第16話

 テルボーは、その小柄な体躯を取り囲むように地上に立ち並ぶ怪物たちと共に、周囲の惨状を目の当たりにしていた。

 南方の地平を見張る怪物たちは、その方面から飛来する短剣の切っ先を睨み、視線を反らさず全神経を鎖の軌道へと注ぎ、時にかわし、時に尻尾で叩きつけて回避していた。

 だが直後、その足元から地盤を砕く音が無数に弾けた。鎖が地中を突き破って頭身を現し、背後から怪物たちの胸元を通り抜ける。その光景を目で追う時すら満ちることなく、死の感覚が彼らの脳髄を塗り染めた。

 そして、北方の地平を見据えていた生き残りの怪物たちは、同志が血肉となって散る様に思考を凍結させ、ただただ恐怖に呑まれていた。飛来する鎖は宙を突き進むがまま、立ち並ぶ怪物たちの胸部を軌道上に捉える。

 辺りから次々とほとばしる断末魔に左右から鼓膜を貫かれる感覚。残った怪物たちは、苦痛に呑まれた。最期になるであろうこの瞬間に感じたのが、そんな絶望であることの、苦痛。焼けた涙腺るいせんが、その眼球を濡らす。

 しかし、その寸前、彼らの眼前を横切った樹木のように極太い何かが鎖を掴み取る。それは瞬時に鎖を手繰り寄せ、ジャラリと高い音を鳴らして糸が張ったように硬直させた。

「なるほど。これは凄まじいな」

 筋骨隆々とした、堅く太く変貌したテルボーの片腕だった。筋肉を帯びて膨張した両腕と胸筋を抱えた、純白の巨人。背の翼は巨大化し、球を描く柔らかな顔の輪郭は竜の頭のように隆起した、歪な姿。

「だが、私の『異形』を打ち破れるほどではない」

 空間を走る、野太い咆哮。それをテルボーの巨躯が放つと同時に、左右の剛腕が握り締める鎖を張り裂かんばかりに手繰り、引き寄せる。

 直後、鎖の根源、筋繊維の如く無数の鉄色が集約された先に広がる赤黒い両翼と、それを背負う鹿芝将鐘の姿が引きずられるように上空へと舞い上がった。翼の内側から噴き出る鉄の金属質な輝きで全身を埋め尽くされたまま、鹿芝は陽光の差した空色を背景に漂った。

「あれが、我々を襲った人間...子供か」

 テルボーが鎖を掴む力を込める程に、鹿芝は地上へ吸い寄せられていく。空の中で一つの点であった鹿芝の輪郭は、接近していくに連れて人の形を帯びていく。

「ん?」

 テルボーは、不意に目を細めた。視線の先にある翼の左右から新たに一本ずつ、短剣を構えた鎖が蛇のようにうねる軌道を描き、僅か数秒のうちに鹿芝の周囲を旋風のごとく駆け巡り、幾重にも交錯した。

「なんだ...?」

 それにより、体外に放たれていた数百の鎖が半ば一斉に切除された。生気を消失した鎖の群れは重力に抗うことなく、数百の鎖が束となって落ちる圧巻の様を上空から縦一直線になびく。耳障りな金属音を辺り一面中に響かせながら、淡くなめらかに赤黒い瘴気を吐き出して、鎖の群れは空の中で溶け落ちた。

「自ら鎖を断ったか」

 同時に、鹿芝の両翼が羽ばたくと共に斧が無数に散りばめられ、回転する小振りの斧の刃の土砂降りがテルボーの巨躯を呑み干さんとばかりに襲い来る。

「そんなもの、喰らわんよ」

 言葉一つを漏らして、テルボーは眼下に広がる大地を右の五指でえぐり、撒き散らす。土塊つちくれの砕かれる音が舞って、テルボーと鹿芝の視線が重なり合うその空間を砂ぼこりが塗り潰す。

 そして、テルボーがつま先からかかとまでを大地へと叩きつける。踏み鳴らす音が響くと共に全身の輪郭がその場から消失し、分厚い輪郭を纏った体躯が地平の先まで駆け抜けた。十数に及ぶ斧の斬撃は漂う虚空を断ち、地殻に亀裂を刻み込むのみだった。

「獲った」

 跳躍と共にテルボーは雷光が迸るかの如き速度を纏い、腕を振り上げた。土煙を裂いて翼を振るい、上空へと切り込む。肩をうねらせながら放物線を描き、眼前に迫る鹿芝の頭蓋へとそれを振り下ろした。

かわしたか」

 拳に手応えは返ってこない。鹿芝の姿がテルボーの視界を外れたかと思えば、周囲を埋め尽くす、星灯りのように細く鋭くきらびやかな刃先がテルボーの肢体へと放たれた。

「さようなら」

 鹿芝の視線の先で、十字に断裂したテルボーの頭蓋が空中を回る。真っ白い皮膚の奥、四肢の先端に至るまで無数に刺突が穿たれると共に、歪んだ肉体に斬撃が駆ける。そして、全身から鮮血が溢れ出て。

「え?」

 しかし、そこに現れた光景は異常な様だった。肉塊からは滲んだ血液の色が鮮紅色から淀んだ茶色に、泥水へと変化して溢れ返ったのは、粘った液状の土砂。

「にせ...もの...?」

 驚愕に意識が喰いちぎられ、混乱に咀嚼そしゃくされていく。そのとき、鹿芝は違和感の正体を理解した。土煙で自分の身を覆い隠していた間に、テルボーは自らの複製を生み出して真正面から鹿芝と対峙させ、本体は背後から奇襲。眼前の事象を知ったその時、全身の骨が軋む音と、背中に捻じ込まれる激痛を理解した。

「ご名答」

 背後から拳を受けた。落下の感覚と共にそれを認識した。空の中を突っ切るほどに風圧が額を叩き、空気を切る音が耳の穴を潜る。そのまま、意識が黒く染まって。

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