずっと続くよ。僕は僕のまま生きるしかないし、君は君のまま生きるしかない。物を食べて、寝て、身の回りにいる皆と変わらない生活をするうちはずっと、君は君のまま、変わることなく生き続けるしかない。なりたい自分なんて、本当はどこにもいないんだよ」
「どうしてそう言い切れるんですか」
反射的に、遮るように、鹿芝は尋ねる。
どうしてそんな咄嗟に口が動いたのかは、自分でも分からなかった。
「なりたい自分なんて、自分じゃない」
須床は薄く冷徹に笑みを浮かべて、けれど、その声音はどこか穏やかで。
「悩みも後悔も、その全てを含めて、君は君なんだから。人は自分以外の何かにはなれない。だからこそ、人は幸せになれる。悩みも後悔も、そしてそれを乗り越えた先にあるものも全て、君だけのものだから」
横殴りで降り注ぐ自販機の灯りが、目の端に真っ白く焼き付いて、光り輝いていた。
「うっわ、なんか冷静に考えて今日の俺、超イタいな!文化祭テンション怖いわ。あ、そうだ!俺もコーラ飲もっかなー!もうなんか一気飲みしたい気分だわ!不健康とか知らん!炭酸万歳!」
須床は懐から財布を取り出して、五百円玉を投入してボタンを押し、コーラのボトルを取り出す。
「俺も...飲もうかな」
自分の中で、何かが変わっていた。
四月が訪れ、新年度の一学期が始まった。
鹿芝は高校一年生になった。教室は別の棟に移るが、使用する体育館や食堂などの設備は以前と同じだ。ただ、中学に居た頃の自分とは確かに違うことが一つ。
「お。鹿芝くん」
「こんにちは、須床さん」
鹿芝は文芸同好会の一員となった。
二階にある一年F組の教室から四階まで階段で昇り、左に曲がった廊下の先にある協同学習室。そこで水曜日と土曜日の週二回行われる部活動が、鹿芝にとっての数少ない学校生活における楽しみだった。
自分と同じ趣味や目標を共有できる喜びも、今までよりも遅い下校時間、真っ黒く染まった夜空の色に沈むアスファルトの上を自転車のタイヤが滑り抜ける感覚の独特な爽快さも、その甲斐あって初めて知ったものだった。
「よっ、マサ」
「土鯉さん。今日も相変わらずゴツイパソコン持ってきてますね...これノートpcですか?」
「うん一応」
「でも、キーボードってどちらかというとサイズが小さくてキーが薄い方が打ちやすくないですか?」
「あー、マサのお気に入りのpcってキーボードが数ミリレベルでめっちゃ薄いやつか。でもあれ逆に打ちにくいと思うぞ。そこそこ厚みある方が良くね?良い音鳴るし」
鹿芝と土鯉が互いのノートpcを覗き込みながら論戦を繰り広げていると、そこに須床も近寄って会話に入ってきた。
「確かに高いキーボードは音が違うって言うね。まあ土鯉はシンプルにキー叩くのうっせえから高いやつ買ってもただの騒音にしかならんと思うけど」
「ああ、それ聞いたことあります。でもまあ、熱中して打ち込んでるときって自分のキー叩く音なんて気にならなくないですか?それに、別に土鯉さんに対して言ってるつもりとかじゃなくて純粋に、やっぱ音がうるさいと周りに迷惑掛かっちゃいますし、そういう面でも目立ちにくいの使いたいですね」
鹿芝がそう言うと、少し間を置いて須床は頷きながら。
「鹿芝くんってやっぱ他人想いなとこあるよね」
「分かるわー。何気にさらっとコミュ力発揮してそう」
「え?そうですか?」
二人が唐突に褒めてきた(?)ので微かに戸惑いながらも。
「そうそう。なんか変わったと思う。文化祭で初めて会ったときと、なんていうか雰囲気が違うし」
須床は感慨深そうに呟いて、追い打ちを掛けるように鹿芝を見据えた。
「でも、俺が変われたのはたぶん、この学校に自分の居場所があるお陰だと思います。自分と相性の合う人を見つけることって、簡単なようでいて凄く難しいことで、本当は望んでいなくても場の雰囲気を優先しなきゃいけない状況だってあるし...だから、本当に良かったなって、今だから俺はそう思える」
言い終えて、遅れて頬に熱が籠った。なんだか色々と小恥ずかしいことを口走っていたような気がしてならない。
「なるほど。なんか凄いなお前。急だったから若干急だなってなったけど、なんか凄い良い言葉だと思うぞ今の」
「そういう適当な褒め方すんのやめろ失礼だぞ」
しかし返ってきた反応が鹿芝の心境にもたらしたのは、彼らが普段通りの文芸同好会部員であるということ、それを伝えてくれる安心感だった。
思えば土鯉と須床の普段通りのやり取りも、最初こそ言い合いになる度に後輩目線として少しドギマギしていたが、今やそれに対して安心感を覚えるまでになっていた。
「さて」
愛用しているノートpcの左上にある電源ボタンを押し込んで、起動する。ブラウザを立ち上げて、執筆用サイトに画面上部のブックマークタブから飛んで、文書データを作成する。
「なんか書くか」
キーボードのFキーに左人差し指を、Jキーに右人差し指を添えて、ホームポジションに指の腹が触れる感触が伝わって、鹿芝の双峰が画面上のカーソルを捉えた、その刹那。
――code talker
文書データの先頭部に刻んだそのタイトルを視線がなぞったそのとき、凍り付いたように鹿芝の全身が挙動を失って、気付けば物の姿形全てが灰色に染め上げられ、須床や土鯉の姿も不自然な態勢で静止している。
「目を覚まして。鹿芝将鐘」
誰かの手が二つ、鹿芝の両頬を包んでいる。それは、どこか見覚えのある少女であり、どこか違う人物だ。襲撃者が至極石を使おうとしたときにそれを阻止した白装束の少女と、顔立ちが似通っている。ワンピースを身に纏っていて、色は同じ白。違う点は、髪がピンクではなく薄い空色であるということ。
そしてその少女は、ノートpcの液晶画面から姿を現していた。ノートpcを象る長方形の四隅に至るまで歪な色彩を纏い、発光している中から身体の上半分を這わせながらこちらへと、真っ直ぐに視線を向けているがしかし、鹿芝は上手く視線が合わせられなかった。目元が霧に覆われているかのように不鮮明で、分からない。
呆気に取られている鹿芝に少女は、言葉を放った。
「あなたは今、夢を見ている」
気付くとそこは、ただただ真っ白く、何もかもが鮮明で。
――協同学習室を映し出していた仮初めの幻想が崩れ落ちて、意識が覚醒した。
戦闘が終わり、静寂で満ちたその土地は荒れた地盤に敷かれていて、見るも無残な惨状ばかりが広がっている。
「マサカネ...?」
フィアはテルボーの屈強な掌の中で身動きの取れないまま、視線だけを向けて鹿芝の姿を見詰めた。彼は立ち並ぶ崩れ掛けの家々に背を預けて、沈黙したままうなだれている。
「奴のあらゆる箇所の骨が折れるのにも構わず、私の複製を一体も残さず斬り刻んでは、苦痛に悲鳴を上げながら嗤っていた」
白色の片手に包まれたフィアの体躯が、テルボーの目の前へと運ばれる。
「とても人間とは思えない情緒と狂気的な力を宿した肉体を持つ、怪物だった。五十はいたはずの部下も、いまやもう六体しかいない」
フィアは目に涙を浮かべて、震えた声で鹿芝の名を繰り返し呟いた。
「だが、もうこれで邪魔となる者はいなくなった。少年の死骸と、お前の身体を戦利品とし、我々はこれより帰還する」
テルボーの周囲で立ち並ぶ、部下の怪物たちはその号令に即して翼を広げ、羽ばたいた。
「俺...は...」
同時に、それを呻き声が遮る。
「俺は...俺は...俺は俺は俺は俺は」
よろめきながら起き上がる、鹿芝。その体躯に漂う気配は、彼の視線から垣間見える黒い殺意で敷き詰められたような、異様な狂気で満たされていた。
「『今...最高の気分だ』」
ノイズの声音と、鹿芝の声音、それらが重複して喉から放たれ、空気の振動となって広がった。
『禁呪・
同時に、鹿芝の背負う両翼は粘着質な輪郭を伴って蠢き、その肢体を布地で包むように覆い隠し、肉体の形に沿う様に収縮を始め、色彩を歪に流動させ始める。
―—そうして鹿芝の肉体は、翼との融合を終えた。
「なんだ...あれは...?」
テルボーは理解が追い付かず、瞬きを何度も繰り返した。そこには、異形と化した姿があった。それはもはや、人に属するものには見えなかった。
鳥のような形状の頭部。嘴を光らせ、漆喰のような色で塗り潰されたペストマスクに酷似した輪郭、真紅の色彩の浮かぶ双峰が二つ、
「あれは...浮いてる...?いやもはや...」
そして一瞬にして変異を遂げた鹿芝の背には、翼は無かった。
「あれはもはや、空中に立っている...」
なのに鹿芝の姿は、空中にあった。地面の上に二本足で立つのと同じ態勢で鹿芝は、空中にいた。
「何が、起きた...?」
骸骨のように骨身の突出した胴体と、神殿の柱のようにとぐろを巻いて歪にうねった、赤黒い色に染め上げられた細長い四肢。その所々の皮膚から黒ずんだ骨格が突き破っていて、良く見れば
そのとき。
「...消えた?」
鹿芝の姿を捉えていたはずのテルボーの視界には、ただただ地平線のみが描かれていた。
同時に視界を満たしたのは、どこか神秘的で狂気的な、雫が水面を打つ光景に似た波紋らしき事象の連続、透明色の空気の壁に無数に生じた、一瞬にして膨大な数の紋様。その全てを、点と点を線にして繋ぐようにして、鉄の壁に銃弾が跳ね返るようにして、鹿芝の全身がなびく残像。
(なんだ...この感覚は...)
テルボーは咄嗟に、投げ捨てるようにフィアの肢体を握り締めていた掌を離した。緩やかな風が全身を満たしたかと思えば、純白の肢体から赤い血飛沫が零れ落ちる。身体中の皮膚に無数の裂傷が薄く滲み、
それを認識すると同時に、背後へと振り向く。そこには、異形と化した鹿芝将鐘の姿が地面の上に佇んでいた。
「俺を攻撃したのは...爪か?」
鹿芝の指先から、左右の小指を除いた全ての指先から、鮮紅色の雫が滴り落ちている。彼の爪は淀んだ赤黒い色彩を宿し、そして槍の先端のように尖らせて、十数センチほど生え伸びていた。
「いや、それ以前にこいつはなぜ...生きている」
同時に、上空で浮遊していた怪物たちは、視線の奥で繰り広げられた現実に困惑すると共に殺気を
「ぶっ殺す!」
だが、それが届くことはなかった。
「『腐食呪印・爪痕』」
鹿芝の声は、嘴の端から零れたものでは無かった。空気がその意思に呼応して勝手に震え、その振動を音として伝播させたような声音。
途端、独りでに怪物の四肢が引き裂かれたように飛び散り、両翼がもげた。
「は?」
テルボーは視線を鹿芝へと向ける。彼は一切の挙動を見せることなくただ呼吸し、棒立ちしているのみだ。遠隔での攻撃手段はないはずだし、それらしい素振りもなかった。
「おい、何かおかしい!何かが、変だ!」
「なんだか...身体中が...」
「これは...爪跡...?」
上空に佇む怪物たちは、一斉にその違和感に気付いた。いつの間にか身体のあらゆる箇所に刻み込まれた裂傷。
「再生ができない...」
「嘘だろ...」
「なんで治らないんだよ...」
五本の爪痕で描かれたそれらが、徐々に真っ黒く変色すると共に皮膚の上で広がり、その奥で脈打つ血肉を徐々に露出させていた。
「痛い...痛い痛い痛い痛いいぃっ!」
「血が出る血が出る血が...血が...ああああっ!!」
「止まらない...なんで...なんでなんでえええぇっ!」
悲鳴を上げながら、爪の刻み付けた痕は怪物たちの身体を浸食し、やがて断裂した腕や脚、胴体や喉元が地上へと降り注ぐ。骨と肉の敷き詰められた断面を見せびらかして、血流と共に舞い踊る。
(上空の奴らにも爪の攻撃が届いている?あの...一瞬で?)
テルボーは、呼吸を荒げた。その首筋をなぞる爪痕から少しずつ血が溢れ出ては、やがて肉の断面を曝し、裂け目へと変化する。
(なぜ、血が止まらない。痛みが治まらない。身体が崩れ落ちる予感ばかり感じるのに、何も出来ない。痛くて手が動かない。ああ、痛い痛い痛い!血が落ちる。自分の血が、血液が...駄目だこれ以上失血しては、身体が壊れ—―)
手首が零れ落ち、足首が爆ぜて、脇腹と腿が粉々に、不可視の事象によって
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